第三十五話 ダンス
「もう大丈夫なんですか?」
「問題ない」
三時間後、テレサたちは夜会に行くために客室を出た。
豪華な赤い絨毯が敷かれた廊下を貴族たちが談笑しながら歩いている。
ノクスは船酔いから回復し、なんとか見える顔まで持ち直していた。
尤も、生来の不景気そうな顔はそう変わっていないが。
「次から船が苦手な時は言ってくださいね」
「別に苦手なわけじゃない。ただ酔っただけだ」
「世の中ではそれを苦手というんですよ?」
(どこまで強がるのかしら、この男は)
呆れた目で見ていると、ノクスは目を逸らした。
「……次から気を付ける」
ふと、彼の耳が赤くなっていることにテレサは気づいた。
思わず笑みがこぼれてしまう。
「はい、気を付けてくださいね」
(ちょっと可愛いかも)
普段は強気だけれど。こういう弱いところもある。
暗黒公爵だなんだと言われても、この人も人間なんだと実感した。
夜会が行われるダンスホールは天井がガラス張りになっていた。
星の光が降り注ぎ、天体観測さながらに星空が広がっている。
調度品を配した壁際には音楽隊が今か今かと出番を待っていた。
「わぁ……素敵なところですね、旦那様」
「ふん。こんな光景、公爵領では飽きるほど見られるが?」
「何を張り合ってるんですか」
「張り合ってなどいない」
テレサたちがダンスホールに入ると、貴族たちが一斉にこちらを見た。
「見て。あれが例の……アーカイム公爵夫妻よ」
「昼間倒れたって噂だけど大丈夫なのかしら?」
「あの暗黒公爵が女性を連れて来るなんて! しかもエスコートしてるわ……」
「本当に奥さんが好きなのね。あんなに周りを睨みつけるなんて」
(たぶんそれは貴族が嫌いなだけだと思いますよ……)
テレサが苦笑していると、わ、と歓声が沸いた。
振り返れば、第一王子ジゼルとクリスティーヌが入場するところだった。
「クリスティーヌ様の髪、綺麗……」
「すごい艶々しているわ。どこの洗髪剤を使っているのかしら」
「例の会員制のサロンで販売しているみたいよ。いいなぁ、私も入りたい……」
金髪のクリスティーヌの髪は絹糸のようにサラサラしている。
星々の光にすら劣らない輝きは美に飢えた女性たちの目を集めるだろう。
(第一王子派の影響力が広がるかも……ね。私のせいだけど)
テレサが見ていると、クリスティーヌと目が合った。
ジゼルの肘を引いた彼女はこちらに向かって歩いてくる。
隣のノクスがすごく嫌そうな顔をしていた。
「アーカイム公爵」
「「第一王子殿下にご挨拶申し上げます」」
「あぁ、楽にしろ」
契約夫婦が揃って一礼すると、ジゼルは頷いた。
「船酔いをしていたと聞いたぞ。大丈夫か」
「妻の看病のおかげで」
「そうか」
ジゼルの目がテレサに向いた。
「クリスティーヌが世話になったと聞いた。聖女テレサ。君は治療だけじゃなくさまざまな方面に知識があると見える」
「光栄にございます、殿下」
「これからもよろしく頼む。妻の力になってやってくれ」
ここで素直に頷けば第一王子派だと公言するのも同じだ。
先日の過ちをテレサは繰り返さなかった。
「はい、聖女として力を尽くさせていただきますわ」
あくまで協力するのは公爵夫人ではなく聖女の務めであると。
聖女は万民の幸せを願い尽くす存在ーー第二王子派とも仲良くすると含ませる。
テレサの隠した意図を正確に読み取ったジゼルは苦笑した。
「教育も行き届いているようで何よりだ。ますます惜しいな。アーカイム公爵より先に出会っていれば側室にでもしてやったというのに」
「恐れながら」
ノクスがテレサの肩を抱き寄せた。
「妻は俺の嫁です。誰にも渡しません」
「!?」
ぼっ!と顔から火が出るほどテレサは赤面した。
(ちょ、ちょ、公の場で何言いよんねこん男は〜〜〜!)
思わず「違います契約結婚ですから!」と言いそうになる発言だ。
しかもこの男、「どうだ」と勝ち誇っているのだから始末が負えない。
この場に穴があったら全力で入りたい気分だった。
「まぁ、見ました? 今の」
「仲睦まじいこと。微笑ましいわねぇ」
「テレサ様ったら顔が真っ赤になってる。初々しい」
周りから生温かい目で見られるこっちの身にもなってほしい。
恨めしげに肘で突いてもこの男はビクともしなかった。無念。
「本当に仲がよろしいのね。妬いちゃうくらい」
クリスティーヌが言った。
底意地の悪い蛇のような目は笑っていないように見える。
「素敵な女性を妻に迎えたわね、公爵?」
「はい。これからも大事にしたいと思います」
二人の前から去ると、テレサはノクスにささやいた。
「あの、ああいうのは良くないと思います」
「ああいうのとは?」
「だから、身共のことが……その、そういう発言です!」
「はっきり言ってくれないと分からないな」
「絶対分かってるでしょう?」
テレサは頬を膨らませて「ふん」とそっぽ向いた。
「愚か者のふりをする旦那様は嫌いです」
ノクスは観念したように肩をすくめた。
「ああ言えば愚かな虫がお前に近づくこともないだろうと思ったんだ」
「身共みたいな聖女に誰も寄って来ないと思いますけど」
ノクスはじと目でテレサを睨んだ。
周りに視線を巡らせた彼は近くにいる男たちを牽制して大きな体でテレサを隠す。
「……まったく。自覚がないのも考えものだな」
「だから何のことですかっ」
「心配しなくてもこれも契約の範疇だ。これで満足か?」
満足かと聞かれたら絶対満足ではない。
仲の良い夫婦を演じるといっても限度があるだろう。
そう言いたかったが、不器用な彼なりの気遣いだと分かるので、テレサは折れることにした。
「分かりました。ですがほどほどにしてくださいね」
「考えておく」
「即断してください!」
「そんなことより」
夜会の始まりを告げる管弦楽の音色が響き始めた。
優雅でゆったりとした、寄せては返す波のような音。
貴族たちはパートナーと頷き合い、ダンスホールの中心へ。
ノクスはこちらに手を差し出しながら言った。
「俺と一曲踊ってくれるか? 我が妻よ」
天井の星空を背景に、初めて出逢った時とは想像もできない柔らかな笑み。
契約婚の妻に向けられる優しさに、胸に鋭い痛みが走る。
それをおくびにも出さず、テレサは笑った。
「──はい」
剣だこのある手を取り、二人並んで歩き出す。
「喜んで、旦那様」
二人は手と手をとって回転しながら貴族たちの中に入った。
見目麗しい二人のダンスは優雅で洗練され、観衆が思わず息を吐くほど美しい。
白と黒。
相反する色を纏う二人は夜と月のように寄り添っている。
この二人が契約婚だと疑う者は、この場のどこにも居なかった。




