第五十二話 謁見
レイチェルはテレサの元に駆け寄り、その口元に瓶を近づけた。
琥珀色の液体に満たされた瓶だ。
はちみつのようでもあるが、得体の知れない薬を見て思わずノクスが止めた。
「おい、それは……」
「『世界樹の涙』よ」
「は?」
世界樹の涙。
その名の通り大陸の中心に聳える世界樹の樹液である。
一年に一度、世界樹の枝が折れる際、涙のように流れることからその名が造られた。
あらゆる万病を癒し、呪いを跳ね除ける力を持つ。
だがその希少さゆえに瓶一つで国一つ買えるような価値がついていたはずだ。
「なぜ母上が」
「ずっと探していたのよ。あなたの呪いを癒すために」
レイチェルはテレサに瓶を飲ませながら言った。
「先日ブルーアン公爵のオークションに出されたらしいんだけどね。証拠品として押収されていたものを拝借したわ」
「拝借……犯罪だぞ」
「どうせあとでうちが買い取るんだから同じことよ」
澄まし顔でとんでもないことを言う母親である。
尤も、テレサが嫁いでノクスを治療した為、これは治療が失敗した時の保険でしかなかったようだが。
「役に立ってよかったわ」
「……治るのか?」
「分からない。祈るしかないわね」
レイチェルが世界樹の涙を飲ませ終えた。
空っぽになった瓶が転がり、二人は固唾飲んでテレサを見守る。
先ほどまでほんの微弱な心音しか聞こえなかったが……。
どくんっ
「「!」」
心臓が脈打ち、テレサの体がひときわ強い光が放つ。
黒い靄のようなものが抜けていき、またたくまに血色がよくなった。
「テレサ……!」
すー……と落ち着いて呼吸を始めたテレサ。
息を吹き返したテレサを抱き上げて、ノクスは額に口付けを落とした。
「よかった……本当によかった……」
「間一髪だったわね……あとちょっと遅かったら間に合わなかった気がするわ」
ノクスは顔をあげた。
「母上……ありがとう」
レイチェルは目を丸くし、ふ。と微笑んだ。
「わたしは当たり前のことをしただけよ。息子夫婦のためだもの」
使用人たちが喜びを分かち合い、公爵家の雰囲気が明るくなる。
テレサがアリアであるという事実は伏せられ、ノクスはテレサを私室に運んだ。
これでもう大丈夫。
テレサが自分の前から居なくなることはない。
そう安心していたのにーー。
一日経っても。
一週間経っても。
テレサはいつまで経っても、目覚めることはなかった。
◼️
ーーアーカイム公爵家、私室。
「テレサはなぜ目覚めないんだ?」
「分かりません。医学的には問題ないはずですが……なにせ色々と前例がないものでして」
公爵家付きの主治医の言葉にノクスは顔を顰めた。
テレサの病気、世界樹の涙、心肺停止状態からの蘇生……
すべて前例がないため、現代医学の知識は役に立たないと言う。
熟練の治癒師なども呼んでみたが、身体には異常がなさそうだった。
ノクスはベッドに横たわるテレサの手を握り続けている。
その横で、白い聖衣を纏う治癒師が「もしかしたら」と口を開いた。
「魂に問題があるかも知れません」
「どういうことだ」
「私たちの治癒術というのは身体と魂に働きかけるんですが……テレサ様の場合、魂への手応えが全くなかった。まるで空っぽの器に力を注いでいるような感覚で……」
「……分かった。下がってくれ」
誰も居なくなった部屋でノクスは顎に手を当てた。
テレサの言葉を思い出す。
『身共は神に身を捧げた巫女ですから』
ことあるごとにテレサが言っていたこと。
『神を信じているのか』
『身共は実際に会ったことがありますからね』
不真実の中に隠されていた一つの真実。
「ーー神は実在する」
それはアリア・ランデリスが聖女になれた理由でもある。
茨魔法の使い手だった彼女が人を癒す術を手に入れたのだ。
人に力を与え、肉体の時間を止められる超存在がどこかに居る。
こんこん。
「ノクス? 気持ちは分かるけど少しは休んだほうが」
「そんな暇はない」
遠慮がちに入ってきたレイチェルを見てノクスは立ち上がった。
「行くところが出来た」
「どこに?」
ノクスは部屋を出る間際に振り向いた。
「神に会いに行く」
「は?」
レイチェルは真顔で言った。
「ノクス、頭は大丈夫?」
「まったくもって正常だ。問題ない」
「でも神様って……あなた、そういうの一番嫌っていたじゃない。神頼みしたい気持ちもわかるけど」
「俺は今でも神が嫌いだ。唾棄すべき存在だと思っている」
それでも、神は非実在の存在ではない。
アリア・ランデリスはそれを身を守って証明してくれた。
「テレサは神に会ったと言っていた。会える存在なのだ」
ならばどこから会えるのか?
神に会える場所なんて、この世界で一つだけだろう。
幸い、今日は満月だ。
『ここは神に一番近づける場所ですからね』
ノクスは一階にある礼拝堂に赴く。
呪いの治療のためにテレサが用意した魔法陣はそのまま残っている。
満月の光を受けた不気味な聖遺物の数々が、ノクスを歓迎するように鎮座していた。
「ノクス……」
「母上、誰もここに近づけないでくれ」
「分かったわ」
「もしも俺に何かあった時、公爵家を頼む」
「それは無理」
レイチェルは腰に手を当てて言った。
「公爵家はあなた達二人に託したのよ。必ず戻ってらっしゃい」
「……分かった」
ノクスは魔法陣の中心にしゃがみ込み、両手を当てた。
「行ってくる」
月白色の光が燦然と煌めく。
視界がブレる。世界がズレる。思わず目を閉じた。
光が収まり、目を開ければノクスは見知らぬ空間にいた。
「やぁ、待っていたよ。ノクス・アーカイム」
一面に青ぞらが広がった不思議な空間には石造りの玉座があった。
玉座には白い男が座っている。
その男はすべてが白かった。
顔もなければ身体も不確かで口元だけが三日月に広がっている。
白い靄が人の形を為して嗤っていると形容すべき状況。
「さぁ。君は何を望むのかな?」




