第四十八話 別れの言葉は切なく
目が覚めた時、彼が傍にいてくれたことに喜びを感じた。
その身体から呪いが消え去っているのを見て深く安堵したのだ。
その気持ちを自覚してしまった時、テレサは別れを決意した。
「いま、なんと?」
「お別れしましょう、旦那様。と言いました」
「なぜ……」
「なぜも何も」
テレサは苦笑する。
「よもや契約を忘れた訳ではないでしょう、旦那様」
テレサはベッドから起き上がり、私室に保管していた契約書を取り出した。
1、ノクスはテレサの活動に関して口を挟まず、金銭的な援助を行うこと
2、ノクスとテレサはお互いを愛さないこと
3、夫婦の関係は持たない。但しテレサは最低限の公務を行う
4、テレサはノクスの呪いを完治するまで治療する
5、この契約はノクスの呪いが完治すれば終了とする
「これは……」
「これは、なんですか?」
「……」
ノクスは黙り込んだ。
他ならぬノクス自身が提示し、二人で取り決めた契約だ。
「この契約はあなたの呪いを完治すれば終了する……確かに明記してあります」
「そう、だが」
ノクスは歯噛みした。
「お前は、そんなにも俺が嫌なのか」
「そんな話はしていません」
(嫌じゃない。むしろあなたとの関係は心地よかった)
「だったらなんの話だ」
「決まっているでしょう。別れ話です」
ノクスのことを悪く思う訳ではない。
むしろテレサは、彼の心根に惹かれてしまっている。
起き抜けに感じた安堵がその証拠で、テレサの偽らざる気持ちだった。
だからこそ。
「あなたは、身共と結ばれるべきではありません」
(私はもう、あなたと一緒にいられないから)
神と結んだ契約終了の時はすぐそこまで迫っている。
待ち望んだ復讐は終わり、引き延ばした最期が待ち受けている。
「身共は契約を果たしたのです。今度はあなたの番では?」
(私なんかを想わないで。あなたは幸せになってよ)
テレサだって、いつまでも鈍感ではいられない。
ノクスが契約妻に対して向けるべきではない感情を抱いていることは、とっくに分かっていた。分かっていても気づかないふりをしないといけなかった。だって自分は、もうすぐ居なくなる女だから。
「俺は……っ」
ノクスは何かを言おうとテレサに手を伸ばした。
掴んだ手は温かく、テレサの手は冷たいままだ。
あの時から時間の止まった手。
それは死人の冷たさを纏っていた。
「どうしても、別れたいのか」
「それが契約ですから」
「……」
「旦那様は、口先だけで行動しない貴族ではないと思っています」
口先だけの貴族はノクスの何よりも嫌いなものだ。
契約違反、他人の意思を踏み躙り、理不尽に他者を搾取するーー。
テレサは今、ノクスの言葉がそれと同じだと暗に言った。
(ごめんなさい。あなたはそうじゃないと分かってるけど)
怒るだろうか。
怒るだろうな、と思う。
自分が大事にしているものを踏み荒らされて怒らない人間なんて居ない。
もしも自分が同じことを言われたら絶対に許さないだろう。
泣き叫んで頭を垂れさせてごめんなさいと言わせるに決まってる。
けれどーー
「……そう、か」
ノクスは怒らなかった。
ただただ目を逸らして、悲しそうな顔をしていた。
「……ぁ」
言いたいことを呑み込んで、自分の想いに蓋をして。
そうして全部自分で抱えてしまう彼の弱い一面がそこにあった。
「……っ」
テレサは思わず手を伸ばそうとして、拳を握った。
馬鹿か。自分にそんな資格がどこにある。
彼の手を取る資格なんて、自分にはないんだからーー。
「それでは、契約は終了ということで」
ーービリビリッ!
テレサはノクスとの契約書を真っ二つに破った。
続いて半分になったものを折り重ね、それも破った。
粉々になった紙切れは風にさらわれて、ふわりと二人を隔てる。
この契約は二人の絆の証だった。
この行為は、テレサにとっての別れの合図。
「今までありがとうございました。アーカイム卿」
「……」
「もう三日ほど滞在したのちに出ていく予定です。ご容赦を」
「……あぁ」
呆然としたノクスはとぼとぼと扉を開ける。
私室を出ていく前に、ちらりと振り返った。
「……元気でな」
「はい。アーカイム卿も」
ノクスは出て行った。
ばたん、と扉の閉まる音を聞いたテレサは崩れ落ちた。
行った。
行ってしまった。
「ごめん……ごめんなさい……」
ぽつり、ぽつりと雨が降る。
降りしきる雨音に、テレサの嗚咽はとけていった。




