第四十五話 聖女様の願い
かちゃ、かちゃ、と公爵家の食堂に食器を動かす音だけが響く。
黙々と食事を進めるテレサは肩にのしかかる気まずさを感じていた。
(うぅ、昨日あんなにみっともなく泣いちゃって恥ずかしい……絶対怪しまれた……)
まさか実の兄に会ったなんて死んでも言えず。
ノクスは何も聞かないと言ってくれたものの、恥ずかしくていたたまれない。
テレサはちらりとノクスを見る。
「あの……」
「今日は何をする予定なんだ?」
「えっ、あぁ。今日は教会の治療所でお勤めです」
「そうか」
ノクスは頷いた。
あんなことがあった後だというのに、彼はいつものままだ。
いや、むしろ以前よりも眼差しが柔らかくなっている気がする。
きゅん、と胸が疼いた。
慌てて目を逸らし、手櫛で髪を整え、そっと視線を戻すと、彼は言った。
「教会までは送る。帰りはいつもの時間か?」
「はい」
「わかった」
ノクスは優しく微笑んだ。
先日の一件などまるでなかったことのような柔らかな態度である。
テレサは思わず目を丸くしてしまった。
(今この人、送り迎えするって言った?)
ノクスは以前、テレサが教会に行くと言った時は見向きもしなかった。
彼自身が教会嫌いだし、神も信じていない無神論者でもあるからだ。
王都の公爵家から教会までそう遠くにあるわけでもない。
馬車で行けば十分ほどで着くのに、送迎までしてくれるなんて……。
「あの、別に一人で行って帰れますけど……?」
「王都には危ない奴も多い。俺がいたほうがよかろう」
「公爵家の家紋がついた馬車に手を出す馬鹿がいると……?」
「別に、手を出すのが無頼漢とは限らんからな」
「?」
どういう意味だろう。
首を傾げると、ノクスはため息を吐いて目を逸らした。
「お前が俺を拒んでも構わない。だが他の男に触れさせたくない」
「え」
「……それぐらいは、許してくれると助かる」
机に肘を乗せて手のひらの上に顎を乗せる。
目を逸らしているし、口元を隠してはいるが、その耳元が赤くなっているのは丸わかりだ。久しぶりに見るノクスの可愛い一面を見ると、テレサは嬉しいやら気恥ずかしいやらで、反応に困ってしまった。
「そ、そうですか。別に、許すも何もないかと思いますが……」
「どういう意味だ」
「身共は旦那様の妻ですから」
実態はどうあれ。
「だ、旦那様以外に触らせる気はありません。それだけです」
(私はそんな安い女じゃないもの。当然のことよ、うん)
あなたの想いは受け入れられないけど、今の関係は尊重したい。
言外にそう告げたテレサにノクスはぽかんと呆けた。
じわじわと、乾いた土に水が染み込むように。
「……そうか」
心なしか嬉しそうに、ノクスは言った。
「それならば、いい」
「はい」
「だが送迎はする。構わないか?」
「えっと、はい……よろしくお願いします」
「ん」
使用人たちから生暖かい視線を受けて二人は目を逸らす。
気まずいわけではない。ただ気恥ずかしいだけだ。
(うぅ、こんなのまるで付き合いたての恋人同士じゃない……いや私、ジゼルとこの人以外の殿方を知らないから分からないんだけども……)
ちらり、とノクスを見る。
夜色の瞳とばっちり目が合い、二人は同時に目を逸らした。
「……食事が済んだら、行くか」
「はい」
(契約結婚だったはずなのに)
互いを利用し合う、愛のない関係。
今がどんな関係なのかは、テレサにわからない。
(なんか、ちゃんと顔が見れないわ……)
ただ高鳴る心臓の鼓動を聞くまいと、そっと耳を塞ぐのだった。
「では、また夕方にな」
「はい。旦那様もお気をつけて」
教会の入り口から公爵家の馬車が走り去っていく。
テレサは馬車が見えなくなるまでその場に佇んでいた。
「奥様、愛されていますねぇ」
にまにま、とテレサの横で笑うエマである。
「そ、そうですか?」
「当然ですよぅ! 旦那様のあんな顔、見たことありませんもん!」
そうだろうか、とテレサは思う。
そうだろうな、と考え直した。
ノクスはこれまで『呪い』のせいで他者を触れあう機会がなかった。
誰からも恐れられ、嫌われ、避けられてきた。
気の合う友人たちも居ただろうが、真の意味で彼らと分かり合えることはなかっただろう。
(あの人はきっと、勘違いしているだけだわ)
何もノクスの特別はテレサだけではない。
たまたま彼を治療したのがテレサなだけで、他にも彼を慕う者はいるだろう。
これから、どんどん増える。
そうなったとき、彼は今のようにテレサを気に掛けるだろうか。
あと半年も経たずに消えることが決まっている女を……愛してくれるだろうか。
ありえない。
だがテレサも女だ。
ありえない未来を夢想せずにはいられなかった。
(もし私が、あの人の妻になったら……)
きっと楽しいだろうな、と思う。
ノクスは不器用で言葉足らずで、誤解されるようなことばかり言うのだろう。それで彼の本心を見透かして、笑って、怪我をした彼の手をそっととる。今日もお疲れ様でした。頑張りましたね。労いの言葉をかけると彼は恥ずかしそうに目を逸らして、暖炉の前で二人、そっと肩を寄せ合うのだ。
(もし、最初から……)
どうしても考えてしまう。
テレサが初めて婚約したのがジゼルではなくノクスだったなら。
クリスティーヌに目の敵にされることもなくなり、ブルーマン公爵がランデリス領を実験場にすることもないだろう。両親は生き、兄はテレサを泣いて送り出す。テレサはノクスの良き理解者として、よい妻になれたかもしれない。誰も傷つかない未来があったのかもしれない。余命は少し短かったかもしれないけど、最期まで笑って生きられたはずだ。
(何も考えず、ただの女としてあなたを愛してみたかった)
聖女様には秘密がある。
聖女様は気になるひとがいる。
その人の想いに、応えられないと知りながら。




