後編
皿洗いから始めて、一月ほど経った今では簡単なデザート程度なら作らせてもらえるようになった。
それだけわたしの料理の腕が見込まれたのかと思うと、嬉しい。
……テオドール様にも食べていただきたかったな、なんて思うのはきっと許されないことなのだろう。
テオドール様はデザートを注文しない。元々あまり甘いものがお好きではないのかも知れなかった。
散々菓子パンを食べさせてしまった自分を悔やむ。それと同時に思った。テオドール様はもしかすると、哀れなわたしに同情を示して、食べてくれていただけなのではと。
きっとそう違いない。彼は『氷の貴公子』と呼ばれ、普段は冷たそうな態度をしていながらその実優しいのだ。
胃袋を掴めるかも、なんて思っていたことが情けなくなった。
わたしは結婚相手を見つけられないまま、食堂で働いて学生時代を終えるのだろう。
そして領地に帰って、また貧しい中料理を作って領民を励ますくらいしかできない。そしてそのまま子爵領は落ちぶれていくのだ。
「情けないなぁ……わたし」
それならば、強引にどこかの令息を引き込む?
でもテオドール様以外と結婚するなんて嫌だった。それがどれだけ傲慢な言い分かは自分でもわかっているつもりだ。それでも、全く知らない、他の令息と口付けを交わすところを想像したら、寒気がした。
……それに無理矢理夫婦になるなんて、相手に悪い。
グジグジと悩みながら、夜、ベッドに潜り込む。
最近またろくに眠れていなかった。料理作りをしているからではなく、考え事のせいで。
「テオドール様」
彼の端正な顔を思い出し、胸が痛くなった。
時たま、遠くから見かけることがある。
その度にわたしの心臓は飛び跳ね、どうしようもなく荒ぶってしまう。
好き。どうしようもなく、好きなのに。
もう一度彼と並んで穏やかな昼食を食べたいと、心から願った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――朝方の数時間だけは眠れたが、寝不足で頭が痛んだ。
そろそろ朝の授業が始まる時間だと思い、重い体を引きずり起こす。
黒いドレスを身に纏い、必要最低限の化粧と髪の手入れをすると、わたしは空っぽの腹を抱えながら外へ出る。
そのまま急ぎ足で学園の校舎に向かうはずだった。
寮の扉の外、すぐそこに置かれていた大きな箱を見るまでは。
「え……?」
何だろう、これは。
周囲に誰もいないのを確認してから、首を傾げたわたしは箱を手に取ってみる。
……何かの荷物かと思ったが、意外に軽い。そして、中から焦げ臭いような甘いような妙な匂いがする。
開けてみるとそこには、いかにも初心者が作りましたという風なクッキーが敷き詰められていた。ところどころに焼け焦げがあった。
嫌がらせだろうか。
料理好きなわたしへの当てつけ? それならもしかすると、毒など入っているかも知れない。
しかしそんなことを考えたのはほんの一瞬だけだった。なぜなら、クッキーに紛れるようにして入っていた手紙を見つけたからである。
手紙、と言っても小さな紙切れではあったけれど。
その紙切れに書かれていたのはたった一言。
『今日の昼時、例の場所で感想を聞かせてほしい』
わたしの頭は真っ白になった。
昼時。例の場所。
その言葉を書いたであろう人物を、わたしは知っている。
遅刻するのも構わず、その場で食べた。
おそらくこれは、彼の手作りなのだ。侯爵令息、それも嫡男だからきっと今まで一度も料理したことがなかったであろう彼……テオドール様の。
出来はひどいものだった。
クッキーは乾いてパサパサだし、焦げているところが苦い。砂糖が多過ぎだ。
それでも、嬉しかった。テオドール様は一体どんな気持ちでクッキーを作り、わたしの部屋の前に置いてくれたのだろう。想像するだけで、泣けてきてしまった。
クッキーにはさらに涙の味が加わって、不味くなった。
「テオドール様」
例の場所へ行くと、すでに彼が待っていた。
輝く銀髪、藍色の瞳。どれもうっとりするほど美しい彼は、今日はいつもと違って少しそわそわしているように見える。
「ソフィー嬢、久しぶり……だな」
「そうですね。お久しぶりです」
今日だけ特別食堂の人たちに事情を話して抜けさせてもらっている。「頑張っておいで」と励まされまくってしまい、少し恥ずかしいくらいだった。
「……どうだった」
何が、とはテオドール様は言わなかった。
しかしわたしは満面の笑みで答えた。
「ありがとうございました。まさかあんなプレゼントをいただけるなんて思っていなくて、夢のようでした」
「そうか」
周囲でこっそり耳をそばだてていた令嬢が、ざわつき始めるのがわかる。
そもそもわたしはテオドール様と言葉を交わすだけで消されるだろう立場。それがプレゼントなどと言い出そうものなら、明日わたしの命はないかも知れない。
けれども今のわたしは少しも恐れていなかった。
どうせ何もしないまま帰っても子爵家が没落するのは同じ。それなら、いっそのこと当たって砕けた方がいい、となんだか吹っ切れたのだ。
それはテオドール様のクッキーのおかげだった。
「俺も、作ってみようと思ったんだ。でもてんでダメだな。ソフィー嬢には、まるで敵わなかった」
「そうですね。本当にごめんなさいですけど、味はお世辞にも美味しいとは言えませんでした。でも……」
わたしはテオドール様の手を取った。
「良かったらわたしが、お料理を教えて差し上げましょうか?
