上の四分の一
この作品は、上、中、下、で分かれており、最初の話は上の四分の一です。
(まだ操作がよく分からないから前述しとく)
つまりかなり長い作品になってます。
文章も語彙力もまだ知識不足であり、読みにくい部分が多くあります。
口頭が多いので、サクサク読めると思います。
注意として、ジャンルは一応男女の恋愛となっていますが、一部同性愛を含んでおります。
メインは男女の恋愛なので、同性愛はほんの一部に過ぎませんが、求めてない方はご注意を。
何度も何度も苦しくて、耐えられなくて何度も諦めようと、忘れようとしても忘れられなかった。何処にいてもずっと、私は忘れない。
中学二年の冬、親が離婚して、私は母親と二人暮らしになった。元々夫婦仲はあまり良くない上、父親と話す事もなかったし、父親が私を突き放したような態度もあったため、私は離婚して良かったと思っていた。だから特に傷ついたり、悲しかったりする事はなかった。ただ人が居なくなっただけ、私はそんな事を思っていた。
「早坂千尋になるのか?」
担任の教師が聞いて来た。
「はい。」
私は淡々とした趣で頷く。
「分かった。」
担任の話を終えて、私は職員室を出た。冬休みに入った翌日に私は家庭の事情を担任の教師に話した。担任の教師は特に何も触れなかった。離婚した理由や、家庭内の状況、私の内面など、何も聞いてこなかった。年配の人で、私に興味がないだけだと思っていたが、教師は優しく微笑んで"頑張るんだぞ"と言っていた。
寒い空気が漂った廊下で、私は靴下のまま歩いていた。上履きは下駄箱に置いたまま、履くのが面倒で靴を脱いでそのまま校舎に入ったのだ。
空は赤い色に染まり始めている。もう夕方だった。冬だから日が落ちるのが早い。そんな事を考えながら廊下の窓から外を眺めていた。
「茅野さん!」
遠くから声が聞こえた。私は声がした方を見てみると、廊下の先に一人の男が立っていた。
「期末テスト最悪だったらしいですね。」
男は近づいてくると私に言ってきた。私より大きな体と身長が目の前に来る。教師なのに目にかかるくらいの前髪をしていて、暗い印象を与える眼鏡をかけていた。乱れた前髪から清潔感が見られない。
「勉強する時間がなかったので。」
私はどうにでもなる答え方をした。
「だからって全科目一桁とか、やる気がないようにしか見えません。」
教師は言った。
説教をされるのか。今日はついてないな。
そんな事を考えていた。教師とは一度も目を合わさずに視線は下を向いていた。
「何がわかりませんでしたか?」
教師は屈んで私の顔を覗き込んで聞いて来た。私の視界に教師が映ると、私は顔を上げた。俯いて暗い表情をしている顔が見られたくなかったのだ。
「何がって?」
私は聞く。
「だからテストの事です。茅野さんは授業も真面目に出てるし、提出物もきちんと出してるのに、全科目が一桁はありえないと思ったので。」
教師は言ってきた。
私はまた教師の顔を見ずに違う方向を見ていた。窓の外の景色は徐々に赤さを増している。日が落ちるのはあっという間だ。
教師は話していた口を止めると、私が教師の方を見ていないことに気づき、私の視線先を見た。すると何かを察したようでため息をした。
「分かりました。もう日が落ちます。帰りなさい。」
教師は言った。
その時、私は初めて教師と目が合った。私はお辞儀をしてそのまま小走りで冷たい廊下を走った。
何も感じないように。何も思わないように、ただ深い所で一人、低空飛行する。一切の乱れは許さない。
嘘だ。本当はすごく乱れて、揺れてる癖に。素直になれない自分の心が凄くもどかしくて腹が立つ。
中学二年の三学期。親が離婚してからの初めての学校生活だった。母親は働きに出ていて、家事もしていて、私はただぼんやりとしていた。無理をして笑顔を作る母親の顔が徐々に痩せてきていることも、疲れが隠せなくなってきていることも分かっていた。
「それでここはこの公式を使います。茅野さん?」
教師、真柴は顔を上げて私の顔を見てきた。
真柴はずっと私の成績を気にしていた。
「先生、私、早坂です。」
私は言った。この台詞、何度目だろう。
「ああ、すいません。」
真柴は言うと、視線を下に向けた。
三学期に入ってから真柴は私の家が離婚した事を知ったようだ。未だに私の苗字を間違い続けている。
「三学期は学年末テストしかありませんから、そこで一桁取ったら、さすがにまずいです。」
真柴は説明する。
真柴は私が一年だった時のクラス担任の教師だった。真柴は根暗で生徒からは舐められているが、生徒を気にかける教師だった。中学二年になっても数学の授業を受け持っていた。
「聞いてますか?」
真柴は私の顔を見て聞いて来た。
「大変な時期だとは思いますが、早坂さんの未来に関わる事です。」
真柴は真剣な表情で、その意思を訴えて来た。
うるさい。そんな顔で私を見るな。
何の言葉も響かなかった。誰も使わない図書室の机を挟んで向かい合い、私と真柴はいつも衝突していた。真柴が私に向ける視線と、私が真柴に向ける視線は常に交わらず、噛み合わなかった。何を言うにも真柴が気に入らなかった。
「先生には私の人生なんて関係ないでしょ。」
私は真柴を睨みつけて立ち上がり、席を立った。
「茅野さん。待ちなさい。」
真柴も席を立つ。
「だから早坂だって!その名前で呼ばないで!」
私は怒鳴ると、真柴は私を追わなくなった。
まだ明るい廊下を私は大股で進んだ。怒鳴ってしまったことに後悔しつつも、胸の中で疼く得体の知れないまだかまりに苛立ちを感じていた。何もかもが受け入れられなくて気に入らなかった。友達の話す話題も、授業をする教師の言葉も、ふざける男子でさえ、否定して全て私の前から消えろと心の中で叫んでいた。
気がつけば一人でいる時間の方が多かった。学校でも家でも、全てを貶していたら、何にも興味がなくなってしまった。一人でいた方がずっと楽だった。誰かを貶して罪悪感を感じるより、一人でいて何も感じない方が心が安定していた。それこそが私が目指していた低空飛行。乱れずにまっすぐと進む事ができる。本当は飛んでるだけで進んではいないのに。
「なんかお前、最近一人だな。」
クラスの男子が聞いて来た。授業の間の休み時間で、その目立つ男子が私に話しかけてくる光景は、友達からは目立った。
「だから何?なんか悪い?」
私は気に入らなくて冷たい言葉を吐いた。
友達からの視線と一人の時間を邪魔された事から私は苛立った。
「別に悪いなんて言ってないじゃん。ただ何で一人なのか気になったから。」
男子は言う。
「一人じゃ悪いの!?」
棘のある言葉をぶつけ、私は席を立って教室から出て行った。廊下を大股で歩いていると、後ろから声がした。
「ねえ、今の酷くない?」
私が仲良くしていた友達の集団だった。教室から追いかけて来たらしい。
友達の声に私は足を止めて振り返った。
「結城、何も悪い事してないのに何でそんな言い方するわけ?」
集団の真ん中に立つ女子は言った。
