上の四分のニ
桜はあっという間に散ってしまう。暖かい空気も雨が降れば蒸し暑くなる。春が最も短い季節だと思った。短いから、一年に一度訪れても、いつの間にか終わってしまう。特別で、毎年大切にしようと思う。
私は寂しくなった桜の木を眺めて思った。三年生の教室の窓からは桜の木が見えた。初めてこの教室に入った頃は桜が咲き満ちていて、窓を開けると桜の花びらが教室に入ってきたぐらい、桜の木は教室の窓から近かった。だけど今は花びら一枚もなく、枝だけがそこに残されていた。
あの一瞬のために桜は桜で居るのかと、私は思った。
紅子とはまたクラスが一緒だった。ついでに美幸も同じクラスで、美幸を囲む集団は見事にバラバラに離され、美幸は新しい友達をクラスで作っていたが、馴染めていない様子だった。紅子はそんな美幸に何度か話しかけに行っていた。どうやら紅子と美幸は幼馴染らしく、家も隣のようだった。そのためお互いにとても信頼し合っていて、二人を知っている私だからこそ、二人の仲の良さは分かった。
真柴はまたクラス担任も持たなかった。二年の時と変わらず、数学の授業を持ち、気まぐれで私と話すぐらいだった。
全てが終わった後かのような態度だった。それもそうだ。確かに真柴は私のクラス担任じゃなければ、生徒指導の教師でもないんだから、関わる事自体少ないのだ。
「千尋、この問題分かる?教えてくんね?」
去年クラスが一緒だった結城という男子も同じクラスだった。私が紅子と仲良くなって以降、私が明るくなったせいか、話しかけてくる頻度が増えていた。
「この問題は・・。」
私は問題を見て、説明と解説をした。
「あーなるほど。千尋って頭良いよなー。」
結城は説明したノートを見て言った。
「別にそんな事ないよ。」
私は言った。
私が成績を保つために勉強しているから解けて当然だった。それが真柴が賭けの条件として出した内容だ。私はそれを守っていた。
「でも千尋ってそんなに成績良い方だっけ?」
話を聞いていた紅子が私と結城の間を割いて入ってきた。
「去年とか美幸から聞いた話だと、美幸と変わらなかったんでしょ?」
紅子は私の前の座席に座って言った。
「二年の二学期の期末テストは最下位だったよ。」
私は言うと"ええ!?"と二人は声を出して驚いた。口を開けて目を開く二人の表情が面白くて、私は少し笑った。
「全科目一桁だったから。」
私は言う。
「私でも最下位は取った事ないのに・・。」
紅子は呟く。
「でも今、頭良いじゃん。塾でも通い始めたの?」
結城は私に聞いてくる。
「塾は通ってない。普通に先生に勉強教えてもらってた。ちなみに学年末は三十二位だった。」
私は誇らしげに笑って片手でピースをして見せた。
「最下位から三十二位!?凄いよ!本当に勉強頑張ったんだね!」
紅子は大きな声で言った。
その時、チャイムが鳴り、先生が教室に入ってくると、紅子も結城も自席に帰った。片手に教科書と筆記用具を持って入ってきたのは真柴だった。教卓に教科書などを置くと、真柴はいつものように授業を始めた。
私は一番後ろの席で真柴を見た。遠くから真柴を見ていると、距離ができてしまったようだ。いや、間違いなく距離は出来ていた。黒板に文字を書く真柴の背中が遠く感じる。近くに行きたいのに、近づいたらまた期待して、真柴を教師として見れなくなってしまいそうだった。
私だって本当は真柴の事を先生だって思いたかった。なのに近づいた距離が恋しくなる。距離が近ければ近いほど、真柴の存在が私の中で変化していた。真柴の見る姿が色を変えて私に近づいてくる。その匂いや行動さえも、違って見えてくる。
春休みだけじゃ足りなかった。もっと私には時間が必要だった。こんなふうに思いたくなかった。真柴を教師として見たかった。なのにどうして見れないのか分からない。
「ねえ今日、カラオケ行かない?」
紅子は言ってきた。
「カラオケ?行く!」
私は笑って見せた。
「なんだか千尋、笑顔が増えたね。」
紅子は言うと、満足気に笑顔を私に見せた。
「なになに?カラオケ?それ俺も行っていい?」
私と紅子の間に入ってきたのは結城だった。
「えー結城は部活あるじゃん。」
紅子は口を尖らせて言う。
「部活はもう引退なんだよ。それよりカラオケ!俺カラオケ好きなんだよ。」
結城は親指を自分に立てて、歯を見せた。とても自信があるらしい。