まずはこの学園で。調理道具の一部が壊れてしまっているので、できることは少ないのですけど。そして卒業した後はうちの実家――ブラウト子爵家で」
テオドール様が静かに目を見開いた。
……当然の反応だ。だってそれはつまり、遠回しな求婚だったのだから。
断られても、それで良かった。
元より受けてくれるなんて思っていない。今回クッキーをくれたのだってただの同情心によるもの。
だとしても。
――せっかく機会を得られたのだから、想いを口にしないなんて損なことはしたくなかった。
まるでこちらを見定めるような視線を向けてくるテオドール様。
しばらくの沈黙の後、彼はやっと、口を開いた。
「それは……魅力的な、誘い文句だな」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
テオドール様の衝撃的過ぎる言葉に危うく失神しかけた。
わたしの遠回しな求婚を、魅力的な誘いだと言われたのである。わたしの憧れの人であり想い人、『氷の貴公子』テオドール・ディクタン侯爵令息に。
「えーと、その……。わ、わたしの言っている意味、きちんとわかっていただけてます!?」
思わず声が裏返った。
そんなわたしを見て、静かにため息を漏らすテオドール様。
彼はなんだか呆れ返っている様子だった。
「当然だろう。ソフィー嬢の気持ちなんて、ずっと前からわかっていた。俺がそんなのがわからないほど鈍い男だと思われているなら心外だな」
「で、でもおかしいです! テオドール様はどんな高貴な方からの求婚も断っていらっしゃったではないですか。どうしてわたしだけ……」
「最初は風変わりな君と、君が作った料理に興味を持って声をかけただけだった。
料理をする令嬢なんて珍しいからな。どんなものかと思って食べてみたら、予想以上で驚いた。
そしてそれからは君のキラキラした眩しい瞳に惹かれて、君と過ごす時間を心地よく思うようになっていった」
テオドール様は淡々と続ける。
「またここでソフィー嬢と食べたい。そして話したい。故に、俺は君の誘いに乗ろう。
――ソフィー・ブラウト子爵令嬢。婚約の申し入れをさせてくれ」
「だ、ダメです……っ」
「なぜだ。誘ったのは、君の方だろうに」
「テオドール様はディクタン侯爵家を継ぐお人です! わたしのところ、後継ぎがいなくて。だから、婿入りしてもらうことになるから、その」
「ディクタン侯爵家の後継なら、弟に任せる。諸事情あって、俺は嫡男じゃなくなったからな」
「えぇぇぇぇぇ!?」
実はテオドール様は元々ディクタン侯爵家の子息ではなく、侯爵家の分家の生まれだったそう。
なかなか男児が生まれないことから嫡男になるため養子として引き取られたが、その数年後に正式な侯爵令息が生まれたために侯爵家の嫡男の立場を下ろされ、もしもの時のために今まで侯爵家にいたのだという。
それを大々的に発表していなかったため、周囲の令嬢たちが勝手に勘違いしていただけだったらしい。
「弟には婚約者がいるから、今までその代わりにうるさい女たちに集られてやっていただけだ。だから君の子爵家に婿入りするのは何ら問題がない。それでもダメか?」
そこまで言われれば、わたしが首を横に振るはずもなかった。
わたしの夢は途中で絶えたと思っていた。でも、叶ったのだ。
――まさかテオドール様もわたしを気に入ってくださっていただなんて、思わなかった。そのことが何よりも嬉しい。
「はい……っ。その婚約、お受けさせていただきます」
「それでいい。詳しい婚約の話はまた後日するとしよう」
それからテオドール様は声を大きくし、聞き耳を立てている令嬢たちに向かって言った。
「そういうわけだ。盗み聞きなんてくだらないことはやめて帰ってくれ。――もしも彼女に手を出す愚か者が出れば俺が叩き潰す」
令嬢たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていき、後にはわたしとテオドール様だけが残された。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから色々、本当に色々とあった。
テオドール様に釘を刺されていたにも関わらず、わたしに手を上げようとした令嬢数人が退学になったり。
直接的な暴力ではなく、わたしがテオドール様に惚れ薬を使ったのだとして――惚れ薬はこの国では厳しく取り締まられている――牢屋送りにされそうになったなんて事件もあった。
結局、それが某公爵令嬢の嘘だとテオドール様が暴いてくれて、彼女は社交界を追放されたのだけれど。
ちなみにわたしの料理道具をぐちゃぐちゃに壊したのも脅迫状を書いたのも彼女の仕業だったので、ざまぁ見ろだった。
そんなこんなありつつ、わたしとテオドール様はそれぞれの実家へ手紙を送り、婚約を了承してもらって、正式に婚約者同士になった。
――そして求婚してから二年が経ったある日のこと。