「は?美幸達には関係ないじゃん。」
私は苛立っていて、止められなかった。
顔も見たくない。何をされたわけでもないのに、とにかく友達の顔が全員気に入らなかった。全員で私を陥れているかのようだ。
「何、その言い方。私らなんかした?」
美幸は腕を組んで口角を上げた。
その見下したような態度に私の怒りはますます加速した。
「関係ないって言ったの。って言うか、話しかけないでくれる?ウザイ。」
私は睨みつけて言うと、その美幸の表情が明らかに変わったのが分かった。
「はあ!?何その態度。私らなんかした!?」
美幸の声は大きく、廊下に響いた。
そのタイミングで授業をしに来た教師らが二年の教室の廊下にやって来ると、美幸は舌打ちをし、教室に帰って行った。
「チャイム鳴るから教室入れー。」
教師達は言う。教師達の登場で、廊下に出ていた生徒達は教室に帰って行った。そんな中、私だけが動かず、立っていた。
「お前、教室に入れ。」
私を見つけた一人の教師は私に言う。
「お腹が痛いので保健室に行きます。」
私は小さな声で呟き、教師の返事を聞かないまま、横を通り過ぎて行った。大股で廊下を歩き、気がつけば走っていた。階段を駆け足で降り、何も見えないように、話しかけられないように、走った。
体育館に通じる渡り廊下から外に出ると、私は中庭の校舎の影に隠れて蹲った。授業中なら渡り廊下を使う人なんて居ない。ここなら人目に付かないと思ったのだ。
心臓が大きく脈を刻んでいて、その音はうるさいぐらいに私の首辺りまで聞こえていた。
何であんな事を言ってしまったのだろう。貶したくないのに、苛立って貶して、傷つけたくないから、言葉に出さないように避けていたのに、どうして。話しかけてほしくないのに。
緊張から解き放たれた私の心は緩み、後悔していた。力が入っていた目からは涙が出てきて、頬を伝っていた。鼻水も出てきて、啜る。
こんなのただの八つ当たりだ。
してしまったことに自分で自分を貶して、自分が嫌になる。こんな私、居なくなってしまえばいいのに。
「死にたい・・・。」
複雑に混合する気持ちがまとまらなくて、すっきりしなくて、苦しい。口から吐き出してしまいたいのに、喉につっかえて出てこない。
気がつけば声が出るほど、泣いていた。必死に押し殺した声も鼻水を啜る声に混じる。
「茅野さん!」
渡り廊下からその声が聞こえると、小走りでこちらにやって来た。
顔を上げた私だったが、その真柴の姿を見てもう逃げれないと、逃げる気もないと思った。私は蹲ったまま立てた膝の間に顔を竦めた。
「大丈夫ですか?」
私の前でしゃがみ込んだ真柴は私の顔色を伺うかのように顔を覗き込んできた。しかし私の顔は膝で見えない。
私は泣いていたから、鼻水も啜っていたし、息も力んで震えていた。鼻水を啜る音に真柴はなんとなく私が泣いている事を察した様子で姿が見えずとも、その声で戸惑っている事が伝わった。
「え、えーと、何かありましたか?」
真柴は言ってくる。
「いや、違うな・・。えーと・・。」
真柴は本当に戸惑っていて、言葉を探していた。
「ちょっと落ち着くまで待ってますね。」
一分ほど時間が経った頃に真柴が言った台詞だった。
すると真柴は私の隣にポケットティッシュを静かに置いて、私の右側に一メートルほど離れて座った。
正直、何処かに行って欲しいのが私の本心だった。しかし教師としての立場上、放っておくのが出来ないのだろう。私は何となく察して、諦めて真柴が置いたポケットティッシュからティッシュを出して鼻を噛んだ。次に目の涙を拭いて、盗み見るように一メートル先で座る真柴を見た。
真柴はカッターシャツにサイズの合っていない大きめの黒のセーターを着ていた。灰色のズボンもサイズが合っていなくて、とてもだらしない。その上、猫背で眼鏡だから、その見た目から印象が悪かった。
根暗で敬語、どこからどう見ても真面目を象った教師だった。
「寒いですね。」
ぽつりと真柴は言った。
私は盗み見ていたのが気付かれたのかと思って、目を逸らした。
「そうですね。」
私は返事をした。どうしてしてしまったのか、声を出した時にすぐに後悔した。何故なら今の状況がとても気まずかったからだ。泣いている姿を見られたくない人に見られてしまった。恥ずかしいし、どのように誤魔化すべきか考えた。
「寒いですけど、今日は比較的温度は高いらしいですよ。」
真柴の声は私の方を向いていなかった。こちらを向いて話しているように聞こえなかったのだ。私は再び真柴の姿を盗み見ると、真柴は空を見ていた。
真柴は無表情で、何も考えていないような顔をしていた。ただその暖かい昼前の温度に和んでいるようだった。生徒を前にした教師には見えない。
「こんな日は室内で勉強するより、外で運動した方が良い。」
敬語じゃなくなったことに私は気づいた。
私は今まで真柴に対して違和感を感じていた。根暗で生徒からは好かれていないし、忘れられている方が多い教師なのに、どの教師より全てが丁寧だった。
「何で先生は私達に対して敬語なの?」
私は膝の上で腕を組んでその上に頭を乗せた。真柴の横顔を見ていたら知りたくなったのだ。
「生徒と対等で居たいからですよ。生徒が教師に対して敬語であるべきなら、教師である僕も敬語を使います。」
真柴は空を見上げたまま答えた。
真柴の言葉に、私は本当に真面目な人なんだと思った。教師として、気持ちで生徒と向き合おうとしているのが行動として現れている。
「先生は凄いね。それに比べて私は人を傷つけて最低だ。」
私は言い、前を向いた。
「お母さんも友達もクラスメイトも先生にも、傷つけて迷惑かけて・・・。私、邪魔でしかない・・。」
声に出して言うと、ますます気持ちが膨らんで、また涙が出てきた。声が震えて、話そうとしても声が我慢できずに、私は震えた声を出す前に黙った。
「僕と比べたらダメです。僕は大人だけど、早坂さんはまだ中学生です。生きてきた時間の差があります。それだけ心の余裕や保ち方に差があります。」
真柴の顔がこちらに向いている事が分かった。その声は私に向けられた言葉だった。
「それに迷惑なんて思ってません。僕は傷ついてもいません。早坂さんの母親や友達、クラスメイトの事は分かりませんが、僕にとって早坂さんは必要で、邪魔な存在なんて思った事はありません。」
真柴の言葉は真っ直ぐに私に向けられていて、私はその言葉にますます気持ちが解れていくような感覚になった。
許されないはずなのに、その言葉一つで全てが許されたような、その錯覚に私はまた涙を流した。
家庭にも友達にもクラスにも自分の心の中でさえ、居場所を無くして、全てに罪悪感と憎悪を抱いていたのに、真柴の中の私は居場所があって、それだけで私は安心した。
「落ち着きましたか?」
真柴は数分してから聞いてきた。
私は埋めた腕の中からそのまま横を見た。もう涙も引いて落ち着いていた。泣いたせいか、少し眠たくて、気持ちがふわふわしていた。
