プロローグ
「アリア・ランデリス。貴様に婚約破棄を言い渡す!」
王宮の舞踏会に高らかな声が響きわたる。
管楽器の音がぴたりと止み、水を打ったように静かになった。
アリアは唇をわななかせて呟いた。
「ジゼル・オルブライト殿下……本気ですか?」
舞踏会に静けさを齎したのは金髪の貴公子だった。
彼はおのれの正面、愕然と膝をつくアリアを見下ろして続けた。
「アリア。貴様は王族である僕に対し非礼を働き、あまつさえ家格が下のクリスティーヌ男爵令嬢に暴行暴言を繰り返した! もはや更生の余地はないと判断し、婚約を破棄する」
「待ってよ……わ、私が暴言暴行? 何を言ってるの」
「しらばっくれるか、この下衆め」
「で、殿下……もうやめましょう。ランデリス様も悪気がなかったのです」
ジゼルの腕を抱きながら言ったのは金髪の令嬢だった。
赤髪で釣り目がちのアリアとは大違いの、可愛らしい令嬢である。
小柄な身体に無垢でぱっちりとした瞳、弱くて震えている様が庇護欲をさそう。
「わたくが至らなかったばかりに彼女の気を逆立ててしまったのです。どうかお気をお沈め下さい」
「クリスティーヌ……未熟は罪ではない。未熟を笑うことこそが罪なのだ」
胸に熱いものがこみ上げてきたのだろう。
ジゼルはクリスティーヌを抱きしめると、カッと目を見開いてアリアを睨みつけた。
「このように年下の女を虐めるなど……恥を知れ、アリア!」
アリアは唇をわななかせた。
(こんな、ことって……)
自分が婚約者から煙たがられていることは知っていた。
十年前から婚約しているというのにプレゼント一つ送られたこともないし、たまの外出時も拳闘や狩りに出かけるなど、自分のことを慮ってくれることなどなかった。巷の婚約者同士が気遣い合い、政略結婚の中でも愛をはぐくんでいくのを見て、どれだけ羨ましかったことか。
「国王陛下は……陛下はご存知なの?」
「もちろんだ。そうじゃなきゃこんな公衆の場で婚約破棄など言わないさ」
たとえ許可を取っていようとも一人の淑女を辱めるような行いは論外だ。
秘密裏に書類のやり取りをして、静かに噂が流れることが普通なのに。
アリアは、ジゼルが凶行に及んだことに憤懣やるかたない思いだった。
「私の領地は……ランデリス家がどうなってもいいというの?」
王子に婚約破棄された家がどのような印象を受けるかなど決まっている。
ランデリス家は今後、厳しい立場に置かれるだろう。
「貴様が罪を犯したせいからな。自業自得だ」
「罪? 下級貴族の作法を注意したことが罪なの? あなた、王族として恥ずかしくないの?」
ジゼルの額に青筋が浮かんだ。
「衛兵! その女を連れて行け! 然る後に裁判にかける!」
「はっ!」
「私に近付かないで!」
アリアの足元に魔法陣が煌めき、地面から生えた無数の茨が兵士たちを遮った。
悲鳴が上がる。
兵士たちの怒号。
狂騒じみたざわめきが舞踏会場に満ちていく。
茨の結界の中、雨色の瞳は烈火のごとく燃えさかり、ジゼルを睨みつけていた。
「殿下、今一度お考え直しください」
「くどい。こんなもので俺たちを閉じ込めたつもりか」
ハ、と鼻で笑ったジゼルが言った。
愛する人を腕に抱えた彼は手を掲げる。
「魔法を無効化出来るから、俺たちは王族なんだ」
「……っ」
ガラスが割れるような音が響き、アリアの茨は光の粒子に還った。
王権魔法。
この国にいる限りすべての魔法を無効化する、王族の特権。
「──確保!」
「うぐっ」
茨の魔法が消えたと同時に、アリアは兵士たちに取り押さえられた。
地面に押さえつけられた彼女はうめき声をあげ、手を縛られてしまう。
「さらばアリア。貴様とはもう二度と会うことはないだろう」
「……っ」
ジゼルは浮気相手を抱きながらさっそうと去って行く。
アリアは血を吐き出しながら暴れまわった。
「絶っっっ対許さない! この私にこんな真似をしてタダで済むとは思わないことね。絶対、絶対泣かす! 許してくださいって泣き縋ってくるまで、絶対泣かしてやるんだから!」
「ははは! 出来るものならやってみろ! その時には貴様は死んでいるだろうがなぁ!」
口元を布で覆われた、アリアの急速に意識を手放した。
身体から力が抜ける。視界が徐々に暗くなっていく。
ぼんやりとした視界の向こうに、ジゼルの背中を焼き付けていた。
いつか。
絶対、必ず、こいつらを泣かしてやる……!
◆◇◆◇
「…………さま」
「……」
「奥様! もうお昼寝の時間は終わりましたよ! 起きてください!」
ハッ、と、ゆりかご椅子にもたれていた彼女は目を覚ました。
雪色の髪がさらりと揺れる。ぱちぱち、と雨色の瞳を瞬いた。
窓から差し込む光がまぶしい。
白魚のような手をおでこに当てて、彼女は息を吐く。
(……私、寝てた?)
