第二十話 はじめての喧嘩
夕食の席は息が詰まりそうだった。
基本的にレイチェルはテレサに話しかけていて、テレサがノクスに話を振っても、「あぁ」の一言で終わり。あまりにも気まずいので仕方なく話を振るのをやめて、テレサはレイチェルとの話に花を咲かせていた。
「テレサさん、明日のパーティーの招待客は覚えた?」
「はい。リストは全部暗記いたしました」
「優秀ね。それじゃあ、それぞれの領地の特産品と派閥関係は?」
「領地の特徴と特産品は覚えています。派閥関係は……」
テレサはノクスをちらりと見て、困ったように首を傾げた。
「残念ながら、あまり」
(どっかの社交嫌いの馬鹿のせいでね!)
公爵でありながら領地に帰らず騎士の仕事をしているノクスである。
いくらアーカイム家であっても社交に出ず社交界の情報は入って来ない。
テレサとしては、自分の目的のためにも社交界の情報は欲しいところだが。
「やっぱりね。それじゃあ、私が教えましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろん。アーカイム家に関わることだもの。数時間しか時間がないけど……テレサさんなら大丈夫でしょう?」
「精一杯頑張ります」
「えぇ、私も精一杯教えるわ」
レイチェルは微笑んだ。
「それじゃあ、このあと時間を頂けるかしら?」
「あ、この後は……」
テレサは視線を横に動かし、すぐに戻した。
「申し訳ありません。旦那様の治療がありますので」
「そう、なのね。分かったわ」
「すぐに終わりますので、終わったら行きますね」
「えぇ。蔵書室でもいいかしら?」
「構いません」
ほどなく夕食は終わり、その場はそこで一旦解散となった。
先に出て行ったレイチェルを見送り、テレサは立ち上がる。
「それじゃあ、身共達も参りましょうか」
「あぁ」
先ほどから同じ言葉しか発しないノクスにテレサは白い目を向ける。
「旦那様、気づいてます? 先ほどから同じことしか言っていませんよ」
「……必要か?」
「必要かどうかではないと想うのですが」
廊下を歩きながら、テレサはため息をついた。
「そんなにお義母様と話すのが嫌ですか?」
「……さっさと行くぞ」
「あぁもう、都合が悪くなったらすぐ逃げる!」
テレサはノクスを追いかけた。
早足のノクスはテレサに表情すら見せてくれない。
「どうしてそんなに意固地なんですか。そりゃあ、辛かった事情は分かりますが」
「お前に何が分かる!」
ノクスは振り向いた。
夜色の目に宿っていたのは敵意だ。
「二十年だ。それ以上の時を俺は独りで過ごした! 来る日も来る日も守るために戦い、その守る民にすら恐れられ、親からも殺されかけた! 教会の中でぬくぬくと過ごしたお前に、一体何が分かるというんだ!」
「分かりますよ」
テレサは静かに言った。
「その孤独も、痛みも、悲しみも、全部分かりますよ」
「嘘をつくな。分かるはずがない」
「いいえ、分かります……痛いほどに分かります」
大切な者に捨てられる痛みも。
両親と触れ合えない悲しみも独りきりの夜を過ごす寂しさも。
アリア・ランデリスとして生きたテレサはすべて理解出来る。
「分かるからこそ言います。お義母様と仲直りすべきです」
「くどい。貴様に何をどうこう言われる筋合いはない。契約書にも記載してあるはずだ」
ーー互いのことには口を挟まない。
それノクスとテレサの始まりで、変わることのない契約だ。
契約妻としての務めを果たすと言った以上、テレサはそれに従うべきなのだろう。だからテレサは、契約を果たすことにした。
「手を出して」
「は?」
「いいから、手を出してください!」
テレサはノクスの手袋を無理やり外す。
これまでの治療で色味が薄くなった薄紫色の手はほんのり冷たい。
黒い瘴気が、じゅわりとテレサの肌を侵す。
「……っ」
「おい」
「《主の導きがありますように》」
聖句を唱えたテレサの手が淡い光に包まれ、瘴気を中和する。
いつもなら自分の手に跡が残らないように弱めに施す癒しの力。
けれども、今だけはいつもより強く瘴気を浄化しなければならない。
「ふぅ……」
無理やり領域を侵された瘴気がテレサの手に火傷のような痕を作っていく。
テレサは自分の手を治療しながら、ノクスに癒しを与えていった。
二人の間にともる淡い光が、夜色の目を照らし出す。
ふと顔を上げれば、ノクスは何か言いたげにこちらを見ていた。
「なんですか」
「お前、もしかして今までの治療も……」
「普段はこんな傷作りませんよ。あなたが強情だからです」
もちろん嘘である。
そしてノクスも、嘘であることは気付いているだろう。
彼はテレサの手を無理やり振り払おうとした。
「もういい。やめろ」
「いやです」
「やめろと言ってるんだ」
「嫌だと言っています。互いのやることには口を出さない契約でしょう?」
「……っ」
テレサがノクスの親子事情に口出しできないのと同じだ。
ノクスもまた、テレサの治療に口出しすることは許されない。
それが二人が結んだ契約で、二人を繋ぎ止める絆だった。
(ほんとはバラしたくはなかったけど)
ノクスに気を遣われるのが嫌だった。
気まずい空気で治療をするのも嫌だし、彼とは対等の関係でいたかったのだ。
それでも、ここで連れて行かないとあの親子は一生あのままだと思うから。
「ふぅ……終わり、ました」
「おいっ」
膝から崩れ落ちそうになったテレサをノクスが支える。
手が痛い。
ジンジンと痺れるような痛みで涙が出そう。
「大丈夫なのか? その傷は治るんだろうな?」
(なんて顔してるのよ、この男は)
泣きそうな顔をしているノクスにテレサは呆れてしまう。
契約の邪魔をしようとした司祭の腕は平気で切り落とすのに、契約妻の傷なんて気にしてどうする。呪いを癒すためには手段を選ばないのではなかったのか。テレサは息をつく。自分の手を見ると、爛れたように火傷の痕があった。
(ま、これくらいで済んでよかったかな)
よし、とテレサは痛みを無視して意識を切り替える。
自分を支える手を引っ掴んで、無理やり歩かせた。
「どこへ行く」
「治療した患者を休ませるところです」
「……」
「お互いに嫌い合っているわけじゃないなら仲直りしてください。あなたはまだ間に合うんですから」
「だが」
──ぱちん!