「先生って敬語で話すのに一人称は"僕"なんだね。変なの。」
私は言った。
「ああ、"私"だと気持ち悪いかな、と思いまして。」
レンズ越しに見える真柴の目はまっすぐと私の目を見ている。そういえば真柴は私と話す時は毎回目を見ている。絶対に目を逸らさない。
「変なところ真面目。」
私は呟いた。
真柴に泣いている姿を見られたら、私の中で真柴という人物は大きな存在になっていた。真柴が私を否定しなかったため、真柴の中に居ても良いんだと受け入れられたような気になっていた。
「それよりここは寒いです。保健室に移動しませんか?」
真柴は聞いてきた。
「いい。保健室の先生、あまり好きじゃない。」
私は呟いた。
保健室の養護教諭の先生は女で、とても詮索してくる人物だった。保健室に行けば何かと理由を聞いてくる。理由がなければ、先生個人の話をずっとしてくるのだ。あの人と居るとすごく疲れる。
「じゃあ図書室で勉強しませんか。教えます。」
真柴は言った。
私は迷ったが、教室や保健室よりずっと図書室の方が居心地が良かった。ストーブも付いていて、静かで暖かい。
私と真柴は場所を移動した。移動中、静かな廊下を教師と一緒に歩くのはとても不思議な気持ちだった。呼び出された時のようなドキドキ感。なのに真柴と向かう先は図書室で勉強。私だけが生徒として特別な立ち位置にいるようで楽しかった。
図書室に入ると、私と真柴はいつもの座席に座った。長い机の端っこ、窓際に向かい合って座る。そこが最も明るく、暖かいからだ。
「先生ーもう勉強とかめんどくさいし寝ようよ。」
席に着いた私は机に腕を伸ばして言った。
「ダメです。どうせ午後から寝るでしょう。」
真柴は私が座った席の向かい側に座ると、机の上に教科書や参考書を置いた。
「あ、先生。私、書くもの持ってないよ。」
私は手のひらを見せて言うと、真柴はため息を吐いて、図書室に置いてある鉛筆を持ってきた。
「えー鉛筆?古いよ。」
私は鉛筆を貰って言った。
「文句言わないでください。」
真柴はため息をまた吐いた。
「先生はシャーペン持ってないの?」
私は聞いた。
「僕のシャーペンは一本しかないんです。」
そう言うと、真柴はセーターの中に手を入れて、カッターシャツの胸ポケットに入ったペンを出した。
「じゃあ交換。私、シャーペンが良い。」
私は言い、左手を広げて、右手に鉛筆を差し出した。
真柴は嫌そうに顔をしかめていたが、何も言わず、私の左手にシャーペンを乗せた。代わりに鉛筆を取った真柴は特に気に留めた様子もなく教科書を開いて勉強を教え始めた。
私は貸してくれたシャーペンを見た。そのシャーペンは軽くて中が透けて見える安物だった。何かの雑誌の付録のようだ。
「じゃあ始めますね。」
真柴は言うと、私と真柴は勉強を始めた。チャイムが鳴っても、延長して真柴と私は勉強をした。
「先生はさ、どうして私に勉強を教えてくれるの?」
勉強道具を片付けている時、私は聞いた。
教師が一人の生徒に固執するのは、どうなんだろう。と心配になりつつも、私は期待していた。真柴が私一人を心配してくれている事を。
「早坂さん、君の成績、学年最下位なんですよ。」
真柴は口の端を曲げて笑った。
呆れているようなその表情は、"やれやれ"と言っている。しかしその表情に私は不思議と苛立たなかった。まるで面倒のかかる生徒を持って真柴は嬉しそうにも見えた。
「先生、なんかキモいね。」
私は図書室から出る直前言うと、真柴は何か聞いたそうに言葉をつっかえさせていた。その動揺したような姿に私は自然と笑顔が溢れた。
その日、私は美幸達に謝った。話しかけてきた男子にも謝った。美幸達には"もう関わらないで欲しい"という意思を伝えた。
もうあんな思いはしたくない。私は美幸達と私なりのやり方で向き合ったつもりだが、結局それは問題から逃げただけだった。私は自分が許せなくて、自分が嫌いだった。
その日をきっかけに私はクラスで一人になった。三学期に入ってからはずっと一人だったから、寂しさは感じなかったが明らかに、私が美幸達と孤立したということはクラスの中の空気を冷たくざわめかせていた。クラスメイトの視線と、美幸達からの嫌われているその視線は、痛いものがあった。
「今、早坂さんのクラスが空気が悪いようですね。」
放課後のいつもの勉強中、真柴はそれを話題に出した。
「うん。美幸達と近寄らないでって言った。」
私はクラスの中でも目立つ集団の中にいた。イベントやクラスの雰囲気もその集団次第で大きく変わるぐらい、その集団はクラスでの大きな影響力を持っていた。そんな集団から抜けて、集団で私を嫌うのなら、それはクラスの空気が悪くなる事にも繋がる。
「一人で大丈夫なんですか?」
真柴は聞いてきた。
「正直、もう学校休みたいって思ってる。」
私の口から本音が溢れた。真柴に話しても、ここで話した事はなかったかのように真柴はいつも聞いてくれる。
「今、頑張っているところなんですね。」
真柴は言った。
「うん・・。」
私の声は震えた。気持ちを理解して受け止めてくれることがここまで心に支えになるなんて知らなかった。
「どうして私、学校に来てると思う?」
私は聞いた。真柴と話していると、いつの間にか敬語を忘れてしまう。それぐらい真柴に話しやすかった。
他の生徒には根暗だと思われているから話すらしてもらえないのに、他の生徒が本当の真柴の事を知ったら、真柴は人気になってしまうな。私はそんな事を考えていたが、本当の真柴を知られたくない気持ちの方が大きかった。真柴が真面目で生徒思いな教師という事は私だけが知っていたい。
「どうしてですか?」
真柴は聞いてくる。
「先生と話せるからだよ。」
私が言うと、真柴は驚いて顔を上げた。勢いよく上げたせいで眼鏡が少しずれた。真柴は驚いた事を誤魔化すかのように目を逸らして眼鏡を整えた。
「あはは、驚いたね。」
私は楽しくて笑った。
真柴は視線を泳がせて下を向いた。生徒からこんなに笑顔で堂々と言われなことがなかったのだろうと、私は思った。
「まあ、それも一つの要因ってだけだけどね。」
私は言い、シャーペンを動かして問題を解き始めた。
「学校は休めないし中学は卒業したい。母さんにきちんとしている私を見せて安心させてあげたい。」
私は言った。そんな風に思えるのも真柴が私のどうでも良いことでも話を聞いてくれたからだった。真柴のおかげで私は心の余裕を取り戻していた。
「十四歳なんて思えないほど立派ですね。お母さんもそんな風に思われていたら嬉しいでしょう。」
真柴は本を読みながら言う。
いつも通りの真柴に私は嬉しくなり、勉強に取り組んだ。
教員の間で、私が真柴に心を開いているという話題は有名だったらしい。真柴は何度も他の教師から褒められ、中途半端な同情の言葉も聞いているとか。私はそれを保健室の女の先生から聞いた。
体育の授業中、転んで軽く擦り傷をした私は仕方がなく保健室に行ったのだ。
