中編
最近、寝不足がちで授業中に居眠りをしてしまうことが多い。
それと毎日のように昼食にパンを持ち込むせいか、他の生徒に笑われたり、わかりやすく避けられたりすることは多くなった。
その一方で、テオドール様との進展は何もない。
幸い、彼狙いの令嬢たちが受け入れられている様子もないけれど、それでもわたしよりテオドール様の近くにいる彼女らを羨ましく思ってしまう。
「ハァァ……。なかなかうまくいかないなぁ」
いちじくが中に入った甘いパンを齧りながら、わたしが大きなため息を漏らしていた時だった。
ふと、背後に気配がした。
また誰かが揶揄いに来たのだろうか、そう思って振り返ったわたしは、一瞬呼吸を忘れて固まった。
――テオドール様だった。
「ソフィー嬢」
「は、はひっ」
噛んだ。盛大に噛んだ。
だがそれどころではなかった。銀髪に藍色の瞳を見れば、間違いなく彼だとわかる。わかるのだが、どうして彼がここにいて、わたしなんかに話しかけてきたのかがさっぱりわからない。
目を白黒させて驚くわたしに、彼は言った。
「実は数日前から君がそこでパンを食べているのを見ていた。それで興味が湧いた。俺にも少し食べさせてくれ」
「――――――――――はへ?」
たっぷり沈黙すること数秒。
わたしは、素っ頓狂な声を上げた。
これはきっと都合のいい夢に違いない、と思い、早く目を覚まそうと自分の履いていた黒いヒールをこっそり脱ぎ取って、足にガツンと突き立てた。
しかし、痛い。涙目になり、なんなら血も出ているかも知れないくらいの痛みが走る。それでようやくこれが現実なのだと認めざるを得なくなった。
『氷の貴公子』テオドール様が、わたしの料理を食べたいとおっしゃっているということを。
「あ、あのっ。でもですね、これは、えっと」
「嫌なら嫌でいいんだが」
「いやいや、そんなことないです……!」
それはまだ試作品、それも失敗作なのに、などとはとても言えなかった。
テオドール様を前にすると全身が竦み、思うようにに言葉が出て来なくなる。わたしは頭の中で何度もどうしようどうしようと繰り返しながら、残っていたいちじくの菓子パンをバスケットから取り出してテオドール様に手渡してしまっていた。
「……拙いものですが」
「やはり君が作ったんだな。とてもいい香りがする。いただこう」
ほのかな甘い匂いが漂う中、いちじくパンを齧り始めたテオドール様は無言になる。
その間わたしの心臓はバクバクと高鳴り、うるさかった。
彼はわたしに失望しただろうか。
完璧なものを追い求めていたのに、それを渡すことができなかった。こんなものではテオドール様に嫌われてしまうのに、求められたら断れなくて――。
「悪くない」
「え?」
自己嫌悪に陥っていたわたしに我を取り戻させたのは、そんな一言だった。
「豪華過ぎない素朴な味わいがいい。さすが毎日作っているだけあるな。なかなかに美味しかった。良かったら明日も食べさせてほしい」
藍色の瞳がまっすぐにわたしを見つめ、魅力的な低音ボイスがわたしの鼓膜を震わせる。
それだけでうっとりしてしまいそうになりながら、わたしは必死で正気を保った。
「いいんですかっ、わたしのなんか。その……わたし、そんなに上手く、ないし」
「実家や学園で出る豪華な料理よりこの方がよほど俺の舌に合うみたいだ」
わたしを気遣って、わざわざ褒めてくださっているのだろうか。
そう思ったが、テオドール様は真剣そのもので。本気でわたしの料理を気に入っていただけたのだとわかって、倒れそうなくらい、嬉しかった。
「こんなので良ければ、作ります! 明日も、明後日も、その後もずっと」
「楽しみにしている」
「ありがとうございますっ!」
感極まって泣きそうになり、顔を見せないために深く深く頭を下げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
もちろんもっと美味しく作ろうという向上心は忘れないけれど、テオドール様に味の素朴さを褒められたので、そこを追求していくことにした。
学園の寮に持ってきた調理器具は少ない。だからやはり作れるのは、パンやお菓子だけになってしまうけれど、それでもテオドール様に喜んでもらえればいい。
完璧なものを目指して作っていた時より、ずっと楽しかったし作った料理が美味しく感じられるようになった。
「今日のパンはいつもより自信作です。はい、召し上がれ」
あれから毎日、昼食をテオドール様と共にしている。
