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第二十九話 ノクスの暴走

 


 救育所ならぬ養成施設を後にしたあと、ノクスはずっと無言だった。

 普段から口数が多い男とは言えないが、目に隈のある男が自分をじっと見つめていると居心地が悪くなる。特にこの男は目から感情が読み取れない男だし。


「あの、身共の顔に何かついていますか?」

「何もついていない。だから困ってる」

「まぁ」


 ノクスはため息をつく。

 テレサはもう気にしないことにした。


「それより次はどちらに行きますか?」

「そうだな──」


 ぐぅううう、と腹の虫が竜車の中に響いた。

 サ、とお腹を押さえたテレサは顔を真っ赤にして、上目遣いでノクスを見る。


「……聞こえました?」

「ずいぶんと元気な腹の虫だ」

「もう! そこは聞かったことにするのが男の甲斐性というものでしょう!?」


 ぽかぽかと身を乗り出してノクスの胸を叩くテレサ。

 されるがままにしていたノクスは「くっ」と笑って、


「腹が減ったな。どこか食べに行くか」

「それを最初に言って欲しかったですね……」

「俺にその辺の男の作法を求めるな。こういうのは初めてなんだ」

「初めて?」


 ノクスはばつが悪そうに目を逸らした。


「ずっと呪いのせいで誰かに触れることも出来なかった……初めてで何が悪い」


 そういえばそうでしたね、とテレサは頷いた。

 あまりにも普通に接しているから忘れそうになるが、この男は素手で触れた者を腐らせる呪い持ちだったのだ。もちろん実際には呪いじゃなかったわけだし、今後の治療でいくらでも改善の余地はある。これからどんな相手とも経験を積んでいけるだろう。


「じゃあ旦那様は、身共が初めての相手ですね?」


 からかい混じりに言うと、ノクスは複雑な顔になった。

 テレサの頭に手を伸ばし、


「そういうことを男に言うんじゃない。馬鹿者」

「あだっ」


 額を指で小突いて、


「ちゃんと座ってろ。舌を噛むぞ」

「何も小突かなくてもいいじゃないですか。もう」


 乙女の額をなんだと思ってるんです、と憤懣やるかたない思いで席に着く。

 もう知らない。こっちは景色を楽しんでやるわ。

 そう決め込んで窓を見たテレサは、彼の耳が真っ赤になっていることに気付かなかった。






 ◆◇◆◇





 御者のおすすめでやってきたのは上流階級向けの品の良い店だった。

 マボガニーの木材で統一された瀟洒な店だ。

 丁寧にニスが塗られたテーブルは磨き抜かれ、大きな時計が店内に歴史を刻んでいる。


「ここのアップルパイが絶品らしいですよ」

「ほう」

「いらっしゃいませ、二名様でしょうか?」


 ノクスを見て店員はぴくりと眉を動かしたが、それだけだった。

 教育の行き届いた店員に個室を案内され、二人は注文を済ませる。

 やがて出てきたのはアップルパイとコーヒーのセットだ。


「わぁ」


 こんがりと焼かれたパイ生地の下に林檎がふんだんに使われている。

 ナイフを入れるとサクっと切れて、とろ~りとクリームが出て来た。

 わくわくしながら口に入れると、林檎の甘みが口いっぱいに広がる。


「美味いか」

「はい! 美味しいです!」

「ふむ」


 ちりんちりん、ノクスは手元にあった店員呼び出しのベルを鳴らした。

 すぐにやってきた店員にノクスは言った。


「店主を呼べ」


 店員の顔が蒼褪めた。


「は、はい! ただいま!」


 店員に連れられてきたのは少し小太りのシェフだ。

 五十代前半だろうか。口元に髭を生やした歴戦の料理人は可哀そうなくらい震えてしまっている。

 ノクスを見た料理人はそのまま膝を突きそうな勢いで頭を下げた。


「て、店主のナディルと申します。お貴族様」

「ノクスだ。こちらは妻のテレサ」


 テレサが目礼すると、ノクスは「顔をあげろ」と言った。

 店主は震えながら、


「あの、領主さま。私が何か粗相を……」

「いくらだ?」

「「へ?」」


 店主とテレサの声が重なる。

 ノクスは鋭い眼光のままに言った。


「この店はいくらだ? 言い値で買おう」

「へ?」


 哀れ恐怖の臨界点に達した店主は「へ?」しか言えない身体に成り果てた。

 ノクスが真面目に小切手を取り出したのを見て、テレサは我に返った。


「な、なにしてるんですか!」

「この店を買い取ろうとしているだけだが」

「だけ、じゃないんですよ! 皆さん戸惑ってるじゃないですか!」

「不満か?」

「別に不満とかじゃなくて」


 テレサは咳払いし、指を一本立てる。


「このお店を愛してくれる人を大切にしましょうって話です。公爵家で囲い込むのは違うでしょう?」

「ふむ。一理ある」

「一理どころか真理ですよ」

「分かった」


 ノクスは頷いた。

 よかった。分かってくれた。


「おい、このアップルパイを作ったのはお前だな?」

「は、はぁ、そうですが」

「公爵家の料理人に興味はないか」

「へ?」


 ──全然分かってないじゃない!

 テレサは椅子からひっくり返りそうになった。


「もう! だからそういう話じゃないんですってば!」

「公爵家の料理人という待遇に不満があるというのか?」

「めめめめめめ、滅相もありません!」

「ではレシピを買おう。いくらだ?」

「旦那様?」


 テレサはにっこりと笑って制止する。

 これ以上はさすがに店の迷惑だ。貴族の物差しに平民たちは委縮している。

 さもありなん。

 未だに目元に隈があるし、黒一色の服は死神のように不気味だ。


「全部この人の戯言ですから、気にしないでくださいね?」

「は、はぁ」

「このお店のアップルパイがとてもとても気に入ったですから、また買いに来ますね」

「あ、ありがとうございます!」


 テレサがその場を取り直すと、平民たちはホッとしたように息をついた。


「見たか、今のなだめ方」

「見た見た。まるで猛獣の飼い主だな」

「まさしく美女と野獣だ……俺も踏まれたい」

(踏んでないけど!?)


 全力で反論したかったが、テレサは退散することを優先した。

 貴族の横暴に平民は敏感だ。

 こんな大勢の前で店を買い取ろうとするなんて正気のことじゃない


 竜車に帰り、ノクスの正面に座ってテレサは腕を組む。


「旦那様、なんであんなこと言ったんですか。らしくないですよ?」

「勘違いするな。俺が気に入ったからだ。お前のためじゃない」

「もちろんそれは分かっていますけど」

「……」


 何か言いたげなノクスにテレサはため息をつき、


「もう。そうツンツンしていると嫌われますよ?」

「とっくの昔に嫌われているから問題ない」

「まぁ身共は、公爵様のそういう性格が嫌いじゃないですけど」

「……ふ」


 ノクスは鼻で笑った。

 馬鹿にする笑いではない。本当に嬉しそうな笑みだった。


「そんなことを言うのはお前くらいだ。この変わり者め」


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