第十話 聖女様の反撃
「ふぁぁあ……そろそろ起きなきゃ」
夜明け前、公爵家の自室でエマは大きな伸びをした。
年季の入ったベッドが軋みを立てて、はぁあ。と脱力する。
「眠い……」
公爵家の使用人は夜明け前には起き出して屋敷の準備をしている。
掃除はもちろん、炊事、洗濯、来客の準備、買い出しなど、屋敷を維持するためにやるべきことは山ほどある。侍女になったエマも、テレサより早く起きて彼女の身支度を準備しなければならなかった。
「奥様のところに行かなきゃ」
化粧台の前で髪を結い、軽く化粧をして侍女の服に着替える。
メイドの時とは違ってちゃんと準備しなければいけないのは面倒だった。
ひらり、ひらり、とエプロンドレスを揺らし、うん、とエマは頷く。
「よし、今日もエマは可愛い」
着替えを終えたエマはまず給湯室へ赴いた。
テレサが起きた時に顔を洗うお湯を沸かすためである。
昨日は彼女が起きてから用意したために脅迫を受けることになったが、今日こそはちゃんと用意して差し上げたい。
「あ、ロシー。おはようございまーす」
「おはよー」
給湯室では同僚のメイドが鏡の前で口紅を塗っていた。
自室でやればいいものを、と思いながらエマは器を用意する。
「どう、エマ。奥様の様子は」
顔を見ずに投げられた問いにエマは「うん」とおざなりに返事をする。
「良い人だと思う。わたしのために怒ってくれたし」
「そ。あんた、うちに来てどれくらいだっけ?」
「五年かなぁ」
「ずいぶん出世したものね。あのドジっ子が」
「あはは。おかげさまで……」
エマ・ハッカーが公爵家の使用人になって五年が経つ。
求人広告を見た時は『働けば呪われる』なんて言われていたものだけど、実際に働いてみればなんてことはない、他の貴族屋敷と変わらない場所だ。むしろ噂に名高いご主人様との関わりもないため、働きやすい環境と言える。
女性からは相変わらず嫌われたりするけれど、自分から「可愛い」なんて言っていれば男に目をつけられることもない。その気もないのに奥方に目をつけられたりするのは一度で懲り懲りだ。馬鹿なフリをしているのが一番である。
(可愛いのは本当だしね。仕方ないよね)
そんなエマが使用人から侍女に抜擢されたのは予想外だった。
一介の使用人から公爵家の奥方の侍女というのは大出世である。
給料は上がると執事のイェーガー様から言われたし、家族への仕送りができるのはありがたい。けれども、侍女になったらなったで、悩み事が増えることも確かだった。奥方や同僚からの嫌がらせをされたり、ご主人様である殿方に言い寄られてクビになったり……。
(でも、今回の奥様は大丈夫そう)
なにせ夫が夫である。
女性に欠片も興味がないノクスがエマを気に入るはずもないし、昨日のテレサはエマを脅した『先輩』たちを許すまいと息巻いていた。慈悲深いと噂の聖女様があんなに怒りを露わにして、一介の使用人のために動いてくれる。それだけでエマはあのひとを支えていこうと思える。今度こそ侍女としてまっとうに、平穏にお仕事が出来るはずだ。
「ま、せいぜい気をつけなさいよ。聖女なんて、どうせ胡散臭い手を使ってみんなを騙してるだけなんだから」
「奥様はそんなことしないと思うなぁ。いい人だよ?」
「ハ! あんたは分かってないね。ルナテア教会の犬なんて所詮……」
ジャァーー……。
同僚のロシーから言葉が途切れる。
給湯器に水を入れる音が、やけに大きく響いた。
「あんた……」
「え?」
エマが顔を上げると、ロシーがあんぐりと口を開けていた。
その手に持っていた口紅は落ちている。
「そ、その髪、どうしたの!?」
「え?」
エマは自分の髪に触れた。
昨日の夜、テレサに手入れしてもらって以来肌触りが良い。
鏡を見ようと振り返っただけで、さらさらの髪がふわりと揺れた。
「えへへ。今日もエマちゃんは可愛いでしょ?」