人数が多い方が楽しいに決まってる。私達は三人で学校帰りにカラオケに行った。結城は確かに歌が上手かった。バラードからロックまで様々な歌を歌っていた。
「千尋歌わねえの?」
歌い終わった結城は私にマイクを渡してきた。次の曲は紅子が入れた曲だ。紅子は前に出て、モニターの前で体を揺すりながら楽しそうに歌っている。
結城は私の隣に座り、パネルを持ってきた。
「これとか歌いやすいよ。」
結城は説明してくれる。
「バラードじゃん。」
私はパネルを覗き込んで言った。
「俺、この曲好き。歌ってよ。」
結城は私の顔を見て言ってきた。
距離が近かった。隣に座って同じパネルを見ている。私はふと、真柴と距離が近かった時を思い出した。今、私と結城の距離はあの距離より近かった。膝が触れていて、同じパネルを見ている時なんか、私の髪が結城の体に触れそうだった。
私は自棄になってマイクを取った。
「その曲、歌う。入れて。」
急に立ち上がった私に結城は驚いた様子で曲を入れた。
伴奏が始まると、紅子と結城は私を見上げていた。私は二人の視線を感じつつ、気付かないふりをして歌った。鬱憤を晴らすかのように、もう悩む事も考える事も浮かばないぐらいに夢中になれば良い。忘れてしまえ。時間だけじゃ足りない。もっと夢中になる刺激が欲しい。
十九時になってカラオケから出た頃には私の喉は限界だった。
「千尋があんなに歌が上手いなんて初めて知った!」
カラオケの店の前で紅子は言った。紅子と結城と三人で駐輪場に行き、私は二人が自転車を出すのを待っていた。
「久しぶりに歌ったから喉痛い。」
私は鞄を肩に掛けて言った。
「よくカラオケ行くの?」
先に自転車を出した結城は聞いてきた。
「母さんとたまにね。最近は行けてないけど。」
母が父と話で衝突した際、私は母を連れてカラオケに来ていた。元気付けるためもあったが、何よりすっきりして欲しかった。
紅子と結城が自転車を引いて、私は二人の間を歩いて帰った。駅前の大通りの街灯はすでに灯が点っていて、空は紫色に染まっている。
「またこんなふうに遊びたい。」
私は呟いた。
紅子は嬉しそうに笑うと、口を大きく開けた。
「じゃあ明日はゲーセンに行こっ」
紅子は明るい声で言った。
「俺も行きたいっ」
結城も言う。
明るい二人の笑顔に私は真柴の事を忘れる事が出来た。しかしそんな簡単に気持ちは変わらなかった。
横断歩道を三人で待っていると、一台の車が赤信号で止まった。
「そこの三人っ帰り道は寄り道禁止ですよ。」
その声に私の胸はざわつかせた。
「げっ」
結城と紅子が先に声がした方を見た。私は結城の影でその声の主が見えなかった。体を逸らして声がした方を見ると、そこには車に乗った真柴が窓を開けて、こちらに向かって言っていた。
「待ちなさいっ結城さんと宮下さんと・・。」
真柴は結城の影から私を見つけると、一瞬声が吃った。
「早坂さん・・。そこで止まりなさい。」
真柴は言った。
「やばいっ逃げよっ」
紅子は言うと、すぐに自転車に跨った。
私は驚いて紅子を見ると、その一瞬の間で結城も自転車に跨り、私の手を掴んだ。
「後ろ乗れっ」
私は二人の焦りように釣られて、言われるがまま結城の自転車の後ろに跨った。
「あ、待ちなさいっ」
真柴の大きな声で呼び止める声に私は心臓がドキドキと鳴っていた。
「おい千尋っしっかり掴まれ」
自転車を漕ぎ始めた結城は私の腕をまた引っ張り、自身の腹に掴ませた。私はやられるがまま、結城の体に腕を回して掴まり、結城は自転車を漕いだ。
「三人とも待ちなさいっ」
結城の声が遠くなる。
紅子と結城は大きな声で逃げる道を話しながらその自転車は加速した。まだ少し冷たい風に、私は髪を揺らして、その日が沈んだ赤紫の空の下を駆け抜けた。
私は一度も振り返らなかった。その揺れる自転車と勢いに夢中になって、真柴の事を考えないように、結城の背中に頭を押さえつけ、見えないように目を閉じた。
翌日、案の定私達は放課後呼び出された。三人で職員室に行くと、真柴の机の元で三人で立たされた。
「寄り道してたなんて証拠ないよ。」
紅子は口を尖らせて拗ねた。
「そうだ。三人で帰ってただけだから、寄り道なんてしてねえよ。」
結城も言い張った。
一人一人の言い分を聞くためか、真柴の視線は紅子、結城の順番で移動し、最後に私に向けられた。
