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第四十三話 兄妹の再会

 


「奥様、お茶が入りましたよ~♪」

「ありがとうございます」


 穏やかな日差しが公爵家の中庭を照らしている。

 まるでテレサの道行きを照らす祝福のようだ。

 東屋に吹き込む風が心地いい。テレサはエマの淹れたお茶に口をつけながら思考を進める。


 ──サンタ・ベルク号の事件から数日経った。


 ブルーマン公爵の悪事と正体は全世界を駆け巡った。

 裏社会を支配していた巨悪の凋落はさまざまなところに影響を与えるだろう。

 テレサに最も身近なところで言えば、第一王子の巨大な後ろ盾が消えたことだ。


(奴らの影響力は格段に落ちる。早い人はもう派閥を離脱し始めてるし)


 既に立太子された身だが、それはブルーマン公爵の財力と権勢あってのものだ。まだ将来の即位が約束されたわけではないし、どう転ぶか分からない。少なくとも第二王子派がここぞとばかりに勢いづき、公爵の勢力を政界から追い出していると聞く。


(待っていなさい。次はお前たちよ)


 もはや彼らを守るべき猟犬はいない。

 どれだけ派手に動いたとしても彼女は本懐を遂げるだけだ。

 もうすぐ終わる──そう思うだけでテレサは胸がすくような思いだった。


「エマ、お茶のお代わりをもらえますか」

「はぁい…………あ」

「ん?」


 エマが慌てて下がったのを見てテレサは振り返る。

 玄関から歩いて来たノクスが東屋に入った。

 じろりとこちらを見下ろす夜色の瞳。

 周囲に威圧感を与える彼が怒っているわけではないとテレサはもう知っている。


「一緒にいいか」

「えぇ、どうぞ」


 テレサの向かい側にノクスが腰を下ろした。

 侍女がお茶を入れると、彼はカップを持ち上げてひと息つく。


「……美味いな」

「あ、ありがとうございます」


 旦那様が褒めた!?と侍女たちの声なき声が聞こえるようだ。

 ずいぶん柔らかくなったな、とテレサは思う。

 彼と初めて出会った時は抜き身の刃のような男だと思ったものだが。


「ふふん、そうです。エマのお茶は美味しいんです。いいでしょう」

「あぁ。これからもご相伴に預かるとしよう」


 これからは頻繁にテレサとお茶をすると宣言して侍女たちが色めき立つ。

 こんな時にまで仲良しアピールをしなくても……。

 テレサが呆れ混じりに見ていると、ノクスはス、と手を挙げた。


「悪いが少し二人にしてくれ」


 テレサが侍女たちに頷き、東屋はまたたくまに二人になる。

 静かだ。ノクスは口を開かず、腕を組んでじっとしている。


 機を見計らっているような契約夫のカップは空だった。

 テレサはティーポットを持ち上げた。


「えっと、お茶のおかわり?」

「……いや」


 ノクスは首を振った。


 ──あの日。


 テレサがアリアになっていたことをノクスは覚えていない。

 海に落ちたことは覚えていたが、彼が目を覚ましたのは避難船の仲だ。

 クラインには何か言いたげな目で見られたが。


(何の用かしら。この人が用もなく来るとは思えないけど)


 ノクスはいつになく無表情だ。

 心なしか、ノクスの顔は強張っているように見える。


「お前に会わせたい者がいる」

「会わせたい人……?」

「あぁ。うちの応接室に呼んであるから、来てくれないか」

「かしこまりました。ちなみにその方はどのような……?」

「俺の、まぁ友人のようなものだ」

(友人……このひとに友人なんてものが存在したのね……)


 いや、特務騎士団の者たちに慕われていることを考えればいてもおかしくはないか。


「では行こう」


 応接室に行くと、二人の男がソファに隣り合って座っていた。

 一人は目深いフードをかぶっていて顔は見えない。

 もう一人は金髪の騎士だった。

 顔立ちは整っているが、服を着崩してる様が軽薄そうな印象を抱かせる。


「初めまして、奥様。俺はノクスの下で働いてるミシェル・アートンです」

「お初にお目にかかります。テレサ・ロッテと申します」


 テレサはノクスを横目に見るが、彼は小さく首を振った。

 どうやら会わせたいのはこちらの男ではないらしい。

 では、今もフードをかぶっているあの男がーー?