保健室の先生はおしゃべりで本当に聞けば何でも答えてくれた。教員の中でも真柴の立場や、私と真柴との間を他の教師がどう思っているかまで教えてくれた。聞きたくなかった話題や、教師の中途半端な同情も、教えてくれた。
体育はそのまま参加した。見学として運動場に降りる段差に座って見学していた。
『早坂さんを気にかけていた先生は多くいたのよ。だって早坂さん、クラスの集団の中でもずば抜けて顔立ちが良い上大人しいから、先生達の間では有名だったのよ。だから早坂さんの家庭を聞いた時は何とかしてあげようってみんなで話したものよ。』
保健室の先生が話した言葉が蘇る。
『それだけじゃなくて、すごく顔色も暗かったしね。二学期の期末テストなんて全科目一桁だったでしょ?だから余計に心配してたの。こんな時期に親の離婚なんて可哀想。進路も絞られるでしょうね。』
その声がいつの間にか他の教師達の声に聞こえていた。
怒りが頭を支配して、それ以外の感情が出てこなかった。
私は体育の授業中、学校の外に出た。体操服のまま歩いて外に出て、学校までの広く一本の道を下った。住宅街の中にある公園の中に入り、そこのベンチに座った。
怒りで頭の中は教師に対する罵倒の言葉しか出て来なかった。
いなくなってしまえばいい。私の何がわかるの。勝手なことを良い大人が言うとか恥ずかしくないの。
罵倒しても貶しても、結局無力な自分には代わりなかった。弱い自分が受け入れられなくて、苦しい。
「早坂さん。」
その声に顔を上げると、そこには真柴ともう一人、体操着のままのクラスメイトがいた。
「教えてくれてありがとうございます。」
真柴はクラスメイトに言った。
「宮下さんはもう帰ってください。次の授業、始まりますよ。見つけた事は小林先生に伝えて、僕が駆けつけたことも言っておいてください。」
真柴は宮下というクラスメイトに言った。宮下は頷くと、そのまま走って帰って行ってしまった。
彼女の背中が去って行くのを見守った真柴は私の方を向き直り、こちらにやって来た。
「先生って私の飼い主なの?」
私はやって来た真柴に対して言った。
逃げ出した犬を捕まえに来たかのようだ。
「ははっ」
真柴は私が言ったことが面白かったのか、声を出して笑った。
「あまり飼い主を心配させないでください。」
真柴は言うと、私の隣に腰を下ろした。
「先生達の間でさ、私が問題を起こすと、真柴に任せとけば良いみたいな風潮あるでしょ。」
私は視線を下に向けて言った。
「風潮ではなく事実ですね。」
真柴は言い切った。
「やっぱりそうなんだ。」
私は教師達から雑な扱いをされているような気がして、少し傷ついた。
聞いた話も私の気持ちを知らずに勝手に決めつけて教師達で先走りをしていることも苛立った。何も知らずに余裕のある立場の人間から同情されることが、こんなにも屈辱的で悲しい事なんて知らなかった。
「だけど、宮下さんが僕を呼んだのは正解です。小林先生を呼んで、ここに来られていたら困っていたでしょう?」
真柴は言うと、私の顔を見て来た。
私も視線を上げて、隣に居る真柴の顔を見た。
「別に良かったよ。誰が来たって。大人しく帰ってたし。」
私は冷静で冷たい目で真柴を見た。
真柴だって一人の教師だ。あの教師達の一人だと言うことには違いない。真柴の中にだって他の教師と同じで私に同情していたはずだ。じゃないと納得できない。真柴がここまで良く私を見てくれている事が同情の他に理由が分からない。
「そうですか。」
真柴は言った。
私は真柴の目が見ていられなくなり目を逸らした。地面に視線を向ける。
「僕は嫌でした。」
真柴は言うと、私はその言葉に耳を疑い、心臓が締め付けられるような感覚がした。
「は?」
動揺した私はどんな顔で真柴がそれを言ったのか気になった。どうゆう意味なのだろう。私は少し期待していた。
しかしそこにあった真柴の顔は先程と変わらず、普通に話している穏やかな表情だった。
「小林先生は少し苦手なので。」
眼鏡の向こう側で幼さを残した表情は笑顔を見せた。初めて真柴の笑顔を見た私は特別なものを見たような気分になって、心臓がまた脈を打った。真柴が他の生徒には見せない表情だ。
「先生が苦手なのと、私が小林先生と話すの関係ないよ。」
私は真柴の気持ちが知りたくなった。
どうして迎えに来たのか。成績最下位ってだけでそこまで私を見てくれるのか、それは同情なのか。真柴は違うって思いたかった。
「そうですね。」
真柴はそう呟くと、立ち上がった。
「それでは帰りましょう。」
私は真柴の顔を見上げた。真柴の顔は私の方を向いていなかった。
真柴は先に歩き出した。話を無理矢理終わらせたようだ。私は立ち上がり真柴の背中を追った。
「ねえ、待ってよ。教えてよ。」
私は真柴の背中に言った。
数メートル先を歩いていた真柴の背中は止まると、振り返った。
私は心臓の高鳴りを抑えた。私が聞こうとしていた事はとても真柴にとって聞かれたら困る内容だと分かっていた。だから心臓がうるさく鳴っていて緊張した。
「他の先生が私に優しくすると、自分の評価が下がるから?それとも他の子達とは雰囲気が違う私を独占したかったから?私知ってるよ。そうゆうの優越感って言うんでしょ。」
私は手を拳を作って勇気を振り絞った。
本当はこんな事、教師に向かって聞く事じゃない。教師としての立場なら、そんな事思わないし、思っていても口に出さない。だけど私は真柴だけは違うということがどうしても信じていたかった。真柴は他の教師と違って誠実な気持ちで生徒と向き合ってくれてるって思いたかった。
「何を聞きましたか?」
真柴が発した一言目はそれだった。
聞かれたくないことでもあったかのようなその言葉に私は無駄に意識してしまった。
「先生は私に同情してたの・・?」
私は俯いて聞いた。
私が暗くなる事が真柴にも伝わったのか、真柴は口をつぐんだ。きっと言葉を探しているのだと思った。だけど、私にはまた余裕がなくなっていた。
「やっぱりいいや。聞きたくない。」
私はそう言うと、真柴の隣を通り過ぎて一人で学校に帰った。真柴は後ろから私を止めることも、追いかけてくることもなかった。
私は思っていた以上に真柴に期待をしていた。他の教師とは違う、教師として真面目で誠実で、生徒と向き合ってくれる、そんな教師だと思っていたのに、真柴は何も答えなかった。
そうだ、真柴も教師なんだから、利益不利益で動くに決まってる。自分の昇進も気にするだろう。
私は更衣室で着替えると、教室に戻った。教室にはすでに授業が始まっていたが、私は気にせず教室に入り、人目を集めながら自分の席に着いた。
私の堂々とした姿にクラスはざわついていて、一部の人達は気に入らなさそうに舌打ちをしていた。
授業が終わる頃には私の事を見る人は居なくなっていた。クラスでの居心地は相変わらず最悪。自業自得だけど、それでも辛かった。
「ねえ、千尋ちゃん。」