私は真柴の視線に、目を逸らしたまま黙った。
「君からは何か言いたい事は無いんですか?」
真柴は私に視線を向けたまま聞いてきた。
突き放されたような冷たい言い方に聞こえた。そのレンズの向こう側の目も鋭く、私の奥底を貫く。
複雑な気持ちになっていた。真柴が私を見る目がそんなに強気な時なんて今までなかった。何でそんな目で私を見るのか、私を何だと思って・・・。
また私はそこで再認識させられてしまった。私と真柴は教師と生徒。真柴が私をどれだけ心配してくれて、親身になってくれていたとしても、それはほんの数ヶ月前の私で、今の私はただの校則に違反した生徒。特別なんてどこにも無かった。
私はその時、やっと真柴の目を見た。暗い表情をしたまま私は貶した目で真柴を見る。
二ヶ月前の私は何故あんなにも浮かれていたのだろう。何故あんなに真柴が特別に思えたのだろう。真柴も他の教師と変わらない、ただの教師なのに、何故真柴だけが違うって思えたのだろう。
あの時の真柴の目と今、目の前にいる真柴の目がこんなにも違うということが、私にとって騙されたような気持ちになった。
「信頼されたら言う事を聞くとでも思った?そうやって生徒を丸め込んで楽しい?」
私は怒りを喉の奥から出した。必死に抑えていても、その表情と声のトーンで、紅子と結城も凍りついたような表情をして驚いていた。
眼球を開いて、怒りを抑えられない表情をしている私と冷静なままの真柴は睨み合った。
「君はいつだってそうだ。そうやって自分の主観だけで世界を見ている。」
真柴は言った。
その時、私の脳内で真柴と思い出が頭に浮かんだ。冬なのにとても穏やかで温かった日、中庭で座り込んで、こちらを見て話す真柴の姿が浮かぶ。"生きてきた時間の差があります。それだけ心の余裕や保ち方に差があります"その揺れる伸びた前髪とレンズの向こう側から見えた優しい真柴の目。
私の中で何か糸が切れた音がした。
みるみるうちに心臓の奥から、心の裏側から逆流してきた黒い感情に飲み込まれて、私は頭に血が上った。
瞳孔が開き、真柴を見ているはずなのに、その視界が揺れていた。怒りと憎悪が私を支配して、心臓は極度な緊張状態になり、頭は理性を保っていられなかった。
それは顔に出ていた。真柴の表情が変わったことに気がついたが、もう私は止められなかった。私は真柴の机の上にあった一本のシャープペンシルを手に取ると、その感情に任せた力でその場でペンを折った。
ベキッ
と音は騒ついた職員室に響き、私はその折れたペンを真柴の机に投げつけると、大きな音が鳴ってペンは跳ねた。
怒りに満ちた表情で荒い息をしながら真柴を睨んだ。
目の奥の線が緩んだ瞬間、私は感情が沈むのを感じて、その場から逃げ出した。本能的にもう足が動いていた。職員室を飛び出し廊下を感情任せに走った。何も考えられない、頭が痛い、手が痛い、胸が苦しい、緊張して吐きそう。
息を切らして辿り着いた先が女子トイレだった。勢いのまま個室に入ると、私はすぐに吐いた。沢山の感情が胸の奥から渦を巻いて私を呑み込み、苦しくて苦しくて喉が詰まって嗚咽を吐いた。
吐くだけ吐いて、口を濯ぎ顔を洗っても、気持ちはすっきりしなかった。トイレの鏡に映った自分が随分やつれていて、私は見ていられなかった。
トイレを出て、廊下の壁に背中を付けると、足の力が抜けて座り込んだ。緊張で全身の筋肉に力が入ったのか、全身が震えている。もう足は動かなかった。頭も重たくて顔を横に傾ける。
感情が高まり、制御ができなくなったことはなかった。気持ちの整理がつかずに逃げ出した事は何度もあったけど、こんなにも胸がドクドクと鳴り、痛い思いをするのは初めてだった。自分がしてしまった事の後悔と、どうしてあんた事をしてしまったのか分からない。また迷惑をかけてしまった。どうして私は自分が制御出来ないのか。
喉の奥が苦しくて、苦しくて、緊張がほぐれて行って涙で溢れた。涙が止まらず頬を伝って、私はその場で一人、ずっと泣いた。
真柴の冷たい目を思い出すたび、チクリと胸が痛くなる。嫌われてしまった、迷惑をかけてしまった、今度こそテストで十位以内に入ろうと思っていたのに。そんなことが頭でいっぱいいっぱいになり、私は頭痛がした。
「千尋っ千尋・・。」
私を見つけて駆け寄ってきたのは紅子だった。私は鼻水を啜って、涙を溢す。
「千尋っ」