「あの、そちらの方は……?」

「お初にお目にかかる。聖女様」


 フードの男が立ち上がり、テレサの前に立った。

 ゆっくりとフードが取り払われ、その顔貌が露わになる。


「え」

「俺はエンシオ・ランデリス。以後よろしく頼む」


 赤髪短髪の精悍な顔立ちだ。

 雨色の瞳は柔らかくて、見る者を安心させる力を持っている。

 幼い頃から、テレサはこの人が自分を見つめてくれる目が好きだった。


(お兄様……)


 ごくりと唾を呑む。

 緊張で汗が滲む。心臓が爆走して破裂しそう。


『君はもう、二度と家族と会うことは出来ない』


 あの時、ルナテアはそう言った。

 テレサは構わないと答えた。

 それから一度も、家族の姿を見たことはない。


 でも、まさかこんな形でーー


「……っ」


 兄との思い出が走馬灯のように脳裏をかけめぐる。


『どうしたアリア、なんで泣いてるんだ!? お前を泣かしたクズはどこだ!』

『ほら、好き嫌いせずに食べろ。代わりにこれやるから。好きだろ?』

『お前は気が強いくせに泣き虫だからなぁ。放っておけないよ』


 雷が怖い夜に一緒に寝てくれた。

 お父様に叱られたあと慰めてくれた。

 いつも優しい言葉をかけてくれたわけではないけれど、泣いているアリアのすぐそばにいて、何も言わずに寄り添ってくれる優しさが心地よかった。


「久しぶり。元気そうだな」

「おにっ」


 感極まったテレサは今にも抱きつこうとして、


「ーーとは、言えそうにないな」

「……ぁ」


 エンシオは困ったように眉根を寄せてテレサを見ていた。

 久しぶりに会ったと思って声をかけた人間が、まったくの別人だった時のように。


「ミシェル。悪いが、彼女はうちの妹じゃない」

「そう……すか? 髪色が違うだけでは?」

「いや、顔立ちから体型もすべてだ。単なる変装とは違う……俺が愛する妹を見誤るものか」

(……そう)


 テレサは神ルナテアがほくそ笑んでいるところを幻視した。

 兄の後ろで人形師のように両手を広げ、口元を三日月に広げている。


(二度と会えないって、こういうことなのね)


 ミシェルは絶対にテレサをアリアだと認識することが出来ない。

 たとえどれだけ思い出を語り、言葉を重ねても、彼には通じないだろう。

 顔も、仕草も、心も、認識も、アリアの家族はすべて歪められている。


「いやでも! もっとよく見てください。似ているところはありませんかっ?」

「ない。彼女はまったくの別人だ」

「……旦那様が会わせたい方って、ランデリス家の方だったんですね」


 心が、痛い。

 膝から力が抜けて崩れ落ちてしまいそう。


「もしかして、身共をアリア・ランデリスだと疑っていらしたとか?」

「……馬鹿馬鹿しいとは思ってる」


 ノクスは目を逸らした。


「だが先日の一件で……お前がアリアの格好に変わるところを見たという者がいてな。ミシェルが彼を連れてくることもあって、勘違いであることを証明しておきたかった……すまん」

「まぁ、何を謝られるんですか」


 いつかはバレると思っていた。

 いや、ミシェルなどは今でもテレサから目を離さないでいる。

 まだ疑われていることを考えれば、今やるべきことは一つだった。


「ランデリス様は、アリア様のことが大好きでいらしたのね」

「え、いや、そんなわけじゃ!」


 テレサがじっと見つめていると、エンシオは観念したようにため息をついた。


「あいつは昔から、体を壊しがちだったから。そのくせ気が強くて危ないことも平気でやるし、放っておけなかったというか……甘えてくる時のあいつは、それはそれは可愛かったんです」

「そう、ですか」


 テレサはくすりと微笑む。


「妹思いなんですね。アリア様とは連絡も取ってないのですか?」

「アリアは……もう死にましたから」

「……会えるなら、会いたい?」

「もちろん」


 エンシオは恥ずかしそうに笑った。


「会えるなら全財産差し出してでも会いたいですよ」

(……お兄様。私はここにいるよ)

「会って、抱きしめてやりたい。頑張ったな。えらいぞって」

(私を見て。私を抱きしめて。優しくて頭を撫でて。それで……)


