第四十二話 あなたの温もり
「アリア・ランデリスだな」
廊下の向こうから声が木霊する。
向こうからは影になって見えないはずだが、ノクスの眼光は確かにこちらを見ていた。陰の中からこちらの一挙手一投足を逃さぬ二つの双眸が浮かび上がる。
「……ノクス・アーカイム」
「アーカイム卿! この女を捕えろ! あの茶番劇はすべてこの女が仕組んだニセモノだ!」
希望を見出したブルーマン公爵が叫んだ。
ノクスはちらりと彼を見る。その目は身震いするほどに冷たい。
「もちろん、そこの女も貴様もまとめて逮捕する」
「……は?」
「貴様の悪行の数々は俺も調べていた。証拠がつかめなかったが……」
ノクスの目がこちらに戻る。
「親切な誰かが情報をくれたのでな。安心して逮捕できる」
「貴様……!」
「動かないで」
ノクスが近づいてくる前にテレサは茨で彼の行く手を封鎖した。
契約婚の男は妻が目の前にいることも気付かず「何の真似だ」と声音を険しくする。
「それはこっちの台詞よ。 この男を逮捕? 笑わせるわ。この男はいくつもの顔を持ち、さまざまな機関から逃げおおせた怪物よ。今、ここで殺しておかなきゃ絶対に逃げ出すに決まっているわ」
「だからといって私刑をして良い理由にはならないはずだ」
ノクスが剣で茨を打ち払った。
魔力で出来た茨はあっさりと光の粒になってしまう。
かつ、と革靴の音が響いた。近づいてくる。
「悪人は法で裁く。そうしなければ法を無視することは秩序の崩壊につながる」
「へぇ?」
「貴様のやっていることは間違いなく悪だ。たとえそれが復讐であろうとも」
「なら法律で裁けない悪はどうするの?」
テレサは一歩後ずさった。
魔力を打ち消す魔力。王族に連なる者達が持つ力は自分の天敵だ。
「法律を盾に私腹を肥やし、他者を虐げて支配している者達は誰が裁くの? あなたが裁いてくれるの?」
「何のことだ」
戸惑うようなノクスにテレサは首を振った。
「誰も──誰も助けてくれなかった。何も悪いことをしていない人たちが次々とおかしくなって、殺し合いを始めた。全部、お前のいう秩序を司る者達のせいだった! 私の大好きな領民たち百人が、王国の兵士に殺されて死んだ!!」
「……ランデリスの悲劇か」
テレサは空っぽの笑みを浮かべた。
「正義で悪を裁けるなんて思うのは、恵まれた者だけよ」
秩序とやらはすべてを失った者を救ってはくれない。
王族は民を守るためではなく自分たちを守るために法律を作る。
貴族たちは少しでも甘い汁をすすろうと画策する。
それは真理だ。
もはや変えようがない社会の理だ。
ならば、その大勢の正義に何の意味がある?
「だから私がやる。こいつは私が、この手で──!」
「ひっ」
「させるか──っ!」
月明かりが二人を照らし出す、その前に。
「ひ、ひいいい!」
爆発がノクスを吹き飛ばした。
「なっ」
宙に投げ出されたノクスはなすすべもなく海に落ちる。
ドボン、と重い物が落ちる音がして、テレサは振り返った。
手すりに駆け寄り、下を見ると、ノクスの居た波紋が波にのまれて消えていた。
よかった。これで奴を追える。
邪魔が入らないうちにブルーマンを始末しないと。
そう思っているのに、テレサの身体は動かなかった。
「旦那様……?」
頭から血の気が引く。全身の筋肉が硬直した。
ぶは、と声がする。
ノクスが顔だけ出してどうにか息をしようと藻掻いていた。
「……っ、ほんとに泳げないなんて」
テレサは振り返り、船内に消えようとしているブルーマンを見た。
──今、ここで逃せばブルーマン公爵を捕らえることはできないだろう。
狡猾な彼のことだ。
船内に入った瞬間に殺されてしまうかもしれない。
あるいはテレサの追撃を逃れて国外に逃亡する。
もう一生表舞台に出てくることはなくなるかもしれない。
──憎悪。
五年間、募りに募らせた復讐心が心をかきむしる。
憎い。嫌い。殺してやりたい。
なんで家族が追いやられてあいつが生きてるの。
なんで罪のない領民たちが犠牲にならなきゃいけなかったの。
あいつを捨て置いたら、今後何千、何万のひとが死ぬ。
そうだ。あいつを殺すことが正しいことなんだ。
『高貴なる者には大いなる義務を』
大勢の正義のために自分を犠牲にする。それがランデリス家の理想ではないか。
──でも。
──でも、でも、でも!