紅子は私を強く抱きしめた。
「ごめんね。私のせいだね。ごめんね。」
紅子は抱きしめながら言った。
「違う・・・。違うんだよ・・・。」
震えて汚い声で言った。
しばらくして結城が私達の鞄を持って来てくれた。私は俯いたまま何も見えないように、帰った。家まで紅子と結城が付いてきてくれた。紅子はずっと私の手を握って居てくれた。結城も自転車で私の鞄を持ってくれた。
「大丈夫?」
紅子は私に聞いてくる。
「うん・・。迷惑かけてごめんね。」
私は俯いて言った。鼻声で声が汚い。
「私は大丈夫だよ。迷惑なんて思ってないからね。」
紅子は優しい声で言った。
紅子に握られた手と優しい声に私はまた目の奥が熱くなった。
アパートの自分の家に帰ると私は布団に入り、眠り込んだ。
「千尋、どうかしたの?」
暗い部屋に母は入ってくると、私が寝る元で座り、聞いてくれた。
「母さん・・ごめん。晩ご飯作ってない・・。」
私は布団に顔を擦りながら体を起こそうとした。
「しんどいのね。大丈夫よ。ゆっくり休みな。」
母は布団の上から私の撫でてくれた。
私は布団に覆われたまま布団に涙を流した。
迷惑をかけてばかりだ。感情的で不安定で、周囲のみんなを巻き込んで不安にさせてしまっている。どうして私はいつもこんなにも思い通りに自分の感情をコントロール出来ないのだろう。頑張っているのに、制御しているのに、自分でも迷ったり戸惑っていることに対すると、パニックになってしまう。いつもわがままで身勝手で自分中心な私が嫌いで殺したくなる。
私は次の日、学校を休んだ。やっと布団から出ることが出来た私はベランダの窓の前に座り込んで空を見上げてた。
真柴とどんな顔で会えば良いんだろう。真柴はどう思っているのだろうか。教師だから真柴は平気か。こんな生徒、面倒で構ってられないか。もう話してすらしてくれないんだろうな。
謝りたいけど、謝る自信がない。顔を見る自信がない。また私は逃げてしまうのだろうか。
その時、私はお腹が痛んだ。生理痛が酷く、ズキズキと痛みが伝わる。
こんな時に生理だなんて最悪だ。今月二回目だ。体までもが不安定なの・・。
腹を抱えて私は俯いた。
次の日、私は学校に行った。教室に入った瞬間、紅子が私に気づき駆け寄ってきた。
「千尋!大丈夫なの?」
紅子は私に聞いてくる。
「大丈夫だよ。心配させてごめんね。」
私は言った。
紅子は安心して微笑むと、また私を抱きしめた。すると教室に入ってきた結城が私の姿に驚いて足を止めた。
「おー千尋じゃん。もう学校来ないかと思ったー。」
結城は笑いながら言う。
「それはない。私ゲーセンも行きたいし遊びたい。」
私は言うと、二人は嬉しそうに笑った。
「今度はバレないようにな。」
結城は言う。
そうして私は何気なくいつもと変わらないような日を過ごした。それでも頭の片隅には真柴にしてしまった事を後悔して、会いたくない気持ちが大きかった。謝らないといけない、と思う反面もう顔すら見たくないと思う気持ちがぐらぐらと私の心を揺らしていた。
四時間目の数学の時間、真柴は私の前に姿を現した。真柴は確認するかのように私の座席を見るが、私は頬杖をついて目を逸らした。授業中も私は窓の外を眺めていた。真柴はいつも通りの授業を行い、何事もなかったかのように振る舞う。横目で真柴を見ていると、真柴は顔を上げて私に視線を送ってきた。どきりとした私は瞬時に視線を逸らす。授業中、二、三度そうして真柴とやり合った。こっちを見るなと私は何度も思った。
そのまま授業が終わった。普段、真柴は授業が終わると、教科書や筆記用具をまとめてすぐに教室を出るのに、その日は違った。私の方を向いて、こっちに足を進めてきた。視線を逸らしていてもその影は見えた。私は咄嗟に席を立つと、小走りで教室を出て女子トイレに駆け込んだ。
また逃げてしまった。私は俯いて後悔した。でも顔が見たくない。私はもう真柴と話すことさえできない。
数日間、私は真柴を避けた。平然を装って、もう興味がないふりをした。元に戻るにはそれが一番良い方法だった。私はもう真柴を脳の片隅に置くこともやめた。私にとって真柴の存在を他人にするのが最も良い方法だった。
五月に入っても春の季節は変化を見せなかった。温かな気温に私はまた落ち着きを感じた。完璧では無かったが、その日常に慣れ始めていた。
「今月中間テストだー。やだなぁ。」
