第十一話 メイド長の敗北
「ねぇ見た? あのパンを食べる時の聖女の顔!」
「最高に面白かったよね。無表情で石の入ったパンを食べちゃってさぁ!」
「あれ食べたあと吐いたりしたのかな? その瞬間を絵に残しておきたかった!」
「言えてるー。聖女の権威がた落ちよねー」
公爵家の食堂でメイド長フリーダと同僚達は管を巻いていた。
貴族出身の自分達を差し置いて、平民出身の聖女が公爵家の妻におさまった。
その許し難い事実は彼らの自尊心を大いに傷つけたのだ。
「そもそも彼女はあの方に相応しくないのよ。これは天誅だわ」
「そうそう。私たちは神様の意思を体現してるだけ」
「聖女様に必要な試練なのよ!」
フリーダたちはノクスから聖女の食事の支度を任されている。
ノクスが帰ってくるのは今日だから、食事に細工できるのは今日までだ。
聖女の顔を屈辱に歪ませるべく、フリーダたちは料理長に聖女のあることないことを吹き込んで用意させていた。
「おはようございまーす」
聖女の次に気に入らない女が食堂に入って来た。
使用人の中で一番新人のくせに侍女に成り上がったエマだ。
フリーダは舌打ちした。
間延びした声。礼儀のなっていない所作。すべてが気に触る。
ここは一つ文句を言ってやろうと彼女のほうを見てーー
「え……?」
フリーダたちは目をひん剥いた。
目玉が飛び出るかと思った。
エマの二つに括った栗色の髪が天女のごとく艶めいている。
さらっさらである。つやっつやである。
「なにあれ……」
エマだけではなかった。
「おはようございます、メイド長」
「おはようございます、皆さま」
「おはようございます〜」
エマに続いて食堂に入ってきたメイド達の髪が艶々している。
いや、よく見れば髪だけではない。
彼女達の肌は生まれたての赤子のような張りがあった。
「この前まで、あんなのじゃなかったよね……?」
同僚の言葉にフリーダはゆっくり頷いた。
彼女たちには髪の手入れに金をかけるような余裕はないはずだし、優秀な髪職人との繋がりもあるはずがなかった。同じだったのだ。手入れも出来ずに髪がガサつき、年と共に色褪せていった、自分達とーー。
「ね、ねぇ。その髪、どうしたの……?」
同僚の一人が耐えきれないといった様子で問いかけた。
「あ、これですか?」答えたのはエマと仲の良いロシーだ。
ロシーは聞かれたのが嬉しそうに一つにまとめた髪を触った。
「実は奥様から聖水をいただいて。それで髪の手入れをしたらすっごく馴染んだんです。ねぇみんな?」
「はい。奥様、噂通りとぉってもお優しくて……」
「いろんなこと知ってるし。頼りになるよね」
「あの人ならご主人様の心も射止めちゃうんじゃないかなぁ」
ついこの前まで聖女を訝しんでいたもの達が聖女に心酔している。
自分達の髪をちらりと見て、ふ。と口の端で嘲笑っている。
屈辱だった。
フリーダは歯噛みした。
「あなた達、無駄話はいいから仕事なさい!」
「はーい」
仕事に戻っていく同僚達を見て同僚がぽつりと呟いた。
「いいなぁ……」
フリーダが睨みつけると、同僚が慌てて首を振った。
「い、いや! あの髪とあのお肌だけね! 別に聖女に味方してるわけじゃないし!」
「ふん」
(なによ、あんな髪、一日経ったら副作用が起こるような魔法か何かだわ)
生粋の教会嫌いであるフリーダは聖女の奇跡を信じていない。
奴らは寄進を受け取った相手を優遇して治癒術を施す外道どもだ。
フリーダの子供もそれで死んだし、夫は持病が悪化してしまった。
「奴らは人間のクズよ。聖女も同じに決まってるわ!」
「そう……それもそうね」
フリーダ達が準備を終えると、聖女が食堂に入って来た。
雪色の髪はメイド達のそれよりも輝きを纏い、後光が差しているように見える。まるで天使だ。教会の威光を体現する神の代弁者。
「おはようございます、皆様。今日もいい天気ですね」
「……っ」
思わず気圧されたフリーダたち。
「お食事の用意が出来ております。どうぞこちらへ」
「えぇ、ありがとうございます」
(ふん。ちょっと綺麗だからっていい気にならないことね。あんたもこの食事を続けていたら根を上げるに決まってるわ。ご主人様からも愛されない阿婆擦れが)
今日のテレサの食事も昨日と同じように細工してある。
いや、昨日よりもさらに酷い。
外側を綺麗に焼かれたパンの中身はカビがあって石ころが入っている。
スープには落ち葉を混ぜてあるし、ベーコンは残飯の残りかすを刻んで入れた。
(さっさと本性を現しなさい!)