学園を卒業したわたしは久々にブラウト子爵家へ帰って来ていた。
もちろん隣には、テオドール様を連れて。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
「リタ、ただいま。彼が婚約者のテオドール様。どう、かっこいいでしょう」
出迎えてくれた侍女のリタに思わず自慢してしまう。
テオドール様はこの二年でさらに輝きを増し、右に出る者がいないほど美しくなっていた。わたしの自慢の婚約者だ。
リタは「いい殿方を捕まえましたね」と大層喜んでくれた。
それからわたしの両親とテオドール様の顔合わせが行われ、それも無事に済んだ。
結婚式は数ヶ月後の予定だが、それまでテオドール様はブラウト子爵邸で過ごすことになっている。両親の態度を見るに、彼との同居生活をするにあたって心配する必要はなさそうで安心だった。
「――さて、これでようやく、約束が果たせますね」
「そうだな。よろしく頼む」
約束。それはつまり、この子爵邸でテオドール様に料理を教えるというあの話だ。
学園の寮でもわたしたちは何度も一緒に練習したので、今はテオドール様もクッキーを焼け焦げにするようなことはなく、それなりに美味しく作れるようになっている。
でも約束は約束だ。きちんと果たさなくてはならない。
久々に足を踏み入れた厨房は、懐かしの料理道具で溢れていた。
今回作るのは、チーズ入りのスコーン。スコーンはテオドール様との初めての出会いの時にわたしが食べていたものだったので印象深い。パンと迷ったが、こちらにした。
材料を取ってきて、並べれば準備は万端。
エプロンに着替えたわたしは言った。
「早速作りましょうか!」
ボウルに薄力粉、ふくらし粉、牛乳、少し冷やしたバターを入れてかき混ぜる。
主役はダイス状に切ったチーズ。
味付けは塩少々と砂糖、それにおまけでドライトマトを加える。
あとは三角型に成形して、あたためておいたオーブンの中にぶち込めば、焼き上がるのを待つだけ。
料理の工程も難しくないし、お菓子にもなれば軽食にもなる、すごくお得な料理だとわたしは思っている。
……だが量が多いと作るのはなかなかに大変だ。
せっかくなので領民全員分を作ろうと思ったら、とんでもない作業になってしまった。
テオドール様が想像以上の手際の良さで手伝ってくれたので、数時間で終わったけれど。
「味見しましょうか。じゃあ、テオドール様の作った方、いただきますね」
「では俺は君の作った方を」
婚約者同士らしく、「あーん」をして食べさせ合った。
わたしは気恥ずかしかったが、どうにか耐えた。スコーンの味は甘さとドライトマトの塩味の具合が絶妙で、舌触りも良く、なかなかに美味しい。
「上達、しただろうか」
「上達しましたともっ。合格です!」
「ありがとう。でもやはり俺は君にはやはり及ばない。君のは、いつ食べても美味いな」
そう言いながら、テオドール様は静かに微笑んだ。
……微笑んだ、のだ。
「テオドール様!!」
求婚した時も、一緒に料理を作った時も、正式に婚約を結んだ時でさえ、実は彼は一度も笑顔を見せていなかった。そんなテオドール様が笑った。
ずっと見たいと思っていた彼の笑顔は、やはり最高に美しかった。
わたしは大歓喜のあまりテオドール様に飛びついて、勢いで彼ごと倒れ込んでしまったのだった。
「うわぁっ!」
わたしは女らしくない野太い悲鳴を上げた。
その時、テオドール様との距離が未だかつてないほどグッと縮まって。今すぐにでも互いの顔が触れ合いそうな距離で見つめ合っていること、そして彼に抱き止められていることに気づいて心臓が止まりかける。
「ソフィー嬢、今のはわざとか?」
「わ、わ、わざとじゃ、ないです……。ごめんなさい」
一瞬だけテオドール様が男の顔つきになったのは、きっとわたしの気のせいじゃない。
その後、騒ぎを聞きつけたリタに見つかり、とんでもないことになってしまった。
スコーンが無事だったことだけは幸いである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
わたしはテオドール様と手を繋いで、スコーンを配りながら領地を巡った。
領民たちはわたしとテオドール様の婚約を祝してくれると共に、スコーンを喜んで食べてくれた。
ボロボロな小屋のような家が立ち並ぶ、貧乏丸出しの村。しかしこの村も、テオドール様がくれた大量過ぎる持参金のおかげでこれから豊かになっていくことだろう。
ブラウト子爵領の――そして、わたしたちの未来は明るい。
これからももしかすると、貴族が料理をしているなど貧乏くさい、と今までのように陰口を叩かれるかも知れない。
子爵家次期当主がわたしのような小娘――テオドール様はあくまで夫に過ぎず、爵位を継ぐのはわたしなのだ――である故に、下に見られることもあるだろう。
だが、テオドール様と支え合っていけば、きっとなんとかなる。
そんな風に、スコーンを齧りながらわたしは思ったのだった。