放課後、私達は懲りずに制服のまま寄り道をしていた。バレないように制服の上からパーカーを着て、制服を隠すようにした。顔触れは変わらず紅子と結城で、私は慣れていた。
駅前のバーガーショップのカウンターで三人並んで座っていた。私が二人の真ん中に座り、ストローを咥えて飲み物を飲んでいた。フードを被り、二人の話に耳を傾ける。
「紅子と千尋は塾とか通わないの?」
私の左側に座る結城は言ってきた。
「あーママがこの前、塾のチラシ持ってきたー。もう塾とか嫌なんだけど。」
紅子はポテトを食べながら言った。
「俺、そこの塾に通うんだけど、二人も一緒に通わない?」
結城は言うと、身を乗り出して目の前の窓ガラスを指さした。指の先を見てみると、向かい側のビルには塾の看板が掲げられている。
「えーそこ進学塾じゃん。」
紅子は項垂れる。
「友達がいた方が安心するじゃん。どう?」
結城は私達を見てきた。
「私は行かない。そんな金ない。」
私はストローから口を離し、飲み物をテーブルに置いた。ストローの先が平たく潰れている。歯で噛んでいたため、潰れてしまったのだ。癖はなかなか治らない。
「えー。」
結城はあからさまに落ち込んだ声をした。
「千尋が行かないなら私も行かない。」
結城に反して紅子は嬉しそうに言った。
結城と紅子と寄り道するのは日常だった。十八時になると解散して、私は家に帰り晩御飯を作った。授業の復習をして、スマートフォンで紅子や結城とやり取りをしていた。
「結局さーママがチラシ貰ってきたところの塾に行くんだよね。今日見学だから、放課後すぐ帰らなきゃ。」
一週間後、紅子は落ち込んだ様子で言ってきた。
「中間テスト、今月だもんね。まあ頑張りなよ。」
私は言った。
「塾と言っても毎日じゃないから、放課後遊びに行こねっ」
紅子は弾んだ声で明るく言った。
結城も塾に通い始めて、放課後、駅前で遊んだ後はよく塾に行っていた。結城は元から成績が良いため、高校は上の方を狙っているらしい。
「結城は今のところ、高校どこ狙ってるの?」
放課後、自転車を押す結城の隣を歩いていた。
「今のところは東高かな。」
結城は答える。
「へえー意外と近いところ、狙ってるんだね。」
私は言う。東高は自転車で通える範囲の距離で、県内ではトップの方にある公立校だった。
「めんどくさいし、私もそこにしようかな。」
私は気ままに言った。
「はあ?そんな決め方で良いの?」
結城は聞いてくる。
「別に良いよ。」
私は言った。
「投げやりだ。」
結城は頬にエクボを作って笑った。
そういえば中学二年の時、まだ美幸と仲良くしていた時、誰かが結城の事が好きだって噂していた。結城の事が好きだという色恋話はよく耳にしていた。確かに白い肌に赤毛で身長も高い。中学生にしては綺麗な見た目をしていた。
紅子が居なかったその日、私と結城はお金がなかったため、河川敷で時間を潰すことにした。石の階段に私と結城は腰を下ろして、その川の様子を見ていた。
「結城って上に兄妹居そう。」
私はぽつりと言った。
「居るよ。姉貴と兄貴。」
結城は言った。
私は膝を立てて座った。膝小僧に顎を乗せて、川の流れと音を聞いた。
「何でそんな事、聞いたわけ?」
結城は半笑いで聞いてきた。
「別に」
私は素っ気なく言った。
「結城ってモテるのに彼女作らないんだね。」
私は石の隙間から生える雑草を抜いて遊び始めた。
「えっモテるって俺が?」
結城は私を見て聞いてきた。
私は雑草を見たまま結城には視線を向けなかった。
「だって結城の事が好きだって聞くよ。どうなの?告白されるの?」
私は顔を上げて結城を見た。
興味があった。男友達とこんな話はあまりしないから、男子目線の恋愛を知りたかったのだ。
「告白は・・まあ去年一回されたなあ。」
結城は思い出すように空を見て言った。
「付き合ったの?」
私は聞いた。
「いや、断った。」
結城は言った。青い空が少し赤みかかっていて、結城はそれを眺めていた。
「どうして?」
私はまた聞く。結城の顔を下からずっと見ていた。横顔は何か考えるかのように、空を見ている。
開けた空間の夕方の河川敷では子供達がはしゃぐ声とカラスの声が交互に聞こえた。
結城は私の質問に答えなかった。数秒して答えなかったため、私は結城は口を割らないと悟り、再び雑草に視線を向けた。