使用人たちが見つめる中、聖女はおもむりの両手を組んだ。
朝の祈りだ。
「主よ。我らを創り給いし大いなる者よ」
銀鈴の声音が耳朶を打つ。
その祈りは、聞く者に息を呑ませる神聖さを伴っていた。
あらゆる考え事が意識外に追い出され、その場にいる者の視線が聖女に吸い寄せられていく。
「主の恵みに感謝します。この糧が主より給うた使命を果たす力となりますように。心と魂の喜びを感じながら、この食事をいただきます」
そして聖女はパンに手を伸ばし──
ガリ、と。
神聖な空気をぶち壊す不快な音が響いた。
にやぁ、とフリーダの口元は吊り上がる。
(小石を混ぜたパンの味、とくと味わいなさい)
フリーダは聖女が顔を歪めてパンを吐き出すさまを想像した。
「もうこんなところ嫌!」と駄々をこねて本性を現すことを願った。
そのどれでもなかった。
「まぁ! なんて美味しいパンなんでしょう」
「──……は?」
「皮はパリパリで、中はホクホク。小麦の香りが鼻を突き抜けていきます。身共は色んなパンを食べてきましたが、今日初めて小麦を育てた人の顔まで見えた気がしました……さすがは公爵家のパンですね。素晴らしいです」
メイドたちは戸惑ったように顔を見合わせる。
誰がどう見ても聖女のパンに細工がしてあるのは明らかだ。
この中で最古参であるフリーダの命令に逆らえるものなど存在しない。
誰もがそっとフリーダの顔色を窺うなか、聖女は慈愛の笑みを浮かべた。
「とても美味しいです。独特なお味もしますし」
「……っ」
「あの……奥様、ご無理をなさらなくても……」
「エマ! 食事中にメイドが話しかけるなど何事ですか!」
エマの言葉にフリーダは叱責を飛ばす。
びく!と肩を跳ねたエマは、抗議するようにフリーダを睨んだ。
「メイド長。こういうのは良くないと思います」
「公爵家が最高の小麦を使って焼いたパンの、何が卑怯なのですか」
「そうですよ、エマ。とても美味しいパンですよ?」
テレサはエマに微笑んで、
「身共は路地裏で寒さに震えながら鼠を食べたこともあります。あの頃に比べたらどんな食事だって神様の贈り物ですよ。この喜びを分かち合うために、身共はみんなの聖女になりました。だから、エマ。大丈夫」
「奥様……」
エマの頭を優しく撫でて、石ころ入りのパンを食べきるテレサ。文句の一つも言わず、笑顔でサラダを食べ始める聖女の在り方にメイドたちは心を動かされる。
批難の視線がフリーダに集中した。
(う……この空気は……)
元々、公爵家の誰もが教会嫌いというわけではない。
フリーダのように古株であればあるほど教会嫌いではあるものの、多くの者にとってはルナテア教は国教で、生活に根差したものだった。七歳になった時の洗礼式や子供が生まれた時の名づけの儀式、結婚式、豊穣祭、葬式、などなど……この国の生活にルナテア教は切っても切り離せないものだ。
教会そのものは嫌いでもルナテア神は信仰している、という者もいる。
ましてや、テレサ・ロッテは今民衆に最も人気が高い聖女だ。
曰く、スラム街に飛び込んで重病患者を治して回った。
曰く、近隣の盗賊たちに捕縛された時、彼らに神の教えを説いて自首させた。
曰く、収入のすべてを孤児院に寄付し、寒々しい部屋に住んでいる。
曰く、曰く、曰く──。
弱き者を救い、強き者との間に立つ。
万民に癒しを振りまく聖女テレサの偉業は国外にも轟くほど。
聖女テレサ・ロッテ。
またの名を──『無垢なる癒しの天使』。
「奥様、よろしければこちらもお食べ下さい!」
「チーズ? まぁありがとうございます」
エマが厨房からチーズを持ってくる。
フリーダが口を開こうとすると、また一人、一人とメイドたちが食事を持ってき始めた。
「聖女様、こちらパンのお代わりです。小麦の種類が違うので、こちらを食べませんか? そちらはわたしたちが処分しておきます」
「こちらのベーコンもどうぞ! 先日燻したばかりの新鮮なやつです!」
「食後はコーヒーがいいですか? 紅茶にいたしますか?」
「まぁまぁ。皆さま落ち着いて下さい。気持ちはありがたいですが、一度に話せませんよ」
フリーダは歯噛みした。
(もはや全員、あの女の味方だわ……!)
聖水とやらでつやつやとなった彼女たちの髪。
一度味わえば元の髪に戻るなんて絶対に嫌だと思わせるほどの綺麗さだ。
聖女の敵になったら、聖水が手に入らないとなれば、彼女を虐めることなどできはしない。
なにせさらっさらである。つやっつやである。
「そうだ、よかったら皆さんで食べませんか?」
「え? でも奥様、それは……」
主と使用人が一緒に食事をとるなどもってのほかだ。
さすがのメイドたちも戸惑っていたが、
「一人で食べていても寂しいもの……ダメ?」
──キュン。
この瞬間、フリーダを除くメイド全員の心が撃ち抜かれた。
まなじりに光を浮かべる無垢なる天使の涙に、答えないものなどいない。
「奥様、一緒に食べましょう!」
「ここでは無理ですけど、使用人棟なら……」
「今日だけですよ、奥様!」
聖女様には秘密がある。
聖女様は敵対者に容赦はしない。
相手の心を、完膚なきまでに叩き折る。
「そんな……」
圧倒的敗北を味わったフリーダは、無様に崩れ落ちるのだった。