「もう。いいお天気だからってお昼寝しすぎですよ、テレサ様っ」
「……エマ?」
隣には元気な金髪の侍女が微笑んでいる。
窓辺に座る彼女に、侍女のエマはお辞儀した。
「はい、そうです。奥様の専属侍女のエマです。今日も可愛いでしょう?」
「エマはいつも可愛いですよ?」
「もう、敬語は止めてくださいっていつも言ってるのに!」
エマは腰に手を当てながら微笑んだ。
「それにしてもよく寝ていましたね。いい夢は見られましたか?」
「そうですね……昔の夢を見ていました」
「へぇええ、奥様の昔話ですか。ちょっと興味あります」
「あら。別に普通でしたよ?」
「そんなー! 聖女である奥様の昔話が普通なわけありませんよぉ!」
きゃっきゃと元気な侍女は彼女の背中に手を回して起き上がるのを助けてくれる。
「さぁさ、そろそろ起きましょうね。旦那様が帰ってきてしまいます」
「えぇ、分かりました。分かりましたから……もう、ちゃんと起きるますってば」
「またまた! そうやってこの前も二度寝したの忘れてませんからね!」
テレサは曖昧に微笑みながら起き上がる。
軽く支度を整えていると、玄関のほうで地竜の嘶きが聞こえた。
窓際に駆け寄ると、ちょうど黒い服の男が厩舎に地竜を預けているところだった。
「旦那様だわ。行きましょう、エマ」
「はい。奥様」
テレサは大階段を下りて玄関に向かう。
ちょうど玄関に入って来た黒い服の男に、総勢二十人の使用人が出迎えた。
『おかえりなさいませ、旦那様』
「あぁ」
黒い短髪に、黒いトレンチコートに黒い革靴。
闇よりも深い夜色の瞳はどこから気だるげだ。
『暗黒公爵』ノクス・アーカイム。テレサの夫である。
いつも通り不気味な雰囲気を漂わせる夫にテレサは微笑んだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「テレサ」
テレサを見た瞬間、ぱ、とノクスの顔が輝いた。
しかし、周りの使用人たちを思い出した彼は「咳払い」して目を逸らす。
「……あぁ、ただいま」
「今日もお疲れさまでした。例の方の……アリア・ランデリスの捜索は進みましたか?」
「いや、それがまったくだ。神出鬼没でつかみどころがない」
「……そうなんですね」
一拍の間を置いてノクスは言った。
「最近、やけにあの悪女のことを気にするんだな」
訝しむような夫の言葉にテレサは顔をあげ、ゆっくりと頷いた。
「もちろんですわ。だって、怖いでしょう? 婚約破棄された腹いせに領民を殺すような女ですよ? 今もどこに潜んでいるか……無辜の民が心休まらないことを思うと、聖女として心配もします」
「……聖女としてか。なるほど」
ジ、とノクスはテレサを見下ろした。
「そういえば、お前の瞳はあの女と同じ色だな」
(……っ! もしかしてバレて……)
テレサは笑顔を取り繕い、聞こえなかったふりをした。
「……何か言いました?」
「いや、なんでもない」
ばかばかしい、と呟いて、ノクスは革鞄の中に手を入れる。
「喜べ。土産を持ってきた」
「まぁ。ありがとうございます。もしかしてお菓子でしょうか?」
「いや、鉱山の権利書だ」
「は?」
テレサは思わず凍り付いた。
……何を言ってるの?
ノクスは紙束を出してテレサに手渡した。
「領地の南で新しく鉱脈が発見されてな。かなり質のいいサファイアが取れるらしい。どうだろう。そこで採れた最高品質のサファイアを『ブルー・テレサ』と名付けるのは」
「……本気で言ってますか?」
「不満か? なら鉱山の名前をテレサ・マウンテンに変えよう」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「……そうなのか?」
──本気で分かってないのかこの人はっ!
テレサの内心の叫びを知ってか知らずか、ノクスは肩を竦めた。
ふ、と微笑んで、テレサの肩に手を回す。
「今度一緒に見に行こうか」
「なんで宝石にわたしの名前なんて……」
「聖女の名にあやかるのは当然のことだろう?」
夜色の瞳は熱っぽくて、肩を抱く彼の手付きは愛おしげだ。
言葉は刺々しいのに、その目と手付きは抱いた感情を隠せていない。
(契約結婚だったはずなのに……)
ノクスはテレサの耳元に顔をちかづけて囁いた。
「何と言ったって、お前は俺の妻だからな」
(どうして……)
テレサは夫と共に歩きながら遠い日を思う。
初めて出会った時はこうではなかった。
むしろ、とんでもない暴言を吐かれ、仮面夫婦として過ごしていたのに。
(どこからこうなったのかしら)
──聖女様には秘密がある。
過去を隠し、名を偽り、ある目的のために動いている。
聖女様は悪女だ。
新作始めました。
よろしくお願いします!