第三話 思いっきり歌いたい
前回語った話しが有名な【グローリア礼拝堂破壊事件】の真相でございます。
ステンドグラスは全て割れ、一時は関係が拗れている蒼の国からの破壊工作では無いのかと噂が立ちましたが、カノン様のご両親が匿名でかなりの金額を聖歌隊に寄付いたしましたので、豪商か貴族が起こした何らかの事故ではないのか、という事で落ち着きました。
犯人かもしれないという少女の件についても、カノン様が辛うじて変装していた事が功を奏して特定されませんでした。
そうです、誰もこの事件がアンティフォナ家令嬢カノン様の所業だとは思っていなかったのです。
ですが……カノン様の所業とは誰も気づいてはいませんでしたが、この事件の犯人はのちのち明るみになります。
それはまだまだ先の話ですが、この次に起こす事件もまた、王都に住んでいる方々を一時的に恐怖に陥れてしまったのです。
まずはその王都を恐怖に陥れた事件の話をしなければならないでしょう。
ですが、決して悪い事だけでは無かったのです。
一時的に恐怖に陥れてしまっただけで、その後に王都全域が浄化されていると確認されています。
ええ、そうです、カノン様の声には体と同じように神の力が宿っていたのです。
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【グローリア礼拝堂破壊事件】から数日が立ち、カノンも落ち着いてきた頃に、王都内で蒼の国からの破壊工作が行われているのでは、という噂が流れた。
国の上層部では、寄付された金額を考えると破壊工作では無い、と判断されていたが王都に住んでいる民にとってはそんな事はわからない。
これは事故であると国が公表したが、あまり信じる人はいなかった。
人の気持ちが暗い方へと向かうと、それに呼応するかのようにアンデッドが姿を現す。
陰鬱な気持ちは、アンデッドにとっては糧と言えるからだ。
世界は全ての人にやさしくはなく、どこかで悲劇的な死を遂げる者は確実にいる。
だが、周囲の人や、家族が供養する事により浄化されるが、陰鬱な気が蔓延している王都は、浄化の力が効きにくくなっていた。
あまりの事態に聖歌隊に王都内で歌ってもらい、この陰鬱な空気を打破しようと国は躍起になっていたが、そんな事はカノンも私も知らなった。
「ねぇ、オクト」
「なんでしょう?」
勉強の合間の休憩中に、紅茶を飲みながらカノンが聞いてくる。
こちらに向き直り、話して良いものかと逡巡しながらもじもじしている。
可愛らしいが、どこかカノンらしくないので不安を覚えながら聞き返す。
「カノン様、どうしたのですか?」
こちらが更に聞くと、覚悟を決めた顔して口を開く。
「オクト! 私、おもいっきり声を出して歌いたい!」
「……何故ですか?」
「いつも抑えていたから分からなかったけど……礼拝堂でおもいっきり声を出した時に感じたの……気持ちがいいって、気分が晴れるって」
カノンにおもいっきり声を出したいと言われた時は、その気持ちをどう収めるかと考えが浮かんだが、話を聞いているとそれくらいは自由にさせてもいいのではないか、という気持ちが膨れ上がってくる。
だとしたらどこで歌を歌わせるかという問題を解決しなければならない。
「それにオクトは歌う事を手伝ってくれるっていったもん」
かわいらしい仕草で追撃をしてくる。
ほんとにカノンに甘いなとも思いながらも了承する。
「……そうですね、お供したいのですが、あの声量をこの屋敷で出されますと色々と外聞がありますから、適当な場所を考えますのでお待ちください」
「やった! じゃあ何を歌うか決めておくわね」
喜びながら紅茶を口元に持っていくカノンを見る。
いつもなら強引に庭やテラスで歌う、と言い出すのが普通だったが、声を張り上げる事の危険性を理解してくれているようだ。
あの事件は不幸な事故だったが、カノンと私達にとっては良かったのかもしれない。
カノンの成長を喜びながらも、ご両親と協議をしなければいけない、と心の中で肩を落とす。
その後、歌う曲を決めてカノンが歌う為の練習を開始する。
だが、屋敷で声を張り上げる事は出来ない為、あまり意味のない練習だったかもしれない。
全然上達しなかったからだ。
カノンが音痴な理由を強いて言うならば、鉄のこん棒を二本使い、箸を使う要領で豆粒を掴むようなものと言える。
声量も音域も広いカノンは、それほどの微調整をしなければ、まともな歌声を出すことが出来ないのだ。
だが一生懸命に歌うカノンに、【貴女は音痴で、誰も歌を聞きたいとは思っていません】なんてことは絶対に言えない。
