いつの間にかあなたの体にできている痣の理由について
探してみてほしい。
あなたの体に痣はあるだろうか?
その痣ができた理由を、あなたは憶えているだろうか?
これからするのは、あなたが忘れてしまった、あなたについての話だ。
それはいつものように、あなたが入浴するために服を脱いだときに始まった。
あなたは鏡を見て顔を引き攣らせる。
背中が広範囲にかけて変色している。およそ紫だ。青い部分もあれば、細く赤い筋が走っているところも、赤褐色を黄色で縁取られているところもある。
あなたは鏡に背中を向け、痛めそうなほど無理に首を後ろにひねってまじまじと観察しながら、しかし、痣のついた理由にまるで心当たりがない。
あなたがまず疑ったのは皮膚病だ。知らず知らずのうちにノミだとかダニだとかに噛まれて悪い菌が入ったのかもしれない。いますぐにでも病院に行こうか、それとも夜は様子を見て、翌日にしようか。あなたは悩みながら、結局、眠りは浅いままに夜を越した。
「ただの痣。」
上から投げつけるように医者は言った。
あなたが反応できないうちに、医者は同じ口調で言う。
「よくない遊びでもしてるの?」
あなたは虚を突かれぽかんとしたあと、自分が特殊な性癖を持っていると勘違いされているのだと察した。
医者の呆れたような薄笑いを見ながら、あなたは、あぁまたこれか、と眉をひそめる。病院に来るたび、いつも性根の曲がった医者に当たる。彼らはこぞって尊大で、知ったような口を利き、嘘ばかり言う。つい先日かかった医者もそうだった。
あなたはそう思うが、しかし“先日”というのがいつで、どこの病院なのか、どんな医者だったのか、そもそも自分がどういう症状だったのかを、まったく憶えていない。憶えていないことにさえ気づかない。
あなたは家に帰るため、駅のプラットホームで電車を待っている。
こういうとき、あなたは大抵、黄色い線から距離をおくようにしている。電車が来るまでベンチに座っているか、すでに列ができているならそれに並ぶ。あなたが自発的に列の先頭になることは決してない。
駅に限ったことではない。あと数歩先に死の危険がある場所には、あなたは極力近づかないようにしている。断崖絶壁には寄りつきもしないし、桟橋さえ渡るのを憚る。横断歩道で信号待ちをしているときには車道からなるべく距離をとって、渡るときには緊張し、細心の注意を払う。あなたは無意識にだが、疑問すら持たずに、そうするようになった。
しかしいま、あなたの前に並んでいた二人連れが、なにか相談したあと列から去った。
あなたの後ろにはたくさんの人が並んでいる。ホームは人でひしめき合っている。詰めなくてはならない。深く考えなくてもそうするべきだとわかる。あなたは実際にそうする。ただし、ひどく胸騒ぎがする。ただただひたすらに、ここから一歩でも離れたくて仕方がない。
しかし、自分がなぜそう感じるのか理由がわからない。
ここから立ち去るための理由を用意しようと思考を巡らせているのに気づいて、あなたは自分自身を不審がった。
あなたは及び腰になりながらも、ここにいつづけるために、自分を納得させようとする。
――列の先頭になるのはおかしなことではない。自然なことだ。やってくる電車は自分の眼前に迫るだろうが、不安になるようなことじゃない。怖がるようなことじゃない――。
あなたは生唾を呑みこみ、平静を装う。
不自然に見えない程度に足で踏ん張りながら、何気ないふうに目をやや伏して電車がやってくる方向へ視線を向ける。
鼓動が速まる。額に脂汗が浮かぶ。
あなたの視界に、電車の姿が小さく入ってきた、そのときだった。
背中を押された。
それはかなり強い力で、あなたは踏ん張っていたにもかかわらず均整を大きく崩し、前のめりによろめいた。
頭から転倒するのを防ぐため、反射的に足がトトト、と小刻みに進む。すぐに黄色い線を越え、片方の靴の裏の前半分がホームの縁からはみ出し、あわや線路へ落下する寸前に、あなたは手首を掴まれた。
しかしただ掴まれただけで、引き戻されはしなかった。体の重心はまだ前に傾いている。あなたは気が動転して、もはや電車の警笛すら聞こえない。その背中、腰あたりの服を後ろからしゃにむに掴まれて、あなたは乱暴に後ろへ引き戻された。
――助かった。
そう気づいたときには、電車はすでに到着し、停止していた。
電車に乗り込む人波のなか、あなたはホームに座り込んでいたが、あなたを助けた人と駅員に声をかけられて、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。
あなたは混乱から回復しきらないまま駅員に謝罪し、けれど自分の意志ではなく誰かに押されたのだと釈明して、そして自分を助けた人に感謝を伝えた。