 じわりと視界が滲んだ。

 優しくアリアを語る兄が見ているのは自分ではなく幻想のアリアだ。


 彼にとってアリアはもう会えない人で、死んだ人間で。

 彼が会いたいと思っているのは、目の前の人間じゃなくて。

 だからーー


「とても、妹思いな方なのですね」

(いっぱい、甘えさせてよ。お兄ちゃん)


 堪えきれず流した涙に、その場にいた男たちはギョッとした。


「ど、どうしました!? 俺なにか変なこと言いました?」

「先輩……」

「怖い顔で睨むなノクス! 俺は何もしてねぇだろ!?」

「あーあ。エンシオ先輩がまーた女を泣かせてら……」

「お前らなぁ!」


 大粒の涙をこぼすテレサの肩をノクスがそっと抱き寄せた。


「どうして、泣いてるんだ?」

「ぐす。別に……ただ、美しい兄妹愛に感動してしまいました」

「そうか」

「何も、聞かないんですね」


 エンシオを見て突然泣き出す妻に問いたいことはたくさんあるだろう。

 あるいは先日の事件の時の証言のことを聞いてもいい。

 自分で言うのもなんだが、テレサ・ロッテという人間は素性の知れない女だ。

 アリア事件を捜査し、今もアリアを追う彼なら聞いてもおかしくはないが。


「聞いて欲しいのか?」

「……いいえ」

「なら、別にいい」


 ノクスはただ肩を抱きしめるだけだった。


「お前の秘密を無理に暴くつもりはない」

「……」

「ただ」


 ノクスはぽつりとつぶやいた。


「その重荷を分けてもいいと思ったら……いつでも頼れ」

「……はい」


 優しさがの雫が心に落ちて、波紋のように広がる。

 それはかすかな疼痛をテレサにもたらした。


 この人が気にかけているのは聖女テレサであって自分ではない。

 五年間作り上げてきた偶像は、誰にでも愛される天使だ。

 本当の意味で自分を見てくれる人なんて、どこにもいない。


 だけど、もうすぐ。


(もうすぐ、全部終わるから)


 テレサは涙を拭いて、笑った。


「身共は聖女なのに、旦那様はまるで告解を聞く修道士のようですね」

「あんな奴らと一緒にするな」


 トン、とテレサはノクスに頭を預けた。


「ありがとうございます、旦那様」

「……ん」

「身共は必ずあなたの呪いを治します。ですから、その時まで……どうか」


 どうか、このままの関係でいられますように。



 ◼️



「悪かったな、役に立てなくて」


 公爵家をあとにしたエンシオは王都を歩きながら言った。

 隣国から彼を連れてきたミシェルは気まずげに頭を掻く。


「こちらこそすみません、無駄な希望を見せてしまって」

「別にいいよ。最初からアリアが死んでいることは分かっていたから」

「本当に別人なんすかねぇ」

「しつこいな。彼女は別人だよ。アリアとは似ても似つかない」

「……だったら」


 ーーだったらなぜ、あんな顔をしたんだ。


 ミシェルは喉元まででかけた言葉を呑み込んだ。

 こう見えて数々の女を相手にしてきたミシェルは女性が嘘をついているのが何となく分かる。聖女テレサがエンシオを見て流した涙は、紛れもなく本物だった。


(間違いなく聖女様は何かを隠してる。でもそれはなんだ……?)


 エンシオを見つめるテレサの瞳は様々な感情があって、表情から考えを読み取ることは出来なかった。それでも、聖女テレサがアリア・ランデリスではないと決めつけるには状況証拠が揃い過ぎている。


(クラインの証言もある。一体何がどうなってんだ?)

「それにしても綺麗だったな。聖女テレサは」


 エンシオは公爵家に振り返りながら言った。


「あれほどの美女はなかなかいない。ずいぶん親しげな様子だったし、お互いに慕っている感じだった。いい嫁さんをもらったじゃないか」

「そうですね……アリアと似ているところはありましたか?」

「……瞳は、同じだな」


 エンシオは寂しげに笑った。


「うちの妹も、生きていればあれくらい美人になったんだろうなぁ」

「……先輩?」


 言いながら、エンシオは涙を流していた。

 エンシオは自分でも驚いたように目に手をやる。


「……おかしいな。別に感極まったわけでもないんだが」


 エンシオは乱暴に涙を拭いた。

 誤魔化すように笑いながら、


「なんだか今、無性にアリアに会いたい気分だよ」




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