「千尋が好きだったから。」
はしゃぐ子供の声と、カラスの声に紛れて結城が言った。
「は?」
私は驚いて顔を上げた。結城は空を見上げたまま言っていた。
「だからっお前の事が好きだからっ」
結城は投げやりな言い方をした。見た事のない結城の横顔をしていた。照れているのが、その顔を見て分かった。
「えっええ!?そうだったの!?」
私は驚き、むしっていた雑草が手から落ちた。
まさか結城が私の事が好きだだったなんて全く知らなかった。それ以前に結城が恋をしていたことに対しても衝撃だった。
「あ、でも"だった"って事は今は他に好きな人でもいるの?」
私は落ち着いて結城に聞いた。
「今も千尋だよ。」
結城はそう言うと恥ずかしそうに俯いた。そのまま様子を伺うかのように私の顔を覗き込んできた。
「俺ずっと千尋の事が好きだった。今も好きだ。」
結城は真っ直ぐと目を逸らさずに私の目を見て言った。
私の心臓は音が鳴っていた。その言葉の意味を理解するに連れて、さらに緊張し締め付けられるような感覚だった。
「そ、そうなんだ。」
私は言った。本当はその場から逃げ出したい気持ちだった。気まずいし、私はどうすれば良いか分からなかった。
「返事は?」
結城は私の顔を覗き込んで聞いてくる。
「えっ」
私は咄嗟に声を漏らした。
この話を聞かなかったことしたかった。私は結城の事が恋愛感情として見た事がない。答えは明確だから、今後の関係が崩れてしまいそうで怖かった。
「えーと・・。」
私は俯く。
「千尋は今、好きな人とかいんの?」
結城は聞いてきた。
「いないけど・・。」
私は呟く。
「だったら試しに付き合ってみるとかどう?時期が来て好きになれなかったらそれまでで良いからさ。」
結城は少し前のめりだった。真剣な気持ちというのが伝わってくる。私は結城の真剣な気持ちに、中途半端な気持ちではダメだと思った。
「か、考えさせてくれる?」
私はそう言い、その日はそれで解散となった。
「送ろうか?」
分かれ道まで二人で歩いた。結城は私に聞いてくる。
「塾、もう始まるんでしょ?早く行きなよ。」
私は言った。
結城は少し照れながら微笑むと、自転車に跨った。
「ちょっとだけエレルギーくれない?」
結城は私に言ってきた。
「エネルギー?」
私は言うと、結城は私を手招きした。
手招きを必要とする距離ではないのに、これ以上近づくのかと私は思いつつ、自転車に跨った結城に一歩近づいた。
すると結城は片手を私の肩に回して私の体を自分の体に押し付けた。私は結城にやられるがまま、結城の胸に体が押し込まれた。
「ごめんな。」
結城は言うと、その一瞬で手を離した。私は体を離して、結城の顔を見る。
「これエネルギーなの?」
私は聞いた。
「うん。ありがとう。」
結城は言うと、自転車を走らせた。
きっと抱きしめて安心感が欲しかったのだろうと、私は結城の背中を見て思った。
その時の私はまだ男女の"付き合う"というものがいまいち理解していなかった。恋愛もまだした事がなく、実感して誰かが好きという事を知らなかった。
翌日の放課後、結城は部活で私は教室で紅子と二人っきりだった。
「それでね、行く塾が結城と同じ進学塾だったの!怖くて仕方ないよー。」
紅子は私の前の座席の椅子に座って言う。
「あのさ。」
私は話を切り出す。
この二ヶ月、結城と紅子のこの三人で仲が良かった。紅子には話さないといけない事だと思った。
「実は昨日、結城に告白されてさ・・。」
私は視線を下に向けて言った。どんな反応をされるか少し怖かった。三人で仲が良く、その関係性が今怪しいし、紅子だけ除け者みたいで私は心配だった。
「あーみたいだね。」
紅子はいつも通りの声のトーンで言った。
「えっ」
私は驚きもしない紅子に驚いた。
「たまに結城から相談受けてたからさ。だから告白した事も昨日偶然塾で会った時に聞いた。」
紅子は笑いながら言った。少し困った表情もしていた。
「そうなんだ。」
私は視線をまた下に向けた。
「OKしちゃえば良いじゃん。楽しいよ。」
紅子は言う。紅子らしく能天気なようだ。
「軽いね。すごく真剣だったからきちんと決めないとって思って。」
私は苦笑いをして言った。
「今悩んだかって、付き合ったとしても将来結婚するまで一緒にいるわけないんだから、軽い方が良いんだよ。重く考えるとしんどいじゃん。」