あなたを助けた人も、あなたと同様に、あなたが誰かに押されたようだったと証言した。そして困惑したように「姿は見えなかったけれど」と付け加えた。
あなたを助けた人は、その英雄的行為とは裏腹に、どこか釈然としない様子だった。
「見間違いかも知れませんが、」
と躊躇をみせたあと、あなたに告げた。
「私が掴む前に…一瞬なんですけど…あなた、停まりましたよね? ……こう…中途半端な格好でぴたっと、片腕を掴まれたみたいな格好で。そうじゃなきゃ、私はあなたの服を掴めませんでした…から……。」
歯切れ悪く言い、あなたも閉口する。
その人は曖昧に会釈して、それ以上関わり合いになりたくないかのようにそそくさと去った。
あなたは駅員からしばらく聴取されたあと解放され、ひとりになってから、袖をまくって自分の手首を見た。誰も触っていないはずの、しかし触られた感触だけははっきりと残っている、自分の手首を。
赤く痣がついていた。
それは明らかに手形だった。
小さな、おそらく子供のものだった。
駅で起こった奇妙な出来事を、あなたはなんの気なく、あなたの親に簡単に伝えた。そうすると親はあなたの様子を注意深く観察してから、おもむろに、こんな話を始めた。
ここから遠くの、ある土地に、御神体として祀られる大岩がある。
それは四車線の国道の真ん中あたりに鎮座し、そのため周辺の車線は大きく歪んでいた。
国道の片側は断崖絶壁で、コンクリートで舗装された壁面を見上げていくと、最上部には柵が見える。崖の上、柵の内側には大岩のための神社があった。
国道の建設時にその一帯もろとも均す計画だったのが、悲惨な事故が続いたせいで、崖も神社も大岩も残されることになったという次第だ。
かつてその土地が開かれるずっと前、そこはいわゆる姥捨て山だったらしい。ただしやりかたが着実で、崖から突き落として大岩にぶつけて殺していたという。口減らしのために子供も殺された。罪人も処刑された。それが真実か誇張された伝承かは定かでないが、大岩に染みついた怨念が悲惨な事故を引き起こしたのだと、連想しないほうが難しいだろう。
悲惨な事故はいまなお時折起こる。ニ、三年に一度の頻度で、国道を走る自動車が吸い込まれるように大岩に正面衝突するのだ。あるいは自殺の名所として有名だから、それを目的に人がやってきて飛び降りる。それでしばしば人が死ぬ。
呪いなんだろう、とあなたの親は言って、長い話を区切った。
なぜ突然そんな話を? とあなたはいぶかしむ。
あなたの顔付きを見なして、親は続けた。
――わたしたち家族は、昔そこに暮らしていた。引っ越しする前の記憶は、あなたには全然ないだろうけど。
あなたが記憶を探って閉口しているかたわら、あなたの親も、思わしげに口を閉じていた。やがて重い溜息をつくと、また口を開く。
――あなたたちの小学校の帰り道に、その神社はあった。あなたたちはそこで遊んでいて、あなたたちは体が小さく、柵の隙間を通れた。そしてあなたの妹は、崖から落ちてしまった。
「いもうと?」
あなたは思わず呟き、親は頷く。
――妹の手首には、あなたの手形の痣が残っていた。あなたは一度は掴んだけれども、引き上げることができず、目の前で妹を亡くしてしまった。それが余程ショックだったんだろう。あなたは子供時代のこと、妹のことをまるきり忘れてしまった。
そんな話を聞かされても、あなたはあなたの妹がどんな姿だったか、どんな声で、どんな性格だったか、まるで思い出せない。
あなたの親は、あなたを気づかわしげに見つめる。
――こんな話をするのは初めてではない。あなたは何度もこの話を聞き、そのたびに忘れていた。話を聞き終えることさえできないときもあった。『妹』という単語を聞いただけで、あるいはむかし暮らしていた土地の名前を聞くだけで、あなたの様子は変になることがあった。瞼は開いているのに眠っているような状態になって、会話の内容を一切憶えていないこともあれば、断りも入れずに突然に中座することもあった。妹が亡くなってすぐに、しばらく精神科病院に入院したものの、そういう障害は治りきらなかった。今回は話ができたぶん、状態が安定していたのだろう。
けれど、そういった精神障害を起こすのは、まだいい。心配なのは、あなたがときおり死にかけていることだ。これまではからがら助かってきたが――と、それ以上のことを、あなたの親は口にできなかった。
あなたは、自分の腕の袖をまくって親に見せる。
そこには小さな手形の痣がある。
親はそこに優しく触れた。
微笑みながら、下瞼には涙が膨らんでいる。
「助けてくれたんだろうね。いつもそばにいたから。あなたがいくら嫌がっても、怒っても、あの子、いつも後ろにひっついて回ってたもんね。」
入浴前、鏡の前で、首を後ろにひねって背中を見ながら、あなたは考える。
――この痣の理由は何なのだろう?