他の令嬢に絡まれることも激減したし、それより何よりテオドール様の美形を間近で見られることが何よりも嬉しい。『氷の貴公子』と呼ばれるだけあってまだ笑顔は見られていないけれど、いつかきっと見られるはず。
テオドール様の隣で並んで過ごす昼休みは穏やかで、とても心地良かった。
わたしの料理は領地でいた頃よりも上達し、着実にテオドール様に気に入ってもらえている。
おかげで他の令嬢と比べてわたしは彼に話しかけてもらえるし、こんなに近くにいることを許されている。結果は上々だ。あとは一押し……。
そう思っていた、ある日のことだった。
「今日は何を作ろうかな。たまにはスープでも……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら寮部屋に帰ってきたわたしは、部屋の惨状を見て絶句した。
なぜなら、そこには壊れた料理道具が散乱し、小麦粉がこれでもかとばかりにぶちまけられ、赤いカーペットが敷かれた床を白く染め上げているのだ。一瞬自分の目を疑った。
「どうして」
誰にともなくそう問いかけて、靴裏を真っ白にしながら部屋をまっすぐ突き進んだわたしは、唯一無事だったテーブルに置かれた手紙を開く。
そこにはこう書かれていた。
――テオドール・ディクタン侯爵令息から離れなさい。これ以上近づくようなら、子爵家を潰すことも辞しません。
わたしは震え上がった。
一体誰が、こんなことを?
思い浮かぶ顔はたくさんある。テオドール様と初めて出会った時にわたしをいじめてきた伯爵令嬢たち。あるいはテオドール様を囲む上級貴族の令嬢。
あまりにも多くの令嬢の妬みと恨みを買い過ぎていることに初めて気づいた。
どうしよう。
壊れた料理道具を見つめながら、床にぺたりと座り込む。
これではもう料理は作れない。
食堂からある程度の料理器具を借りてくることはできるかも知れないけれど、そういう問題ではない。もしも本当にうちの子爵家を潰せるような力のある貴族家の令嬢が警告――してきたのだとしたら。
テオドール様の胃袋をもう少しで掴めそうだったのに。あれほど喜んでもらえたのに。
粉まみれになった部屋で、わたしは途方に暮れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ソフィー嬢」
午前の授業を終えた昼休み、廊下を歩いていたわたしはそんな声に呼び止められた。
返事してはいけないことはわかっていた。でも思わず彼の方を見てしまう。
藍色の瞳でわたしの方をじっと見つめるテオドール様は、今日も素晴らしく美しかった。
「近頃ソフィー嬢がいつもの場所にいないので、探していた。何か不躾なことを言ってしまったのなら謝る」
このまま本当は聞かなかったことにしてしまいたい。でもそうしたらテオドール様に嫌われてしまうだろう。
それだけは嫌だったから、小さな声で答えざるを得なかった。
「……別に、そういうわけじゃありません。ただ、忙しくなっただけです」
数日前から、食堂の人たちに頼み込んでそこで働かせてもらうようになった。
料理道具を最低限の範囲で貸してもらうことが目的の一つ、そしてもう一つの理由は皿洗いなどで稼いで自分の食事を買うためだ。今はまだ料理道具を集めている最中なので、寮部屋ではまともな料理が作れない。
朝晩は空腹に耐え忍び、どうにか過ごしている。
「今から食堂に向かわなくてはならないので失礼します」
「ソフィー嬢は食堂で食べるのか? 以前は違うと言っていたように思うが」
「はい。ですが今は、食堂のまかないを。――料理はしなくなったんです」
テオドール様が好きだ。大好きだ。
振る舞った料理で、彼に笑ってほしかった。少しでもわたしのことを意識してほしかった。この初恋を成就させたかった。
でも、それは所詮貧乏子爵家の娘でしかないわたしには過ぎた夢だったのだ。
だから、諦める。
もちろん料理は好きだから密かに続けていくつもりだ。けれどそのことは、テオドール様には隠しておく。言う必要がもうないから。
「さようなら、テオドール様。わたしの拙い料理を食べてくれて、本当に、本当に嬉しかったです。ありがとうございました」
テオドール様に何か問い詰められてしまうかも知れないと考えると怖くて、逃げるようにその場を走り去った。それ以外にわたしは何もできなかった。
食堂までの道中、わたしは誰にも見られぬように密かに涙を流した。