私の名前が呼ばれたことに私もクラスメイト達も驚いて注目した。私の目の前には一人の女の子が立っていた。ボブの短い髪に、身長も低い。それは公園に私がいた時に真柴の隣にいた人物、宮下紅子だった。
「なに?何の用?」
私は聞いた。クラスメイトが私と紅子に注目する。特に美幸達からの視線が痛かった。
「次の授業、実験室に移動だよ。一緒に行かない?」
紅子は私に聞いて来た。
「やめときなよ紅子。」
その声は美幸だった。遠くで集まっている集団の中で真ん中にいた美幸は大きな声で私達に届くように言ってきた。その声が私の心を緊張状態にさせ、私は縛られたかのような恐怖が襲った。
「なんで?良いよね?千尋ちゃん。」
紅子は笑顔で私の顔を覗き込んできた。
「そいつ、近づくなとか言ってくるよ。だからやめな。」
美幸の声は低くなる。真剣に言っているようだ。
そうだ。美幸の言っている事は間違っていない。私に近づいたら私は紅子まで傷つけてしまう。
「美幸ちゃん心配してくれてるの?優しいね。」
紅子は大きな声で美幸に伝えた。その言葉はその場の人達を騒然とさせて、美幸も驚いた様子だった。美幸を囲んでいた周囲の女子は"は?"っと言って紅子を軽蔑しているようだった。
「ね、行こう千尋ちゃん。」
紅子は再び私に言ってくる。
私はその場の視線と注目されている事に耐えきれなくなり、立ち上がった。
「わ、私に話しかけないで・・・。」
振り絞った震えた声で言った。
「何で?良いじゃん行こ。」
私の声を遮るかのような大きく明るい声で紅子は言うと、私の震えた手を掴んだ。
「あはは、冷たいねー。」
紅子は歯を見せて笑い、私の手を引っ張って教室から出た。視線を集める中、私は紅子の手によって教室から出た事に心の底から安堵が込み上げた。
「ねえねえ、真柴を呼んで正解だった?」
紅子は私の手を掴んだまま聞いて来た。私はその手を見て、力を込めてその手を離した。
「なに?」
私は冷たく言う。
「私、千尋ちゃんが出て行くの見てたの。先生呼ばないとなーって思ってたんだけどね、小林ってほら、ちょっと嫌じゃん?」
紅子は私の隣を歩いて言った。
「どうして?別に誰だって良かったよ。」
私は低い声で突き放したような言い方をした。
「もー怒らないでよ。」
紅子は笑いながら言う。
「小林ってさ、古い考えを持った先生だから、あんな不真面目な事をしたら凄く怒るでしょ?それも千尋ちゃんとなると、もっとヤバイことしそう。」
紅子は言った。
真柴も紅子も何故、そんなに体育の小林を嫌うのかが分からなかった。
「ねえ、私もっと千尋ちゃんと仲良くなりたい。千尋って呼んでも良い?」
紅子は私の顔を覗き込んできた。私はその眩しい眼差しに答えられず、目を逸らした。
「何それ同情?」
私は冗談半分で聞いた。
もう私に話しかけてくる人全員が同情で、私の事を考えていないように思えた。全員が中途半端な気持ちで自分の株を上げるために私を利用しているようにしか見えない。つまりは私は疑心暗鬼になっていた。
目の前の紅子は目を丸くしてその眼差しは変えない。
「"同情"って何?」
紅子は大きな声で私に聞いて来た。
その声と勢いに私は驚いて、思わず一歩後ずさった。純粋な疑問を問いかける紅子の目に私は何か違和感を感じた。どれだけ冷たく接しようが変わらない紅子の目と態度、そして迷いのない目。私はその紅子の目を見て何となく察した。
そうか、この子は本物の馬鹿なのだ。
教室で話しかけて来たのも、きっとクラス内で私がどうゆう立場の人間か空気が読めていなかっただけなのだ。
私は本能と勢いだけで動いている紅子を見て、何となく自分が馬鹿らしく思えた。
「はははっ」
その声は後ろからした。私はその声が誰だか、すぐに気がつくとため息をして振り返った。紅子も私が振り返った事で、誰かがいる事に気が付いたかのようだった。
「あー真柴だー。ってか笑ってる!キモ!」
その姿で笑う真柴はとても不気味だった。
「一本やられましたね。」
どうやら一連の流れを真柴は見ていたらしく、笑っていた。
「うるさい・・。」
恥ずかしい私は口を尖らせて言った。
「何何?何が一本なの?」
紅子は私と真柴の顔を交互に見る。
「心配して損をしました。上手くやっているようですね。」
真柴は口の端を伸ばして笑って見せた。
心配・・。
私は真柴の言葉に引っかかりつつ、視線を真柴の目に向けた。すると真柴は笑った。
「僕は早坂さんの事を一度も可哀想だなんて思ったことありませんよ。確かに心配はしましたけど、今は早坂さんが笑ってくれると凄く安心します。」
真柴は言った。
真柴は私の心を見透かしたような気がした。私が今、最も求めていた言葉をくれた。私は傷ついた心が一気にどうでも良くなるぐらいに、その言葉で救われた。
「なんかよく分からないけど、意外と仲良しなんだね、二人は。」
紅子は嬉しそうに笑って言った。
するとチャイムが鳴り、私は紅子に引っ張られて実験室に行った。私は真柴に何も言えないまま、その場を離れ、授業中はその事で頭がいっぱいになっていた。
真柴は違った、そしてきっと紅子も違う。もっと人を信じても良いのかもしれない。傷つけてしまうかもしれないけど、問題から逃げてばかりじゃダメだ。
そう思った私は紅子を信じてみる事にした。紅子は私に何も聞かずに一緒にいてくれた。移動教室の時も休み時間も話しかけてくれる事が多かった。それに対して最初は気に入らなさそうにしていた美幸達だったが、二月の後半とまでになるとその光景にも慣れてクラスはいつもの雰囲気を取り戻していた。
もうすぐ三学期が終わりでクラス替えがあるため、みんなはそこまで気に留めることはなくなったんだと思う。
「問題です、今日は何の日でしょう。」
放課後、私は変わらず真柴に勉強を教えてもらっていた。
「学年末テストの三週間前ですね。」
真柴は眼鏡の位置を直して言う。
真柴の回答に私は真柴らしさを感じ、呆れた。
「今日はバレンタインだよ。何個もらったの?」
私は机に肘を乗せて前屈みになり聞いた。
「秘密です。」
真柴は私が解いた問題の答え合わせをしながら言う。答えないということは、貰っている可能性が高い。
「えっ貰ったの!?」
私は声を出して驚いた。
「さあ、貰ったかもしれないですし、貰ってないかもしれません。」
真柴は言う。
「嘘だ。だって田村先生がチョコ配ってたから、貰ってるでしょ。」
私は人差し指を立てて言った。
「知ってるんでしたら聞かないでください。」
真柴は眉間に皺を寄せて言った。
「良いじゃん。生徒からは?」
私は聞く。
「貰ってませんよ。」
真柴は言う。
「ふーん。」
真柴は平然を装った表情をしているが、質問に対する答えはとても分かりやすかった。
何かある場合は誤魔化すが、何もなかったら正直に事実を答える。つまり誤魔化すと肯定っという、分かりやすい反応を見せてくれる。
「じゃあ私、一人だけだね。」
私はそう言い、カバンから袋を出した。
「チョコクッキーだから溶けてないよ。あげる。日頃の感謝だよ。」
私は真柴の前に置いた。