紅子は頬杖をついて言った。
私は紅子の意見に、なるほどと思った。何やら恋愛に対して紅子は私より経験がありそうだった。
「紅子って詳しいね。付き合った事とかあるの?」
私は聞いた。
「普通だよ。千尋が恋愛してないだけじゃない?」
紅子は言った。
思い返してみれば中学生になってから、周囲はよくその話は増えていた。私は世間話の一環としてその話を聞いていたから、興味はなかった。
「で、どうするの?」
紅子は身を乗り出して聞いてきた。
「うーん、やっぱりしばらく考える。」
私は言った。すると紅子は嬉しそうに笑った。
それからの日々は放課後、集まる事は無くなった。中間テスト一週間前という事もあり、二人は早い時間から塾に行っていた。私も放課後は教室に残って勉強をして、帰っていた。
「じゃあ先に帰るね。ばいばーい!」
紅子と結城は二人揃って先に帰った。私は明日のテストに備えて、また放課後一人で残っていた。
教室に残っていた生徒が全員帰り、私ももう少しで帰ろうと勉強に集中し出した時、教室に一人、誰かが入ってきた。私は忘れ物をしたクラスメイトかと思い、顔を上げずに、勉強に集中していた。するとその人は私の前の座席に腰を下ろし、私の方に体を向けて座った。
誰もいない教室に私の前に座るなんて、私に用があるに違いない。私は顔を上げると、そこには真柴が座っていた。
私は勉強に集中していたし、真柴の顔を久しぶりに見たため、とても驚き心臓と体が飛び跳ねた。
とても動揺し、心臓がバクバクと鳴った。久しぶりに見た真柴の姿は変わらず、私の知っている真柴で少しかっこ良く見えた。
「随分遅い時間まで残ってるんですね。」
真柴は私を見て言った。
私は視線を時計に向けると、時間は十八時前だった。集中していて、帰ろうと思った時間を遥かに過ぎていた。
「まあ」
私は曖昧な返事をしてペンを筆箱に入れようとした。しかしその時、真柴のシャープペンシルを折ってしまったことを思い出した。
「これ」
私は握っていたペンを真柴に向けた。
「何ですか。」
真柴はペンを見て聞く。
「先生のシャーペン、一本しか無かったんでしょ。折ってごめんなさい。」
私は一ヶ月前に言いたかった言葉をその時、やっと言えた。心臓がまた鳴っていて、緊張した。
「良いんですよ。」
真柴は言いながら、ペンを受け取った。
「でもペンがなくて困っていたので貰います。」
真柴は言った。
私は真柴と話せていることに嬉しくて、複雑な気持ちになった。やっぱり真柴と話すのは楽しい。
「あの時、僕も勝手な事を言って、君を傷つけてしまった。ごめんなさい。」
真柴は言った。真柴も俯いて暗い表情をしていた。
元を辿れば寄り道をしていた私達が悪かったのに、あんな言い合いになってしまって、傷ついて、私は返す言葉が分からず俯いた。
「君に避けられるのは中々傷つきました。」
その言葉に私は顔を上げて、謝ろうとすると、真柴は苦笑いをしていた。
「先生・・いつから私の事を"君"って呼ぶようになったの?」
私も苦笑いをした。気まずさで距離ができていた。
「君が三年生に上がった頃ぐらいですかね。どうしても茅野さんで慣れてしまって、言い間違いをしてしまいそうなので。」
真柴は言った。低い声が静かな教室に響く。何だろう、この静かで時が止まったかのような時間は。
「最初、かなり言い間違えてたもんね。」
私は言った。
「その度に君は怒ってたから、気をつけてたんですけど、一年生の時の慣れが中々抜けません。」
真柴は言うと、立ち上がった。
「もう外は暗いです。五月といっても十八時前はまだ暗いので気をつけてください。」
真柴は言った。
「はーい。」
私は言うと、鞄を机の上に乗せて教科書を鞄の中に入れた。
「昇降口で待っててくれませんか?途中まで一緒に帰りましょう。」
真柴は下を指差して言ってきた。
「えっ」
私は驚き、息が一瞬止まった。
「先生車じゃん。乗せてくれるの?」
私は緊張した気持ちを誤魔化して笑った。
「今日は電車で来たんです。家は駅の方でしたよね?」
先生は言うと、歩いて教室から出て行った。
私は緊張して昇降口で待った。先生と帰れるなんて思ってもいなかった。もう話す事も出来ないだろうと覚悟もしていたのに、こんな事になるなんて。そもそも教師と生徒が二人で帰る行為は良いのだろうか。