駅で強く押されたせいか、さらに色濃くなったように見える。
この痣は、かつて暮らしていた土地の呪いのせいなのだろうか。
妹が死んだのも、もしかして――。
あなたは思わず想像する。大岩によって死んだすべての人の、その二倍の数の手がどこまでも伸びて、自分の背中を押し、安全なこちらの世界から、死というあちらの世界へと落とそうとしている――そんな情景を想像して、そしてすぐに頭を力なく横に振り、忘れようとした。
夜、灯りを消した部屋で、あなたはうつ伏せに眠っていた。
突然、背中を打つ衝撃に起こされる。
等間隔に何度も打たれる。
マットのスプリングに合わせて自分の体がわずかに上下にバウンドした。
あなたは起き抜けのまだ浅い覚醒状態で、かつ驚き混乱していたから、思考はもちろん聴覚さえ正常に働くまでに時間がかかった。
幼い子供のような高い声でなにか言っているが、それが数字を数えているのだとわかったときには、すでに「5」まで進んでいた。
背中をなにかが打つたびに、ろーく、しーち、はーち、と無邪気な声がカウントする。
やがて、じゅーう! と言ったあと、声も、背中への衝撃も停まった。しかし背中はなにかで圧迫されつづけていて、胸が苦しい。
もーいーかい? と声がする。
あなたはいまだ瞼を閉じているが、ふいにこの状況を理解した。
暗闇のなか、あなたの背中に子供が乗っている。その子供がピョン、ピョン、と飛び跳ねていたのだ。こんなことが夜な夜な繰り返されているのなら、背中に痣が残るのも当然だった。
もーいーかい、もーいーかい、もーいーかい、――呼びかけは執拗なほど続いていたが、やがて再び、いーち、と数を数えはじめ、跳びはじめた。
あなたは、子供に気づかれないようにゆっくりと体を動かそうとして、やっと、金縛りになっているのに気づく。
体はうつ伏せで、顔だけ横に向けていたあなたは、薄眼を開け黒目を動かして、背中の上を飛び跳ねる子供を見ようとする。
途端、背中への衝撃がふっ……と消えた。
体に圧迫感はなく、金縛りも解け、息が楽になる。
あなたは呼吸を整えながら瞼を閉じ、汗をびっしょりとかいた顔を乱暴に拭い、無造作にまた瞼を開いた、そのとき、目と鼻の先に、女の子の顔があった。
「みーつけたッ!」
女の子は小さな丸っこい手を伸ばして、その指先をあなたの顔、眼球のあたりに差し伸ばした。
指はあなたの眼球に触れ、しかし触れられた感触はなく、透けて、脳のなかに入ってくる。
「つかまえたぁ!」
この幼い女の子があなたの妹だと、あなたは思い出した。
それからあなたは暗い視界のなか、夢とも、過去のフラッシュバックともいえない情景を、見た。
あなたが見ているのは、幼い頃のあなた自身だ。
幼いあなたは柵の向こう側にいた。断崖絶壁のすれすれに立っていた。
振り返ってあなたに手招きをする。
あなたの意志とは関係なく、あなたの首はいやいやと左右に振られた。まだ幼い、悲鳴に近い声で、あぶないよと言った。
それであなたはふと、この光景は、あなたの妹がかつて見たものだと覚った。
「一緒に遊ぼう。」
と幼いあなたは言った。
ここまでおいで、手の鳴るほうへ、鬼さんこちら、手の鳴るほうへ、とけしかけた。
あなたの体は文字通り二の足を踏んでから、そのあと、恐々と柵のあいだを通った。
きれいな夕焼けだね、と幼いあなたは穏やかな声で言った。あなたの視界はぼんやりと風景を眺めたあと、上下にわずかに揺れた。
