第四十七話 ノクスの気持ち
アーカイム公爵家の廊下には痛ましい雰囲気が流れていた。
まるでお葬式の時の空気のようだ、とエマは思う。
主人である聖女テレサが寝込んでから二日……。
公爵邸はずっとこんな空気だった。
「せっかく明るくなってきたのに」
食堂で食事を受け取りながらエマはため息をつく。
テレサが変えてくれた明るい場所が、元々の陰鬱で冷たい場所に戻ってしまった。
(早く良くなってくださればいいけど)
エマはテレサの私室の前に立ち、深呼吸する。
丁寧に扉を叩くと「誰だ」と中から男の声が返ってきた。
「エマです。ご主人様。お食事をお持ちしました」
「要らん。帰れ」
「ですが、もう丸二日も何も食べていらっしゃらないです。いくら丈夫なご主人様でもお身体に触ります」
「要らん。次に言えばクビにするぞ」
エマはため息をついて首を振った。
これだ。テレサが寝込んでからノクスはずっとこうだった。
誰がどう何を言っても、彼の心はずっとテレサの元に向いている。
(あんな風に張り付いていても、奥様が目覚めるわけじゃないのに)
エマがその場を後にすると、廊下の角から執事服の男が現れた。
元傭兵執事はエマが運ぶ食事を見て表情を曇らせる。
「閣下は相変わらずか」
「はい。にべもなく……」
「そうか。仕事も溜まっているのだが……無理もないな」
ノクスはテレサと出会って間違いなく変わった。
冷たい雰囲気は柔らかくなった。使用人たちに挨拶をするようになった。
抜き身の刃のような男が、初めて収まる場所を見つけたようだった。
そんな男が心を許した唯一の相手がテレサなのだ。
テレサはノクスのために全霊を賭して呪いを解いた。
それは二十年以上呪いと向き合っていたノクスにとって記念すべき時であり、これ以上ないほどの喜びを得られるはずだったーーその代償に、テレサが倒れなければ。
「皮肉ですね。誰よりも触れたいと思っていたひとが、自分の望みのせいで倒れてしまうなんて」
ぽつりと呟いたエマの言葉は、冷たい廊下に解けて消えた。
◼️◼️◼️
聖女付き侍女を追い返したノクスはテレサのベッドの横にいた。
薄い胸を上下させて寝台に横たわる契約妻はぐっすり眠っている。
白魚のように細い手を握っても、彼女から体温を感じなかった。
確かに生きているのに、凍ったまま生きているみたいだ。
「テレサ……早く起きろ」
二十年以上切望した呪いの治癒。
どんなことをしても治してやると息巻いていたのに、いざ治ってみると、ただ虚しいだけだった。ようやくこうしてテレサに触れ合えるようになったのに、その彼女が眠っているままでは意味がない。
「お前が居ないと俺は……」
最初は目的のための手段でしかなかった。
誰にも癒せなかった呪いを癒して、それで終わりの関係。
互いの利害が一致した契約関係は人を避けるノクスにとって丁度よかった。
次に興味を抱いた。
冷たくて陰鬱だった公爵家の雰囲気を変え、虐めを仕掛けてきた使用人の心を折り、使用人たちに忠誠を誓わせてしまう彼女に興味を抱いた。一体どんな人間ならばそれを成し得るのかと。
だんだんと、テレサから目が離せなくなった。
この忌まわしい呪いを勲章だと言ってくれた。
誰もが恐れる自分に躊躇なく寄り添ってくれた。
母との確執をなんとかしようと、怪我をしてまで背中を押してくれた。
彼女の秘密が気にならないと言えば嘘になる。
聖女になる前の過去が分からないのもそう。
テレサ・ロッテとアリア・ランデリスの関係は未だ謎のままだ。
けれども、そんなことはどうでもいいと思えてしまう。
テレサが側に居てくれるなら、それだけで満たされる自分がいる。
「お前が居ないと俺は……生きていけない」
「大袈裟、ですね。旦那様」
ノクスは弾かれるように顔をあげた。
「テレサ!?」
薄目をあけた聖女が儚げに微笑んでいる。
「どうも、おはようございます。熱心に手を握っていただいて契約妻としては嬉しい状況ではありますが、それはそれとして、そろそろお離しいただければと」
「おま、お前っ」
ノクスは手を離さず、むしろきつく握りしめた。
彼女が生きている。その実感を噛み締めたかった。
言いたいことが山ほどある。
問い詰めたいことが山ほどある。
それでも。
喉からあふれた、言葉にならない想いの欠片を呑み込んだ。
「待ってろ。すぐに医者を呼んでくる」
「はい。お願いします」
「いいか、待ってろよ。大人しくしておくんだぞ」
ノクスはテレサに言い含めて医者を呼びつけた。
彼女がいつ目覚めてもいいように、公爵家付きの医者には客室で休ませてあった。すぐに医者が飛んできてテレサを診る。もう大丈夫でしょうと言った時、安堵で崩れ落ちてしまいそうだった。
「しばらく安静にしてください。良いですね?」
「はい。かしこまりました」
医者の診断を終えると、ノクスは言った。
「二人で話すことがある。席を外してくれ」
医者や使用人たちを排し、ノクスはテレサの横に座る。
こめかみを揉みぐしているとテレサは心配そうに言った。
「旦那様、目の下のクマがすごいですよ。ちゃんと寝ていますか?」
「寝ていない。誰のせいだと思ってる」
「いひゃいです。ごめんらさい」
少しの恨みを込めて鼻を摘んでやると、テレサが降参を宣言。
降伏した契約妻が鼻を押さえているのを見てノクスは心が和んだ。
本当に、目覚めてくれてよかった。
「テレサ」
「何ですか」
「お前の秘密が何なのか問いただすつもりもない」
「え」
テレサが驚いたような顔を見せた。
ノクスは続けて、懇願するように言った。
「だから……無茶をしないでくれ」
「……」
「これ以上、俺のために怪我をするのは見たくない」
自分のせいでテレサが倒れてしまった時、息が止まるかと思った。
高熱に浮かされているテレサを見た時、なぜ自分じゃないんだろうと思った。
なぜテレサが倒れて、自分が元気でいるのだろうかと。
あんな想いは、もう嫌だったのだ。
「お優しいですね。旦那様」
テレサは微笑んだ。
「あなたの噂を聞き、実際にあなたに会って噂通りの男だと思いましたが……全然違いました。あなたはとっても優しいひと。誰よりも優しくて、自分と他人に厳しいだけなんですね。素敵な方です」
「いや、俺は……」
「そんなあなたなら、きっと惹かれる異性は多いでしょう」
ノクスは息を呑んだ。
抗議するようにテレサを睨みつける。
「……お前以外に好かれても嬉しくない」
「嬉しい、嬉しくないの問題ではありません」
会話の歯車がズレているような気がした。
テレサとノクスは同じことを話しているようで、向いている方向は違う。
そのズレを治すための術を、ノクスは持たなかった。
「高貴なる者には大いなる義務を。あなたには然るべき方と婚姻を結ぶ義務があります」
「は……?」
「あなたは言いましたね。この呪いが解かれし時、それが身共たちの関係の終わりであると」
ノクスは目を剥いた。
「待て、違う。待ってほしい」
「いいえ、待ちません」
テレサは有無を言わさず言った。
「身共は契約は果たしました」
決定的な言葉を。
「お別れしましょう、旦那様」