真柴は驚いた様子で目を見開いて、その袋を見た。
「これは・・。」
真柴は呟く。
「チョコクッキー無理だった?」
私は聞いた。
「い、いえ。じゃあ貰います。」
真柴は言うと、手を伸ばして袋を手に取った。そしてそのまま袋を開封するとクッキーを出した。
「今食べるの?」
私は聞いた。
当然のように食べ始める真柴に私は少し驚いた。
「はい。」
真柴はクッキーをほうばって食べた。真柴が食事をする姿をその時私は初めてきちんと見た。思った以上に真柴は子供のように食べるので、見ていて凄く気持ちが良かった。
一口が大きく、口元に食べかすが少し付けて、食べた後に指を舐める仕草に、見た目と反して可愛い食べ方で、私はまた真柴の知らなかった部分を知れて良い気分になった。
「ごちそうさまでした。」
真柴は言う。
「どうも。」
私は言うと、カバンのポケットからポケットティッシュを出してティッシュを真柴に渡した。真柴はそのティッシュを顔を傾げて見ていたが、私が自分の唇を指さして、汚れている事を教えると、真柴は慌ててティッシュを受け取り、口を拭いた。
「ありがとうございます。」
真柴は丁寧に言った。
「いえ、私もいつもありがとうございます。」
私は言う。
学年末テストの一週間前はずっと真柴と放課後、勉強を教えてもらっていた。私は確かに中学二年の二学期が学年で最下位だった。しかし一応、中学一年の頃はそれなりに点は取っており、それが徐々に下がっていっただけの話だった。
「じゃあここ、早坂さん解いてください。」
数学の授業中、真柴は私を当てた。
「わかりませーん。」
私は言う。
私を試しているのか、と私は心の中で思った。すると真柴は私の隣にやって来て、ノートを覗き込んできた。
「解いてるじゃないですか。」
真柴は言う。
「えー。」
半ば強引に前に連れ出され、私はチョークを握らされた。クラスメイト全員の前で黒板に羞恥を晒すのかと、私は嫌になった。
分かる範囲の公式を使い、すらすらと公式に数字を当てはめ、公式の順番通りに数字を計算していく。しかしやはり途中であり得ない数字になり、最後まで解けなかった。
「あーやっぱりわかんない。」
私は真柴に言う。
「ここまで出来たのは上出来です。」
真柴は言うと、赤のチョークで私が書いた公式を訂正し始めた。
私は自分の出番は終わったと思い、席に着いた。
「これは応用編です。今回のテスト、これは一問確実に出るので、覚えておけば点を多く取れます。この問題はまず・・。」
真柴は解説し始めた。
授業中の真柴はやはり私の事を特別扱いはしなかった。誰にでも同じように問題を解かせ、出来たところは誉めて、出来なかったところは教える。学校の数学の教師の中では人気がある方だった。
試験の前日、真柴と私は最後の追い込みをしていた。
放課後、いつも通りに私は図書室に来るといつもの窓際の席に座った。コートを隣の座席に掛けて、マフラーを首に巻いた。
大体いつも真柴より私が先に来ることが多かった。真柴はクラス担任は持っていないが、やはり真柴の元に勉強について聞きに行く生徒は多いらしく、特にテスト前には来る時間が遅かった。その間ストーブも付いていないため、私はマフラーを巻いて先に自主勉強を始めていた。
真柴に成績の心配をされるようになってから、こんなに勉強をしたのは初めてだった。今まで塾にも通ったことがなかった私は、人と一対一で勉強を教えてもらうという時間が、とても恵まれていると感じていた。
やはり真柴は来るのが遅く、一時間経ってから図書室に姿を現した。
「すいません。遅れました。」
真柴は言うと、慌てた様子でストーブを付けて私の向かい側の席に座った。そして教科書を開いて、急いで取り組もうとした。
「いいよ別に急がなくても。」
私は自分が取り組んでいた自主勉強の教科の教科書を閉じて言った。
「それより一息吐いたら?」
私は言うと、真柴は少し迷った後に息を吐いた。
「じゃあその言葉に甘えさせてもらいます。」
真柴は言うと、息を吐いた。本当に急いで来たらしく、前髪が真ん中で分かれていた。私はそれに気づくと、櫛をカバンから取って席を立った。机の横を通って真柴の隣に来ると、真柴の隣の席に座った。
「何ですか?」
真柴はこちらに顔を向けて言ってきた。
その時、私は初めて真柴と距離の近さに気がついた。今まで私と真柴には、私が泣いた、あの時の一メートルから踏み込んだ距離に近づいたことがなかった。私は椅子の横向きに座り、真柴に体を向けていた。その距離は真柴から一メートル以内。膝が真柴が座る椅子に触れそうだった。
「えーと、髪が・・・。」
私の視線は真柴の前髪から徐々に下に降りていき、真柴の目に行った。真柴と目が合い、いつもの距離からはよく見えない真柴の目がよく見えた。私は近くで見た真柴の目が予想外だったのでそのまま黙って見てしまった。
「本当に何ですか、勉強始めますよ。」
真柴は私から目を逸らすと、教科書を見た。
「すごいね、先生の目って綺麗な二重なんだね。意外ー。」
私は真柴の横顔に話しかける。
「はあ?人の顔なんてどうだって良いでしょう。」
真柴は呆れたような口調で言った。
それにまつ毛も長く、左目の下にはホクロがある。その目をしているなら髪を切って肌を綺麗にして、眉毛を整えればそれなりに顔立ちが綺麗に見えそうだ。
私は気がつけば机に頭が付きそうなぐらい頭を下げて、真柴の顔を覗き込んでいた。真柴が険しい顔をした辺りで私は見すぎている事に気がつき、見るのをやめた。
「もうちょっと、顔のマッサージとか肌を整えたりしたほうが良いんじゃない?」
私は言うと、立ち上がった。
「どうだって良いでしょう。」
真柴はそっけなく言う。
「モテないよ。」
私は席に戻ろうと机の横を通った際、窓の外を見た。外には帰る生徒が見える。生徒は自転車を押して恋人同士の男女、友達同士で帰る女子達、本を読みながら帰る女子生徒も見えた。それぞれ違う時間を過ごしていて、今の私は真柴と放課後の図書室で勉強を教えてもらっている。私はその肩書きが特別のような気がした。本当は私だって早く家に帰って晩御飯を作って寝たい。だけどこの時間は悪くなかった。
私は嬉しくて笑った。席に着くと、いつも通りの勉強が始まった。真柴は数学以外も教えてくれた。だけど私は真柴が教えてくれる数学はもっと高い点数を取ろうと、家に帰っても復習をした。
テスト期間中に入ると、放課後は真柴と勉強会は禁止になった。テスト期間中は教員はテスト内容を漏洩しないために、生徒との勉強は禁止されているのだ。
「千尋ーテストどうだった?」
テストが終わるチャイムが鳴り、帰る支度をしていると紅子が話しかけてきた。
「まあまあかな。紅子は?」
私は聞く。
「ほぼ空欄だったよ。」
紅子は親指を立ててウィンクをして見せた。
行動と発言が合っていない。などと私は思いつつため息をした。
帰りは紅子と帰った。コートを着て、マフラーを巻いた。外は道路の端に雪が積もっていて、息はずっと白い。もうすぐ春なのに、季節はまだ冬真っ只中だった。