私は落ち着かず頭を抱えた。気を紛らわすために外に出て空を眺めてみた。確かに空はもう紫色になっていて月が出ている。
「早坂さんっ」
私は真柴の声に振り返ると、真柴は靴を履き替えて小走りで私の元までやって来た。
「急がなくても良いのに。」
私は言った。
「い、いえ。外に居るとは思わなかったので、もう帰ったのかと思いました。」
真柴は言うと、息を吐いた。
「それでは行きましょう。」
真柴は言い、歩き出した。
私は真柴と隣に並んで歩ける事が嬉しくて、小走りで真柴の斜め後ろを歩いた。隣を歩く事が意識をすると少し恥ずかしくなったのだ。
学校を出て私と真柴は坂道を降った。
「桜も散ってしまいましたね。」
真柴は質素な桜の木を眺めて言った。
「いつの話してるの?もう桜が散ったのなんて一ヶ月前以上の事だよ。」
私は言った。すると真柴は私を見て笑った。
「そうですね。」
真柴は楽しそうだった。日が落ちた涼しい風に吹かれて、真柴の髪が揺れた。
「先生、髪切ったんだね。」
私は言った。
「それこそ一ヶ月前以上の話ですよ。」
真柴は笑いながら言う。
真柴の髪は短髪になっていた。根暗な印象を覆すその髪型は、始業式からしばらくの間、少し話題になっていた。耳の上や襟足が刈り上げられており、前髪は眉の上の方まで短くなっている。爽やかで少し若返ったようだ。
「どうして切ったの?」
私は聞いた。視線の高い真柴の顔を見上げる。
「あー妻が長いのが嫌いって言って切ったんです。」
真柴は髪を触って言った。
その時、私の心臓がざわついた。"妻"という言葉が真柴の口から出て来るとは意外だった。
「先生、結婚してたの?」
私は聞いた。心臓のざわつきが大きくなっていく。
「はい。普段は指輪はしてないので知らない人が多いですけど、既婚者です。」
真柴は言う。
「そうなんだ。」
初めて真柴のプライベートを知った。とても胸に突き刺さった。急に真柴が遠くに行ってしまったようだった。分かっていても、気づけば心が抉られるような気持ちになった。私の知らない真柴が沢山いる。私は教師である真柴しか知らない。
暗くなった住宅街を真柴と歩いていた。まだ一緒に歩いていたいのに、真柴の言葉が私の耳に聞こえなくなってしまった。
何故だろう。どうしてこんなに真柴の事で頭がいっぱいになるのだろう。真柴はつくづく私の心を乱してくる。
いつの間にか真柴と私は駅前の大通りまで来ていた。真柴はメンズの大きい肩掛けのカバンを肩から掛けていて、服装も白のカッターシャツに黒のカーディガンを着ていて、腕を捲り上げていた。変わらないのに、学校じゃない場所で見た真柴は少し違って見えた。
「ここからは一人で帰れますか。」
駅前に着いて真柴は聞いてきた。
「あ、うん。ありがとうございます。」
私はお辞儀をして言った。
すると真柴は満足げに笑った。
「久しぶりに話せて良かったです。」
真柴は言った。真柴の笑顔に私はもう真柴に冷たく出来ないと確信し、笑顔を見せた。
「私も話せて良かったです。」
そうして真柴は駅に入って行き、私は家に帰った。帰り道に私は考えていた。
ずっと真柴の事を考えないようにしていた。真柴と距離が近くなるほど、教師と生徒という関係性が危うくなり、私は真柴の事を教師として見れていなかった。ただ年上の男性として見ていた。真柴と同じ空間に居ただけで他の人が知らない真柴を知れたようで嬉しかった。
私は些細な真柴との出来事を思い出していると、ふと結城の告白を思い出した。"好きだった"その言葉が出てきた瞬間、私の心臓は握り締められたような感覚になった。
気づけば私はその感情が何か気づいていた。真柴だけが特別なのは分かっていた。他の教師と違うから、そんな事じゃなかった。私は異性として真柴の事が特別に見ていたのだ。つまり私は真柴を、教師としてではなく大人の男性として見ていたわけでもなく、ただ好きだったのだ。
その感情の名前を知った瞬間、私は悲しい気持ちになったが、家に着く頃には冷静になっていた。
教師を好きになってしまったから、辛いしか残らないけど、相手が結婚してるならもうその恋の答えは出ていた。
もう諦める選択肢しか残されていなかった。叶う事は絶対にないし、伝える事も絶対にしない。恋なんてそこら中に落ちていて、試しに付き合ってみるのも良い。変わるかもしれない。
私は初めての恋を軽く考えた。中学の恋なんてそんなもの。