前篇
云えない関係。有り体にいえば、俺と彼女の関係はそんな名が付くようなものだったと思う。
「ねえ、ラングドシャ食べる?」
「――ラングドシャ?」
「そう。パート仲間さんに頂いたの、お土産って」
近所の書店を出て、帰るところだった。
目の前の、幅狭いぎりぎり片側一車線の道路。信号を待つ合間、向かいの小さな公園内に立つ女性に目がとまった。理由は二つ。どこかで見た気がした。それから、泣いていると思った。
彼女はただ、空を見ていた。立ち尽くして――自分の力で立っているというより、人型の像をぽんとそこに置いたみたいだ。彼女の輪郭から透けるように陽が差していて、横顔、目元に光の滴が揺れた。
信号を渡り切ったとき、振り向いた彼女と目が合った。そこには涙の跡など見当たらなかった。
あ、声を出さず口の形だけで、そして軽く会釈され、つられて会釈を返しつつ思う。誰だっけ。ああ、そこの。今出てきた書店のレジに時々いる人だ。仕事終わりなのか。
それがなぜか、気づけば並んでラングドシャなるものを食べる羽目になっていた。
「わたし、これが好きなの。でも、休日真昼間の公園で一人こんなものを食べている女はどうかなあって」
「……はあ」
それでも普通、「カバーお掛けしますか」くらいしか話したことのない、冴えない独身男に声をかけるだろうか。店員の立場として、特別意識しなくともよく来る客を憶えてしまうのは確かにわかる。学生時代、洒落ぶって始めたカフェのバイトで、常連にはなんとなく親近感を持っていた。しかし店外で偶然会って声をかけるなんてこと思いつきもしない。そもそも、さっさと家に帰って食べればいいのに。
だが、そういうニュアンスを遠回しに含めつつ、当たり障りなく断るといった高度な技術を俺は持ち合わせていない。深く考えるより、受け取ってしまったほうが楽だ。
俺の掌に難なく収まる四角い個包装の包みをぽんとのせて、彼女は笑った。好きな菓子でも買ってもらった子どもみたいに。
癖のない長い黒髪に、小柄だけどすらりと伸びた手足。派手さはないが、一つ一つのパーツが整ったきれいなつくりの顔。飾らない物言いや表情も相まって少女みたいだと俺は思っていたが、「黒木くんよりずいぶん大人だよ」と彼女は言った。
ちなみに「黒木」とは俺の本名でもなんでもなく、彼女の命名だ。いつも黒っぽい服を着ているかららしい。それから彼女は、
「アオコ」
「アオコ?」
「うん、青が好きなの。だから青子」
言うわりに、彼女が青いものを身に付けていることはなかった。たいてい白とかグレーとか無彩色のシンプルなニットに、細身の黒のパンツ。上にエプロンを加えたら見るからに書店員といった格好、そうした服装は仕事のためかなと思ったが、改めて他の店員を見てみれば皆わりかし派手な色を纏っていた。
その公園で、何度か言葉を交わした。決まって土曜の昼間、眠りに満足した俺が起き出して、近所の定食屋で飯でも済ませ、ついでに寄った書店の帰り道。
もちろん何かを期待して時間を合わせるだなんて真似はしていない。時々、ぽつんと空を眺める彼女と目が合ったときだけだ。
ジリリリリリ――。
突然、アナログ目覚まし時計のけたたましさが、彼女と俺の間に鳴り響く。住宅や個人商店がこまこま並ぶ中にひっそり在る、遊具もないくらい小さな公園、その長閑やかさに縦線を刻むような音。
「ああ、帰らなくちゃ」
彼女は薄手のコートのポケットからスマホを取り出して、アラームを止める。
「これをしておかないと、ここでずっと空を見てしまうから。帰って主婦に戻らないとねえ」
少しおどけて言ってみせる彼女の横顔には、ある種の哀愁。俺が日曜の夕方、国民的アニメの放送時刻に感じるようなものかとはじめは思ったが。
家に帰りたくないのだ、気づくのにそう時間はかからなかった。全面的に旦那さんの支配下にある彼女の家に。
そういうことを、例えば愚痴をこぼすだとか、直接に彼女が言ったことはない。だが、世間話の端々からは自然と人物像が浮かんだ。
平日休日問わず働いている多忙な旦那さん。自身は仕事や付き合いでしょっちゅう家を空けながら、自分が帰ったときに彼女が不在なのは許せない。書店のパートもたまたま機嫌がいいときに了承してもらえたようだ。
他人の家のことなど、まして幸せかどうかなんて、俺に決める筋合いはない。
だけどどうしても、一度だけ口を挟んでしまったことがある。彼女はちょっと、何か心づいたようにこちらを見た。いつも適当に合わせて相槌を打っている俺から、温度のある言葉が出て驚いた様子だった。
そのとき俺は、どんな顔をしていただろう。宥めるように柔らかく、彼女の目が細まった。
「愛にも色んな形があるからねえ」
「……愛?」
「そう。例えばね、『愛してるとサヨナラは似てる』なんて言葉」
「…………」
「素敵な表現だなあって憶えてたんだけど、どこの誰が言ってたか忘れちゃった。本だったか、曲だったか」
確かに詩的なフレーズかもしれないが、それは今彼女と旦那さんとの在り方には何の関係もない。話をそらそうとしたのだろうか。無垢な彼女の笑顔には、そんな複雑な意図はないように思えたけれど。
「海が見たいなあ」
「海?」
「そう、海も青いでしょ、だから好きなの。泳げないから見るだけだけど、それがいいの」
ある日、彼女はぽつりと言った。
旦那さんに連れていってもらえば、言おうとして、やめた。確か海とか山とか、外のレジャー的なものは嫌いな人なんだっけ。
彼女の横顔は大人びてどこか寂しそうで、かと思えば天真爛漫な子どものようでもあって、相変わらずわからない。実際の年齢も、その内にある思いも。考えてみれば実名すら知らない。
でも――。
「行きましょう、海」
「え?」
「来週、パートですか、休みですか。無理ならその次でも」
「ええと、休みだけど」
笑っている顔が見たかった。ただそれだけだった。泣いているような笑顔じゃなくて、彼女の心からの。そのためなら、この世界のどんな青だって見せてあげたいと思った。
本当の名前も知らない、彼女の言葉からすれば相対的にずっと子どもだという、偶然挨拶に毛が生えた程度の話をするようになった男、相槌すら適当なその俺が、おかしいと思うだろう。それでも。
「俺も見たいんです、海」
ぽかんとこちらに向ける彼女の瞳、いつも空の青が映っているそこには、俺がいた。そして彼女は笑った。俺の見間違いでなければ、泣いてはいなかったと思う。