ノクスとの思い出を振り返る。
『お前、俺と結婚しないか?』
最初の印象は冷たいひとだった。
教会嫌い。女嫌い。人を信用しないノクスの態度は酷かった。
けれども、お互いのことを知って、言葉を交わしていくうちに、情が芽生えた。
『……なかなか様になってる。さすがは聖女といったところだな』
『まぁ。お褒めいただきありがとうございます』
『……』
想いを素直に口に出来ないだけだと知った。
『この勲章は他人を傷つける……人と関りを持てなくなることが、勲章だというのか』
『関りを持ちたいのですか?』
『……』
人との関りを恐れていることを知った。
それは彼が他者を傷つけてしまうことを恐れる優しさ故だった。
『じゃあ旦那様は、わたしが初めての相手ですね?』
『そういうことを男に言うんじゃない。馬鹿者」
『あだっ』
可愛いところがあることを知った。
照れた時にそっと目を逸らして耳を赤くするところが可愛かった。
もしも、テレサが聖女じゃなければ。
もしも、テレサがアリアじゃなければ。
彼が探している悪女は自分だ。
真の意味で思いを通じ合わせることは決してない。
でも、それでも。
いつの間にか、あの人の傍に居ることを心地よく感じる自分も居て──
「……っ」
気づけばテレサは宙へ身を乗り出していた。
「旦那様っ!」
冷たい水の中に飛び込む。
夜の海は暗い。月の光は表面にしか差し込まない。
ドレスに染み込む水は重くて、肌にくっついて気持ち悪かった。
──いた。
ノクスは今にも海底に沈もうとしていた。
テレサは手を伸ばす。
沈んでいくノクスの後ろにある海藻に魔法をかけ、蔦のように伸ばした。
過剰な再生を施された海藻が、ノクスの背中を押して水上に押し上げる。
「ぶはっ」
テレサも共に海上に押し上げられ、止めていた息を吐き出した。
髪や服にまとわりついていた水がズバぁと落ちていく。
はぁ、はぁ、と呼吸を落ち着かせ、テレサはノクスを見る。どうやら気絶しているようだ。
テレサは気道を確保し、顎をあげ、ためらいなく人工呼吸を施した。
(お願い、起きて……!)
何度目かの人工呼吸でノクスは息を吹き返した。
鼻や口から海水を吐き出し、げほ、げほ、とせき込む。
ぼんやりとした夜色の眼差しがテレサを捉えた。
「……テレサ」
「……っ」
テレサは咄嗟に髪を抑える。
復讐のために再生させた髪は赤くなっていて、ドレスは黒色になっている。
アリアの格好をしたテレサを見てノクスは口元をやわらげた。
「テレサ……」
「……旦那様?」
ノクスの手がテレサの頬に伸びて、優しく撫でていく。
ザラついた手の甲に触れると、ノクスは安心したように目を閉じた。
(バレてない...?)
まるで信頼しきった女の膝に頭を預ける男のようだ。
彼は彼自身が信頼する女が嘘つきだなんて、夢にも思っていないのだろう。
すー、すー、と冷たい夜の海の上で彼は寝息を立てる。
こうして見ていれば無邪気な子供そのもので、テレサは彼の手を握った。
「……よかった」
呟き、唇を噛みしめ、俯いた。
「あなたが生きていて、よかった」
ブルーマン公爵は今に隣国へ逃げ出し、姿をくらますだろう。
両親にも家族にも協力者にも申し訳ない。
それでも──
今、この手にある温もりが、テレサには何よりも代えがたい宝物に思えた。