校門まで向かう途中、振り返って校舎の図書室の窓を見てみた。図書室は一応、自主学習として開いているようだが、人の影は見えない。真柴と会わない放課後は何故か少し寂しさがあった。
テスト中、一度だけ真柴が私のクラスのテストの監視担当になり、テスト中、クラスにいた事があった。国語のテストで私はすぐに解き終わると、背もたれに持たれてぼうっとしていた。すでにテストを終えた人達はテスト用紙で何かしていたり、寝ていたり、様々に過ごしている。そんな中、顔を上げて上の空だった私はふと、真柴に目が行った。真柴は教卓の前に椅子を持ってきて座っていた。
私は暇で頬杖を付いてずっと真柴の方を見ていた。真柴もまた暇そうに手に持ったペンを回している。飽きたのか真柴は立ち上がると、生徒達の様子を見始めた。机の間を通り、生徒達のテストを見る。私は真柴から目を離して窓の外を見た。白く曇っている空からは白い雪が降っている。
あ、また降ってきた。寒いなあ。
などと私はぼんやりと思っていた。教室内がストーブで暖かく、眠たくなっていた。
その時、真柴が私が座る座席の列に来た。前からそれぞれの生徒を見ながら歩く中、私の視線に気づいた真柴は私の方を見た。私は回答用紙を表にして腕を組んだ。見ろと言わんばかりの態度は真柴に伝わったのか、真柴は私の横を通り過ぎる際、足を止めて私の解答用紙を見た。お互い横目で、お互いを見た。すると真柴の顔は口元が微笑み、通り過ぎて行った。
その笑みは褒めてくれているようだった。
全テストが終わり、私はまた図書室で真柴が来るのを待っていた。真柴に呼び出されていたのだ。
「遅れて申し訳ありません。」
真柴は言うと、図書室に入ってきた。いつものようにストーブを付ける。
「全然良いよ。」
私は言う。
「全科目の問題用紙は持ってきましたか?」
真柴は私の前の席に座ると聞いてきた。
「えー、私勉強頑張ったんだから復習とかしたくないよー。」
私は机の上に顎を乗せて駄々をこねた。
「わかりました。」
すぐに顔を縦に動かした真柴に私は驚いた。いつもなら"だめです"と言うのに、その日はあっさりと認めてくれた。
「良いの?じゃあどうして呼んだの?」
私は机に頬を付けて真柴の顔を見上げた。
「手応えを聞こうと思いました。どうでしたか?」
真柴は聞いてきた。
それならいちいち図書室に呼び出さなくて良いのに。と私は思いつつ、姿勢を正した。
「自信あるよ。空欄はないし、自信ない答えは少ない。」
私は堂々と笑って言い切った。
「それは頑張りましたね。」
真柴も笑う。
「ここで賭けをしない?」
私は腕を組むと、胸を張って言った。
「賭け?」
真柴は聞く。
「うん。私、前回学年最下位だったでしょ?だから今回は学年十位以内入ってるかどうか。」
私は自信満々で口角を上げて言った。
「ほう、その賭け大丈夫ですか?学年末テストは今までのテストと違って問題も難しいし、採点も厳しいですよ。」
真柴は言う。
「あと、賭けるものにもよります。」
真柴は言うと、同じく腕を組んだ。
その様子に私は真柴は少し楽しそうに見えた。賭けるものによっては、この賭けに乗ってくれるらしい。
私はその挑戦的な真柴の様子に安心した。
「うーんそうだなあ。」
私は考えた。真柴と私の双方に利益がある物じゃなければ、賭けは面白くならない。
「じゃあ何でも聞ける券は?」
私は人差し指を立てて言ってみた。しかし真柴は顔色を変えなかった。
「何でもって・・何か知りたいことがあるなら普通に聞けば良くないですか?」
真柴は言う。
確かにこれでは面白くない。私は再び悩ませた。
「じゃあ何でも言う事を聞く券。」
私は言った。
真柴は少しの間、黙って考え込んだが、すぐに私の目を見て笑った。
「"常識の範囲内で"って言う事なら、その賭けやります。」
真柴は言う。
乗ってくれた事に私は嬉しくて笑った。
「意外と先生ってゲームは楽しむ方なんだね。私は十位以内に入っている事に賭けるよ。」
私は言った。
「じゃあ僕は十位以下で。」
順位発表は終業式に行われる予定だった。テスト返却は明後日。私はその時間を楽しみに待った。
家に帰っても賭けの事を考えていて、一体真柴に何をさせようか考えていた。しかしそのような期待もすぐに打ち砕かれるのである。
テスト返却の日、数学の時間になると真柴が回答用紙を持って私の教室に現れた。真柴はいつも通りに根暗なままテストについての説明をし、出席番号順に生徒を呼び始めた。
「次、早坂さん。」
私の名前が呼ばれて、私は席を立ち、先生に回答用紙を貰いに行った。渡される直前、私は先生の顔を見た。先生も私の顔を見ていて、目が合った。
「よく頑張りましたね。」
先生はぽつりと言った。
その言葉から点数が良いことが察する事ができた。私は自席に戻って慌てて回答用紙を開いてみると、点数は九十点だった。私は嬉しくなって舞い上がり、真柴の方を見た。真柴は他の生徒に回答用紙を返していてこっちを見ていなかったが、私は再び自分の点数を確認して、気持ちを抑えつつ、心は舞い上がっていた。努力が報われるという事がこんなにも嬉しい事だなんて、初めてだった。それに、その努力を手助けして一緒に喜べる人が居ることも嬉しかった。
全科目のテスト返却が終わると、自由解散となった。私は真柴に他のテストの点を報告しに行こうか悩んだが、特にその辺りの約束もしていなかったため、その日は真柴に会わずに帰った。私が狙っているのは学年総合順位の十位以内。それだけ真柴に知らせれば問題ない。
私は全体的なテストの点が良かったため舞い上がって期待していた。小学校の時でさえ、こんなにも全科目で点数が高かった事はなかった。そもそも勉強なんてしてこなかった人間だから点数なんて元から低い。そんな私がここまで成長できたなんて、真柴のおかげだった。
その日の晩御飯はチーズ入りのハンバーグにした。一人で舞い上がった気持ちを料理に表し、満足していた。
終業式の日、テストの順位は成績表と共に返ってきた。私はまだ成績表も学年末テストの総合結果も見ていなかった。各テストの点数は回答用紙の返却と共に点数は分かっているが、学年の生徒の総合順位は学年末テスト総合結果の紙に記されていた。
私は終業式と担任の話を終えて、解散になると真っ先に真柴の元に行こうとした。
「あ、千尋!」
コートを着ていると紅子が私を呼んだ。紅子は私の席にやって来る。
「今日の放課後、一緒に遊ばない?四月になったらクラスも離れるかもしれないし。」
紅子は言った。
真柴には成績表を見せて賭けの事を話すだけだから、そんなに時間は要さなかった。
「分かった。でも私、夜遅くは無理なの。」
私は聞いた。
「本当!?やった!じゃあこのまま・・。」
紅子は言おうとする。
「あ、その前に先生の所行くから、昇降口で待っててくれる?」
