声
僕は小学5年生になった。
友達はいない。
クラスメイトと話さない。
誰かが声をかけてくれることもあったけど、僕には何を言っているか分からないし
その子の名前も顔も曖昧で覚えることが出来ない。
勉強は嫌いだ。
先生が何を言っているのか分からないし、
勉強の内容に興味が持てないからずっとテストは白紙で出していた。
担任の先生に母が呼ばれて「文字は読めないのか?本読んだことあるか?」
と笑いながら言われたと母が怒っていたことがある。
僕は本は読める。母が僕の為に買ってくれた本は全部読んだ。
本の世界に入ると僕は僕じゃなくなる。
幸せな時間を過ごせる。
母には感謝しているけど、それを伝えることが僕には出来ない。
夜、
お風呂に入っている時だった。
はじめは風の音かと思ったけど違った。
浴槽のなかで泡がボコボコと増えて、その泡が浮いて破裂する時にはっきりと聞こえた。
「わたしをみつけて」
女性の声だ。
かぼそいけど、鈴を転がすような美しい声。
寂しそうだけど、僕より大人の声。
泡が破裂を繰り返して声が響く。
「きみはだれ?どこにいるの?」
僕が聞いたら音は静まり返ってしまった。
僕は両親の話もほとんど分からない。
何か怒っている。悲しそうにしている。そういうことは分かるけれど
それに対してどのようにすればいいのか、
何を言えばいいのか、
それが分からなかった。
母がよく泣いていた。
原因は僕だ。
僕の耳には全ての人たちの声が酷くうるさく雑音に聞こえる。TVがたくさん並んで
それが全部いっぺんにつけられて最大ボリュームで流されているような感じだ。
声が早口だと聞き取れないし
怒鳴られるとただ耳を塞いでうずくまってしまうのだ。
でもあの時、お風呂で聞こえた彼女の声は初めてはっきりと聞き取れて
心地良く耳に馴染んだ。
小学校を卒業して両親が無事に卒業出来た記念に旅行に行こうと話しかけられた。
父が僕に向かって
「行きたいところはあるか?」と聞いてくると、
僕の口は勝手に開いて話しはじめた。
「パリの大聖堂に行きたい」
両親は初めて自分から意見を言えた僕に驚き喜んだ。
父は「これは絶対に行かないと。良い傾向だ。いったい何に興味があるんだ?
本?映画?何を見たい?何になりたい?」
父が興奮しながら僕の肩をつかみ、聞いてくるが僕は何も答えられない。
母が間に入り、「そんなに一気に質問しても答えられない。この子の意見をゆっくり聞いてあげましょう。」と父をなだめた。
その日の晩
一年ぶりに彼女の声が聞こえた。
「わたしにあいにきて。
まっているから。」
大きな泡がはじけ、声が浴室に木霊した。あれは彼女の発言だったのだ。
そして、とうとうその日が来た。
両親とパリ旅行。
母も父も機嫌が良く楽しそうにしている。
母にパリの大聖堂に連れて行ってもらった。
母は僕の手を握り、目をじっと見つめてゆっくりと話す。
「外に出ないのならこのなかで好きなところ行っていいからね。
私はここにいるから30分したら戻ってきなさい。
時計は付けているでしょう。
今言っていることは分かる?」
僕は強く頷き、30分後の針を指差して母に見せた。
「そう、分かったのね。
じゃあ、いってらっしゃい。」
母は優しく微笑み頭を撫でた。
僕は小学校を卒業してもチビだった。
160センチも無い。
パリで見かける外国人はみんな体が大きく背が高い。
知らない言葉で話している。
でも、怖いとは感じなかった。
僕にはクラスメイトの方が怖かった。
僕だけいつもひとり。
小学生の頃、クラスメイトで成績優秀でみんなに好かれてる女の子がいた。
その子に
「今日は、○○ちゃんがいないから一緒に帰ってあげる。」