「まぁそうね。いつも通り……ってそうじゃないわよ! あんた昨日までそんな髪じゃなかったでしょ! 何がどうやってそうなったのって聞いてるの!」
「これはねぇ。意外と手間をかけてるんだよ? 実は二つ括りにしてるだけじゃなくて」
「そうね。あんたの髪はいつも丁寧に結われてるのは分かるわ。意外とマメよね……ってそうじゃないわよ! あんた昨日までそんな髪じゃなかったでしょ! ってこれさっきも言ったわよ! 何回言わせんのよさっさと秘密を吐きなさいよ!」
「これはねぇ」
エマは意味ありげに笑った。
「奥様に秘密道具を貰ったんだぁ」
「奥様に……? え、道具? それってもしかして……」
「うん。道具さえあれば誰でも出来るんだって」
ごくり。と唾を呑む音がした。
「ふ、ふーん」
物欲しげな目をしたロシーはちら、ちらとこちらを見る。
「それってさぁ……私も分けてもらったり……出来る?」
「えぇ。でもロシー、さっき奥様のこと胡散臭いって言ってたじゃない」
「いや! 考えてみれば聖女なんて言われてるんだし、本当のことはちょっぴりあるのかなぁとか……」
ロシーは唇を噛み、俯き、涙目でエマを見た。
「ごめん! もう言わないから許して!」
「うーん、それはエマちゃんに謝る事じゃないと思うけどぉ」
「奥様のこともう悪く言わないし! ていうか元々怪しんではいたけどそこまで嫌ってはいないというか! 昨日のメイド長たちの意地悪だって私は何もしてなかったでしょ!?」
「まぁ気持ちは分かるけど」
「でしょ!?」
必死に縋ってくる同僚を見てエマは唇に指を当てた。
(本当に奥様の言う通りになっちゃった)
昨日のテレサとのやり取りをを思い出す。
『でも奥様、反撃って言ってもどうするんですか?』
『エマは何もしなくていいですよ?』
『え、でも……』
『あなたはいつも通りで。決して自分からは何もしないでください』
『それで反撃になるんですか?』
『もちろんなります。美しさは語るものではなく、魅せるものですからね』
エマはもう一度自分の髪に触れる。
(確かにこれは……女には毒より強烈だわ)
さらっさらである。つやっつやである。
絹糸を散りばめたようなきめ細やかさに光に反射して艶めく髪。
女であればだれもが一度は憧れる理想の髪がここにあった。
「分けてあげてもいいけど、条件があるの」
「何? 何でも言って!」
エマが──もとい、テレサが提示した条件は三つだ。
一つ、テレサの悪口を言わないこと。
一つ、テレサに嫌がらせをしないこと。
一つ、メイド長と変わらぬ態度で接すること。
ロシーは首を傾げた。
「ずいぶん簡単ね。上二つは分かるけど三つめは?」
「さぁ。エマも奥様の考えを理解してるわけじゃないから」
けれども確信している。
この髪を見た時に、エマは思ったのだ。
──この人についていけば間違いない、と。
「どうする?」
「もちろん乗るわ!」
こうしてエマはテレサの味方を増やすことに成功する。
その後使用人たちで朝食を囲むと、エマの髪を見た使用人たちが興味を抱いた。
なにせさらっさらである。つやっつやである。
貴族の女性ですらお目にかかれない髪を聖女付きの侍女が持っているのだ。昨日まで自分たちと何も変わらなかった女が、である。
「エマ、その髪どうしたの!?」
「奥様に忠誠を誓えばその道具を貸してもらえるの!?」
「羨ましい! あたしもそんな髪になりたい!」
使用人たちの噂は早い。
今日一日、屋敷の案内と称してテレサと並んで歩くだけで使用人たちがエマの下に殺到した。予想を上回る成果にしどろもどろになりながら、エマは皆を安心させる。
「奥様は慈悲深いからエマ以外にも貸してくれるよ。でも条件があるの」
「「「乗るわ!」」」
こちらも既にロシーから聞いていたのだろう。
同僚の食い気味な返答に、エマは笑いを隠せなかった。
(本当に、奥様はすごいわ)
あの人なら、もしかしたらご主人様の心も──。