テレサは強情すぎる契約夫の頬を叩いた。
「この分からず屋!」
「……」
「お母様はずっと、あなたの心配をしていたんですよ! 分からないんですか!? あなたの幼少期には同情しますが、それには深い事情があって……」
「そんなこと、全部知ってる」
「は?」
ノクスは拗ねたように顔を背けた。
「全部知ってる。分家の事情も、母上の事情も……」
「だったらなんで」
「……」
まただんまりである。
テレサは額に青筋を浮かべてノクスの手を引っ張った。
「だったら、さっさと仲直して来なさい、この馬鹿夫!」
「!?」
レイチェルが待つ蔵書室の扉を開け放ち、ノクスを放り込む。
前のめりにたたらを踏んだノクスは、書見台の前に座るレイチェルと向き合う形となった。
目を丸くしたレイチェルは戸惑ったように瞳を揺らす。
彼女はノクスの後ろに立ったテレサに水を向けた。
「あの、テレサさん、これは……」
「患者の治療です」
「はい?」
「お義母様、見てください」
テレサがノクスの手を持ち上げると、レイチェルは息を呑んだ。
毒々しい肌色。まだ薄紫色になったとはいえ身体を蝕む呪いは健在だ。
テレサは彼の手を躊躇なく掴み、レイチェルの前に持ち上げてみせる。
「ぁ……」
レイチェルが息を呑んだ。
それは誰にとっても特別ではないことだ。
大人になった息子の手のひらなど眺めて見て面白いものでもない。
だが、ノクスが他者と触れ合っていること自体が特別な意味を持つ。
「もう……触れても大丈夫なの?」
「えぇ。治療が進んでいますので」
レイチェルがゆっくりと手を伸ばした。
テレサはノクスの背中を小突く。手を離しても、彼はもう逃げなかった。
「触れても、いい?」
「……好きにしろ」
投げなりなノクスの言葉に頷き、レイチェルは息子の手に触れた。
壊れ物に触るように優しく、指から手を這うように進み、やがて手を握る。
「冷たい……傷が、たくさんあるわ」
「もう大人だからな」
「……でも、触れる」
レイチェルの瞳に大粒の涙が溜まる。
「そう。あなたはこんな手をしていたのね」
息子の手を持ち上げて、頬擦りをするレイチェル。
二十年以上触れられなかった息子への、ありったけの愛がそこにある。
ぽた、ぽたと、光の粒が赤い絨毯に染みを作っていく。
「ごめんね」
「……」
「本当に、ごめんなさい」
「俺は」
ノクスは口を開いた。
「俺は、母上を恨んだことなんて一度もない」
「?」
「……俺はただ」
ノクスは言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「何も悪くないのに自分を責める母上に……そうせざるをえないアーカイムの事情に、この呪いのことにムカついていただけだ。ただ、それだけのことで……」
ノクスは覚悟を決めたように母親を見る。
夜色の眼差しに、食堂で見たような敵意はなかった。
「母上が俺を守ろうとしたのは、知っていた」
「え」
「あんたの立場も理解しているつもりだ。それに、何も悪いことばかりではなかった」
不意にノクスがテレサを見た。
首を傾げると、彼は「ふ」と口の端を上げる。
自分の手を握る母親の手に触れて、仕方なさそうに言った。
「だから、もう泣くな。母親に泣かれる子供の気にもなれ」
「……っ」
涙の堤防が決壊し、とめどない光がレイチェルの瞳からこぼれた。
唇を振るわせ、両手で口元を覆った彼女は勢いよくノクスに抱き付いた。
「おい」
「……しばらくこうさせて? ずっとしてやれなかったから……」
「……俺はもう大人なんだが」
「私から見たら、まだ子供よ。大事な、大事な息子だもの」
「……」
助けを求めるようなノクスに肩をすくめて、テレサはそっとその場を後にした。
静かに扉を閉めて、背中を預けながらずるずると座り込む。
意識の外に追いやっていた手の痛みが焼けるようだ。
けれども、嫌な痛みではなかった。
「一言余計なのよね……ほんと、世話が焼けるんだから」
テレサはまぶたの裏にわだかまりを解いた親子を描く。
万感の想いで息子を抱きしめる母と。
母の背中に手を回し、抱きしめようか迷って手が宙を彷徨う息子。
見ていて微笑ましい光景に、自然と頬が緩んでしまう。
ノクスもノクスだ。こう言う時ぐらい、素直に甘えればいいのに。
「お母様、か……」
ふと、脳裏に自分の母親がよぎった。
もう二度と会うことは出来ない、自分の母をーー
「うちの家族は今頃どうしてるかしら……」