カノン自身も歌が上手いとは思っていないだろう、上手いから歌う訳では無く、歌いたいから歌うのだと思う。
その後もカノンは歌う練習を欠かさず行っていた。
それを見ていたご両親が、せめてある程度聞ける歌にしてあげたいと言う親心により、特注のピアノ搭載馬車を作ってしまった。
カノンの技術ではアカペラで歌う事は難しく、聞くに堪えない歌になってしまったからだ。
親馬鹿だとも思うが、仕方が無いとも思える。
歌う場所は王都より出て少し山の方へと向かった、小高い丘の上に決まった。
本来なら窪地で歌ってもらいたいが、さすがにカノンの気分が落ち込みかねないので、小高い丘の上に決まった。
空が近くて歌うには気持ちのよさそうな場所で、きっとカノンも気に入るだろう。
問題がなければ土地を買い上げる予定さえも考えられていた。
王都とも結構な距離があり、少しくらいは歌声が聞こえるかもしれないが、微かだろうと軽く考えていた。
だが、私達がカノンの本気の声量を甘く考えていた事を後悔する事になる。
空は青く、雲は何処にも存在しない。
今日は快晴で、ピクニック日和だ、風は気持ちよく吹いているのか、木々がリズムを刻むように揺れている。
馬車に揺られながら、人がいないであろう森の中を進む。
やがて森を抜け、小高い丘が見えてくる。
「カノン様、あそこが歌う場所ですよ」
「思ったより良い場所ね。もっと窮屈な所で歌わせられると思ってたわ」
道中の陰鬱な森の中を走っていたので、一体どんな場所で歌わせられるのかと不安だったようだ。
森の中の光景は美しかったが、どこか陰鬱とした雰囲気をかもしだしていたからだ。
「……カノン様、ご両親も私もカノン様を抑えつけたいわけじゃないのです。平穏に生きて欲しいと本気で思っていますよ」
「……知ってる」
少しだけ気分が落ち込んでしまったのか、俯いてしまった。
今日は出来る限りカノンのストレスを排除したいと思っていたが、礼拝堂破壊事件が噂になっている事を小耳にはさんでしまった為に、少々ネガティブな思考に陥っているようだ。
「カノン様、元気を出してください。ふさぎ込んでいる顔なんて、私は見たくありませんよ」
「わかったわよ、ちょっと色々考えちゃっただけ」
「さあ、まずはお食事をしてから歌いましょう。その方が声が通りますから」
「そうなの?」
「ええ、適切な飲食が推奨されていますよ」
「ピクニックみたい」
「そうですよ、今日はピクニックと考えて行動しています。カノン様にとってはおもいっきり歌う事が目的だと思いますが」
「うん、今日はおもいっきり声を張り上げても良い日、素晴らしい日、だから【アメイジグ・グレイス】を歌うの」
「神の声があると知れ渡った時に有名になった古い曲ですね」
「結局、私に神の声が宿っているか分からなかったし、シンフォニアにぎゃふんって言わせられないけど、もうそんな事どうでもいい。思いっきり歌いたい!」
まだシンフォニアの事を考えていたのかと、若干苦笑いが出てしまう。
しかし、前向きになってくれるなら大歓迎だ。
「ふふっ、まずは丘に付いたらゆっくりいたしましょう」
「うん!」
元気が出てきたみたいで、カノンの顔は笑顔に満たされている。
そうでなければ、ご両親が苦心して用意した今日という日が浮かばれない。
場所の選定はかなり難航した。
王都周辺は民家や畑も多く有り、自領である辺境まで一度帰るかという所まで行ったが、それは時間が掛かりすぎると断念した。
では近郊で良い場所は無いかと、探させたところ見つかったのがこの場所だった。
民家も無く、周囲は森に囲まれている。
しかもその森は、起伏が激しいので開墾しにくく挙句にアンデッドが出る事もあり、半ば放置されていたので好都合だった。
やがて丘に着き、馬車を良い場所に停め、御者のマチに馬を連れて行ってもらう。
さすがにこの場に馬を置いておくわけにはいかない。
出来る限りこの丘から離れてもらい、二時間ほどしたら戻る様にお願いしてある。
簡易の机や椅子を馬車からだしハーブティーを淹れ、砂糖ではなくハチミツを使い味を調える。
軽食も準備しているので、ルンルン気分のカノンと一緒に食事をする。
やはり子供らしいカノンはかわいい、ちょくちょくわがまま令嬢になるのでそこが玉に瑕だ。
奥様のミアも来たがったていたのだが、やはりこの場にいるのはまずいかもしれないと言う事で却下された。
練習の時に歌を聞いていたので、そこまで落ち込んではいなかったが若干こちらに罪悪感がある。
やがてまったりと青い空を見ていたカノンが意を決して言う。
「私……歌うわ」
「では準備いたしますね」
馬車に搭載しているピアノを弾けるように組み立てる。
