第三話 ルナテア教会の腐敗
王都に帰った翌日、テレサは執務室に呼び出された。
五十代を越えた好々爺が執務机に陣取っている。
にこにこと笑った教皇は言った。
「聖女テレサ。君には結婚してもらいたい」
「………………はい?」
テレサは間の抜けた声を出した。
てっきり昨日の件で怒られると思っていたのだ。
驚きはすぐ、戸惑いにとって代わる。
「……け、結婚でしょうか? 身共が?」
「そうだよ」
好々爺とした老人の灰色の目には野心の色が宿っていた。
口調は穏やかなのに、燃えさかる火花が瞳の中に散っている。
彼は立ち上がると窓に近付き、外を見ながら後ろに手を組んだ。
「君も知っての通り、我がルナテア教会はこのルミリオン王国に神の恩寵をあまねく広めるために存在している。創造神ルナテアの教えを信じない異教徒たちを正しき道に引き戻し、ルナテア様を信じることこそ救われる道だと諭す。それが私の生きる意味だと思ってる」
「教皇猊下はもう十分活動されていらっしゃると思いますが……」
「だがまだ足りない。口惜しいが、教会の力だけでは万民に神の恩寵を広めることは出来ないのだ」
教皇は振り返った。
「君も、志は同じだと思っている」
(要は寄進が減っているのね。昨日の騎士団を見て分かる通り、教会への不信感も募ってるし)
宗教というものは平和な世の中では浸透しづらい。
人々が不安なとき、迷ったとき、世の情勢が不安定な時にこそ信仰は生きてくる。また、人の死に身近に触れる騎士たちは信仰に意味などないと分かっているだろう。助かって欲しい人がすぐに死ぬ。その苦しみはテレサも分かるつもりだ。
(まぁ、そんなことは死んでも言えないんだけどね!)
テレサは聖女の笑みを浮かべて胸に手を当てた。
「もちろん身共は猊下の同士です」
教皇が満足そうに頷く。
手招きに導かれ、テレサは彼の横に立った。
教皇はテレサの腰に手を回す。
「私はね、信じているのだよ。皆がルナテア様の教えを信じれば、世界から争いは消えるのだと……」
「身共もまったく同じ気持ちでございますわ。猊下」
「分かってくれるか」
「はい。そのために、身共の結婚が必要なのですね」
「あぁ、すべては神の教えを説くためだ。納得してくれるか」
テレサは優しく微笑んだ。
見るものを安心させる聖女の微笑。
誰よりも敬虔な信徒として名高いテレサだが──
(はぁぁあぁぁぁぁぁぁあ? 納得するわけないでしょ、なんで私が結婚しなきゃいけないの!?)
額に青筋を浮かべないようにするのが精いっぱいだった。
頬がぴくぴく痙攣した彼女は笑顔の裏で悪罵を叫ぶ。
(な~~~にが神の教えよ、この好色ジジイ! 私のお尻を撫でまわすな気持ち悪いんだっての!)
そう、先ほどから教皇はテレサのお尻をさわさわと撫でまわしているのだ。その口元が下卑た笑みを浮かべていることは見なくても分かる。
(綺麗ごと抜かしてるけど、要は聖女を結婚させて政治に影響を与えたいだけでしょ!?)
ルナテア教会はルミリオン王国の国教になっているが、政治的な影響力はない。
それというのも三代前の王が政権分離を謳い、教会を政界から追い出したのが原因だ。当時は教会の大司祭などが政治の場で発言することもあり、かなり問題になったと聞く。そのせいでルナテア教会は政界から締め出され、甘い汁を吸っていた教会の上層部は苦渋を舐めたとか。
(このクソジジイは政界に進出して権力を拡充するつもりだわ!)
教会を代表する聖女が大貴族と婚姻を結べば教会の発言力も増す。
それこそ聖女から大貴族の夫へ意志を伝えれば思うままにすることも可能だ。
だからこそ、貴族派の者たちが容易く聖女を嫁がせるとも思えないのだが。
「身共が結婚するかはさておき」
ぺシ、とお尻に触れていた教皇の手を払い落す。
テレサは半歩分距離を取り、聖女の笑みを浮かべる。
「お相手はどちらでしょうか?」
「うむ。南部の大貴族アンズリー侯爵家だ」
「……外交大臣じゃないですか」
「あぁ、嬉しいだろう?」
テレサは笑顔を崩さなかった自分を褒めてやりたかった。
(嬉しいわけないでしょ! 五十代を越えたクソジジイじゃない! そんな男の下に私を嫁がせようって!?)
しかも、聞くところによれば愛妾を何人も囲っているという。
確かに外交大臣として海外にも顔が利くし、有能で、人柄もいいという。
だがクズである。
女を使い捨てて飼い殺しにするクズである。
これにはさすがのテレサも黙ってはいられなかった。
あくまで笑顔を浮かべたまま抗議を試みる。
「身共は神にこの身を捧げた修道女です。修道女が世俗の男性と婚姻を結ぶというのはいかがなものかと思いますが……」
「還俗すれば問題ないだろう」
「……民衆の方々は聖女を支持してくださっています。貴族だけに身共の『奇跡』を占有されるのではないかと抗議が起きる可能性も」
「仕方ないね。世界を救うには多少の犠牲はつきものだ」
(何が世界よ。あんた達の権力のために私を利用したいだけのくせに!)
まだだ。まだ反撃の目はある。
「身共の『奇跡』は神の権威です。還俗すると『奇跡』が薄れる可能性が……」
「それも問題ない。君の代わりはもう居る」
「……はい?」
「神は再び我々に奇跡を授けた。そういうことだよ」
「……」
テレサは眉根を寄せた。
それはつまり、生贄の身代わりを見つけたということか。
(どいつもこいつも)
脳裏によぎる五年前の記憶。
王太子妃教育を受けて日々励むアリアを、あの男はあっさりと捨てた。
あろうことか下級貴族の、頭がお花畑の女を代わりにしたのだ。
不快だ。むかむかする。
今すぐこの男のことを殴り飛ばしたい。
自分を蔑ろにする男たちを断罪し、社会的に泣かしてやりたい。
テレサは湧き上がる感情に蓋をして深呼吸した。
(……ふぅ。落ち着け、落ち着くのよ、テレサ)
何のために聖女を演じ続けてきたと思っている。
奴らを泣かせるためだ。それも完膚なきまでに。
今、ここで感情に身を任せたらすべてが水の泡だ──。
「少し、考えさせていただけないでしょうか?」
聖女様には秘密がある。
聖女様は、まだ復讐を諦めてはいない。