と言われた時に何か違和感を感じた。
別の日にその子に
「私は正義なんだよ。絶対に正しい。悪は必ず滅びるんだよ。
あなたは悪だから滅びるんだよ。」
と腰に手を当てて小さな僕を見下ろして言われたこともあった。
いったい僕が何をしたというのだろうか。
僕はただそれを黙って聞いていることしか出来なかった。
クラスメイトのある男の子に
「お前、表情全然変わらないし、喋らないし、
宇宙人なんじゃない?」
と言われた。
あぁ、僕はこの星の生き物ではないのか。
だから誰とも話せないんだと納得した。
上履きが無くなったり
教科書がゴミ箱に入っていたり
ゴミ掃除をひとりでしていたり
それは僕が宇宙人だからなのだ。
生物は本能的に違う生物を嫌ったり排除するものだ。
だからとても当たり前のことなのだ。
母に外に出るなと言われたことは理解していたが
大聖堂のなかならどこに行っても良いのかと思ってしまった。
人の気配が無く、太い紐がかけられて入れない場所があった。いろんな国の言葉で
危険、入るべからず。と書いてある。
地下へと降りる螺旋階段が見える。
地下からは風が吹いている。
呼ばれていると感じた僕は紐の下をくぐり階段へと降りて行った。
長い階段を降り切ると背の低い天井になっている狭い部屋があった。
古びた木のドアは開け放たれ、僕が来るのを知っていたかのようだ。
中を覗き込むと部屋の中央に小さなお墓のようなものが見えた。
色とりどりのタイルが床に敷かれている。
一歩部屋に入ると部屋の蝋燭に火が付いた。
火のゆらめきが強くなり照らされて見えたのはお墓に見えたもの、それは小さな少女の銅像だった。
すぐに彼女だと分かった。
銅像は膝をついて空を見上げ両手を高く上げている。
僕は言った
「きみはここにいるの?」
銅像から声が聞こえた
「ここはさむい。さびしい。ひとりぼっち。
あなただけがわたしのこえをきいてきてくれた。
ここからだして。」
涙声で美しい声が訴えかけてくる。
「ぼくはどうすればきみを助けることができるの?」
銅像を撫でながら聞いた。
「血」短く冷ややかな声だ。
「銅像の指先にあなたの指先を強く押しなさい。」
彼女の声は今までと違った。
部屋の温度が急に下がるの感じだ。
僕は言われた通りに自分の指先を強く銅像の指先に押した。
血が流れると、銅像に書かれていた文字にかかり文字は焼け焦げて消えた。
「ありがとう」
頭に直接声が酷く。
怖い。逃げなきゃと思ったのがあまりに遅かった。
僕の体は浮き上がり、ハサミで切った折り紙のようにバラバラになり
床のタイルが剥がれ蝋燭の火に照らされて輝いて見える。
小さな星々のように僕のバラバラになった体が回転している。
彼女の声が聞こえた。
「その腕も足も
頭も心臓も
全て私のもの」
そして彼女は僕になり、軽やかな足取りで鼻歌を歌いながら部屋から出て行った。
体が無くなった僕は冷たい銅像の中だ。
「どうして?」
僕はまだ分からないフリをしていた。
彼女はもう帰ってこない。
彼女が魔女であることは知っていた。
でも、彼女が僕を必要としてくれたのが嬉しかった。
彼女の声だけは僕の耳に優しく響いた。
僕が声を出しても誰にも届かない。
冷たい銅像の中に僕はいることは誰にも知られない。
彼女はきっと僕よりも僕として生きてくれるだろう。
両親も彼女と家族になれば悲しい想いはしないだろう。
中学でも彼女ならクラスメイトと仲良くできるだろう。
僕はこれで良かったのだ。
今までたくさんのうるさい雑音のなかで生きていたけれど
ここの静けさは幸福なのかもしれない。
僕は目を閉じて
彼女を想いながら
深く眠ることにした。