カノンが軽く歌いながら練習をしているので、こちらも調律されているかの確認の為にピアノを弾く。
ピアノの音を聞いているカノンが体を揺らしながら小さく歌っている。
このまま一気に行きたいところだが、こちらの準備がまだ終わっていない。
「カノン様、準備をいたしますのでピアノを止めますよ」
「わかったわ」
素直に聞いてくれるのでほっとしながら準備していた耳栓を耳に詰める。
そこからさらにイヤーマフをかぶり、耳を完全防備する。
カノンからすると、かなり失礼に見えるが、鼓膜が破れる可能性が高いので仕方が無い。
「カノン様、こちらは準備完了です」
【ちょっと試しに声を出すね】
机に置いてある紙に文字を書いて見せてくる。
完全防備なので、カノンからの声が聞こえないかもしれないと準備していたものだ。
カノンが大きく息を吸い込み大空に向かって叫ぶ。
「私の歌を聴きなさい!」
そう叫んだカノンの顔は少し紅潮しているのか、嬉しそうな顔をしながらこちらを見て笑ってくる。
こちらもなんだか嬉しくなり、ピアノで伴奏を開始する。
【アメイジング・グレイス】はアカペラで歌うのが普通だ。
伴奏も人の声で行う事が多いらしい、だがちゃんと色々な楽器の楽譜があり、歌の代わりにバイオリンが主でピアノで伴奏する事もある。
今回は、歌いやすいように前奏を長めにとってある。
長めの前奏でリズムを取りながらカノンの歌が始まる。
【アメイジング・グレイス(Amazing Grace)】
素晴らしき恩寵
何と美しい響きだろう
私のような者に神の声をくださりました
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださりました
今まで見えなかった神の声を今は見出すことができます
神の声こそが私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ってくれます
信じる事を始めたその時
神の声のなんと尊いことでしょう
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑がありました
私を救い導いてくれたのは他でもない神の声でした
神は私に約束してくれました
その御言葉は私の望みとなり私の盾となり私の一部となりました
命の続く限りこの心と体が朽ち果て
そして限りある命が止む時に
私はベールに包まれて喜びと安らぎの時を手に入れるのでしょう
やがて大地が雪のように解け太陽が輝くのをやめても
私を召された主は、永遠に私のものです
何万年経とうとも太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に、神の声で歌い讃え続けることでしょう
カノンの歌声で、体が震え、大気が震え、木々が震え、大地が震える。
それは比喩でも何でもなく、本当に震えている。
歌は酷いが、カノンから放たれる声は全身に響き、なぜか心地よく感じる。
きっと耳栓とイヤーマフが無ければ、そうそうに気絶していただろう。
それほどの声量で歌うカノン。
森の動物達はその声量のでかさに驚いたのか、鳥は飛び立ち、動物が音より遠くへと一斉に離れていく。
近くに居た動物は、昏倒し無防備に体を晒している。
完全に被害者……被害動物と言える。
だが、当の本人であるカノンの顔は明るく、体はピアノの伴奏と自分の歌に合わせ揺れている。
リズムにのって、歌を歌っている。
それ以上でも以下でもない、ただただ歌をおもいっきり歌っているだけだ。
今の所人に被害は無いが、動物は阿鼻叫喚の地獄真っ最中だろう。
だとしても、いったい誰がこの少女を責める事ができると言うのだろうか。
むしろそれは神を責める事と同位ではないだろうか。
やがて歌い終わり、カノンが頬を赤らめながらため息を吐く。
「気持ちがいい……全力を出すってこんなに気持ちが良い事だったんだ」
かすかに聞こえてくるカノンの声に、若干涙腺が緩くなったのか、涙が目じりに溜まってくる。
子供の頃から、手加減して生きる事を強いられたカノン。
運動に関しては、体を本気で動かすことなど全くできなかっただろう。
そう考えていると、どうしても涙が溢れてしまう。
「Amazing Grace」
言わずと知れた有名曲、よくアメリカ合衆国で歌われている聖歌(讃美歌)です。
さまざまな有名な歌手が、カバー曲として歌っているので、検索するだけでわんさか出てきます。
ちなみに聖歌と讃美歌の呼称の違いは、教派やグループの違いだけだそうです。
ですが「聖歌隊」という呼称は、共通のようです。