こっちへおいで、下を見てごらん、という幼いあなたの言葉に、あなたの体は従った。
下を覗き込んだ背中を、トンと押された。
重心が前に傾き、とっさに後ろへ手を伸ばした。自分を押したはずの幼いあなたに、それでも助けを求めたのだ。
幼いあなたはその手首を掴んだ。
落下する妹に引っ張られて、幼いあなたは崖の際に膝をついたものの、からがら落ちずに済んだ。
あなたの体は、幼いあなたの片手だけに掴まれた状態で、ぶら下がっている。
引き上げられもせずに。
あなたは、視界のなかにある幼い妹の腕を見る。とても小さい。
あなたはふと思う。妹はこのとき、子供の遊びのいくつか――たとえばかくれんぼや鬼ごっこや縄跳びやだるまさんが転んだなどが、ごっちゃになって、それぞれの区別がついていなかったのではないか。それほど幼かったのではないか。善悪の分別も、おそらくは生と死の違いも、まだ明確に理解していなかったのではないか。なににつけても”遊び”だと言われれば、そのまま”遊び”なのだと鵜呑みにしてしまうほど、幼かったのでは――。
そして、当時のあなたもまた確かに幼かっただろうが、それでも引き上げられるくらいあなたの妹は小さく、軽そうに見えた。
幼いあなたと、あなた――つまり当時の妹は、この長い一瞬にただ見つめ合っていた。
幼いあなたがどんな表情をしていたか、見ていた。
やがて指は開かれた。
小さな体は落ちた。
あなたの妹は、そうやって死んだ。
次の瞬間、あなたの視界は切り替わる。
あなたの視界のなかには、遙か下方にあなたの妹で血塗られた大岩があり、また、手を伸ばせば触れられるほど近くに、幼いあなたの後ろ姿があった。
翌朝、あなたは何も覚えていない。
昨晩起こったことも、背中の痣のことも、皮膚科に行ったことも、痣に気づくたびにしばしば皮膚科に行っていることも、駅で死にかけたことも、駅以外でもいくどか死にかけていることも、かつて暮らした街のことも、子供の頃に精神科に入院していたことも、あなたに妹がいたことも、あなたが妹にしたことも、あなたは、また、すべて忘れてしまった。
けれどいいの。
思い出さなくても。
わたしは忘れないから。
わたしは、わたしが落ちていくときにあなたが笑っていたのを、忘れないから。
いつまでもそばにいるからね。
いつも後ろにいるからね。
また一緒に遊ぼうね。
余談ですが、いま、あなたの膝小僧とかに痣はありますか?
それはたぶん“妹”のせいではありません。
心理学には『解離』と呼ばれる現象があるそうです。
たとえばですが、寝坊して身支度を急いでいる朝、膝を椅子にぶつけても、それを痛がっている暇がないとき、意識から痛みを『解離』させる、というようなことが起こるらしいです。
私にもその程度の痣ならよくできています。
ただ、背中の広範囲に及んで痣がある、とか、ふと気づいたら全然知らない場所にいて拳に血がついている、とかだったらこんな小説なんて読んでないですぐ病院に行くなりなんなりしたほうがいいと思います。
本作の主人公「あなた」が精神科で診断されたのは、この『解離』が生活に支障をきたす形で現れてしまった『解離性健忘』『解離性遁走』という設定です。
私は心理学にも精神医学にも不案内なので、気になった方は診療ガイドラインとかを読んでみてください。
かなり興味深い内容でした。
長いあとがきになってしまい、失敬。
読了お疲れ様でした。