私はそう言い残して教室を出た。鞄とマフラーを片手に階段を降りると、職員室に向かった。廊下はとても寒く、白い息が見える。外は雪が積もっていて、白色の世界になっていた。
職員室前で深呼吸をしてドアをノックし、真柴を呼ぶが、そこに真柴は居なかった。真柴はクラス担任を持っていないからこの時間なら職員室に居るはずだ。
今日、成績表が配られる事は真柴も知っていたはずだ。もしかすると図書室で待っているのかもしれない。
私はそう予想して走った。再び階段を登り、三階の奥にある図書室に向かった。三階には生徒が少なく、三年生はすでに帰っていた。静かな廊下を走り、図書室に着く頃には息を切らしていた。
息を切らしたままドアを開けると、本棚の前に真柴が立っていた。真柴はドアが開く音に気付き、本を持ったまま振り返った。
「遅かったですね。」
真柴は言った。
「珍しく先生の方が早かったね。」
私は息を整えながら言った。
「走ってきたんですか?」
真柴は本を閉じて本棚に戻す。
「だって職員室に先生が居なかったから。」
私は言いながら図書室に入り、机の上に鞄とマフラーを置いた。
「それで成績はどうでしたか?」
真柴は私の一メートル先に立った。
「私もまだ見てないの。賭けの内容は決めた?」
私は鞄の中から紙切れを出した。そこに今回の学年末テストの順位が記されている。
「まあ、そうですね。」
真柴は腕を組んで笑う。
私は楽しそうに見える真柴を見て嬉しくなった。真柴と仲良く出来ることが何より嬉しかった。
「それじゃあ開くよ。」
私は深呼吸をして半分に折った紙を開いた。真柴は私と距離を作りながらその紙を見る。
目を開いて紙を見つめると、そこには学年末テストの各科目の点数と、学年の平均点、そしてクラス順位と学年の順位、そして総合順位が記されていた。
クラス順位七位。学年総合順位三十二位。
その記された文字を見た時、隣から鼻で笑う声が聞こえた。私は見間違いだと思い、何度も見て、挙げ句の果てに目を擦ったり閉じたりして、文字を見間違いていないか確認した。
「僕はこれでも凄いと思いますよ。」
真柴が言った。
私は落胆して、完全に萎えた。
こんなに頑張ったのに、結果は付いてこないのかと、些細だが絶望を知った。
「そんなに落ち込まないでください。元から早坂さんのテストの点は低い方で三十点以上取った事が無かったのに、今回はむしろ七十点以下がありません。そこを誇るべきです。」
真柴は言った。
しかし私は期待していた分、残念な気持ちが大きく、真柴の期待を裏切ってしまったような気分にもなっていた。
「では、罰ゲームですね。」
私を元気付けるためなのか、真柴は声のトーンをいつもより高くして話し出した。
切り替えた真柴に、私は釣られるように顔を上げた。
「確か、何でも言う事を聞くって言う賭けでしたよね。」
真柴は腕を組んで堂々とした態度を取った。根暗な印象を与える大きな眼鏡のレンズが光で反射して白くなっている。
「"常識の範囲内で"だよ。」
私は真柴がどんな事を言って来るのか、想像が付かなかったので緊張した。
「三年生では今まで以上の点を取る事。」
真柴は人差し指を立てて、前に出した。
まるで子供に言い聞かせるように真柴は言う。
想定外の真柴らしい事に私は吹いて控えめに笑った。
真柴らしい。だけど心のどこかで、もっと面白いものを期待していた。与えられた特権を教師として使ってしまうなんて、つまらない。
「良いよ、分かった。」
私は笑って見せた。
真柴はその表面上の私の笑顔を信じたのか、楽しそうに笑った。
「また分からない所があったら聞きに来てください。勉強の事以外でも、話したい事があるなら僕で良ければ聞きます。」
真柴は言った。真柴は最後の言葉かのように言う。私はその時やっと気づいた。
私がテストで良い点を取ったから、もう真柴と放課後、この図書室で勉強を教えてもらう事はないのだ。
気づいた私は真柴を前にして内心動揺していた。すぐに口に出してしまいそうだった。"嫌だ、もっと先生と勉強したい"。だけどそれらの言葉は私のわがままで、私と真柴は、所詮教師と生徒、それ以外のわがままは許されなかった。真柴もそれを望んでいる。
「分かった。ありがとう先生。」
私は控えめに微笑んだ。
「あ、私、紅子を待たせてるの。じゃあね先生!」
私は明るい声で言うと、真柴の顔を見ずにそのまま背を向けて図書室を飛び出した。真柴は何も発しなかった。
マフラーを巻きながら廊下を歩いた。まるで夢から覚めたかのような気分だった。私はこの三ヶ月の間で、私の中の真柴は大きく変わっていて、距離が近くなっていた。年上の友達が出来たようで楽しかった。だからこそ、私は真柴に対して教師と生徒の枠組み以上のものを期待していた。良い点を取ったらご褒美をくれてもっと褒めてくれると思っていた。学校外にも会えるようになって、いつか真柴に私が作った料理ももっと食べて欲しいと思っていた。
無意識に期待していた気持ちは大きくなり、当然の立場というものを見失って、私はその場の気分に流されていた。
「あ、千尋!遅いよ~。何してたの?」
考えながら昇降口に行くと、そこには紅子が待っていた。
紅子は私の表情を見るなり、駆け寄ってきて顔を覗き込んできた。
「どうしたの?なんか暗いね。」
紅子は聞いてくる。
そんなに顔に出ていたのか。
勝手に期待して、勝手に傷ついて。真柴は教師だから私に対して勉強と将来の事しか興味がないはずなのに、私は何故、真柴をただの教師として見れていなかったのだろう。
「何でもないよ。行こう。」
私は笑って言った。
この春休みの間で忘れよう。些細な事なんだから、すぐに忘れられるし切り替えられる。真柴は教師で、私にとっての恩人って事を再認識しないといけない。春休みという時間は、距離を取るのにちょうど良い時間だった。
親が離婚してから四ヶ月が経とうとしている時、私は中学三年生に進学した。受験の時期で忙しい年になる事は間違いなかった。
私は散っていく桜の花びらを眺めながら、もう姿のない雪を探しながら歩いた。季節が変わるのは本当に早く、モノトーンの世界から、青や桃、緑の発色が生まれた。
「千尋ー!」
遠くから紅子が私を呼ぶ声が聞こえた。
いつだって短い春は、特別に感じた。
桜並木に囲まれた広い道路の上り坂。散っていく桜の花びらの中を登ると、学校が見える。すると私の視界には桃色の桜の花びらが散る中、他の生徒の中に真柴の姿を見つけた。紺色のスーツを着て、真柴は少し短くなった髪を揺らしていた。髪の動きに合わせて桜の花びらも舞う。
「真柴ぁーおはようー!」
紅子が手を挙げて真柴を呼んだ。
すると真柴はこちらに気がつき、こちらを見た。その目に私が映ると、視線が交わり、桃色の景色の中に私と真柴が立っていた。真柴の目はほんの一ヶ月前と変わっており、少し切ない目で私を見ていた。
私は心臓が握り締められたような、感覚が心臓の奥で起こり、お腹が痛くなった。
ほんの一ヶ月。その間に"久しぶり"という気持ちは私の中にはなかった。