5話
まるで真冬の如く、熱を奪い身体の心まで凍えるような冷たい風が、屋根の上という遮蔽物のない場所ではそれこそ容赦なく吹き荒ぶ。空は分厚く黒い雲に覆われ、月も星も、その輝きの一部さえ見えない。
辺りを照らすのは、等間隔に並べられた街灯くらいのものだが、それも道路に向けて光を落とすだけなので屋根の上までは照らしてくれない。それでも俺が、数メートルは離れて立つケイトの姿をはっきりと捉えることが出来るのは、いったいどんな不思議現象なのだろうか。
そして、いまだに雪は降り続いていた。
「普通の……って、き、君はそんなことで里から逃げ出したのかい……?」
虚を突かれたのだろうか、ケイトは緊張した表情を崩し、唖然としてクロエに問いかける。
おそらく、俺の気分とケイトの気分は今に限って似たようなものなのだろうが、そんな中で、渦中であるクロエの表情は真剣そのものだ。恥じらいや気負いも全くない。
「そうだ。私は普通の、魔女ではない女の子として生きていくつもりだ」
「な、なんなんだそのふざけた理由は!」
「お前がふざけていると思おうが、私は至って真面目だ。価値観の相違というやつだな」
次第に語気が荒くなっていくケイト。
対照的にクロエの表情は変わらない。強い意志を感じさせる瞳で、目の前に立つケイトを見据えている。
「だから、私はお前と戦いたくなんてないし、傷つけるなど持っての外だ。普通の女の子というのは、誰とも戦わないものだろう?」
「だ、だが、それで死んでしまっては本末転倒というものだ! ならば、そんな生活など諦めて里に戻った方が君のためだと思わないのかい!」
ヒステリーを起こしたように捲くし立てるケイトだが、その言葉がクロエに届いているとは到底思えなかった。
「……そうか、分かったよ」
呟き、ケイトはゆっくりと、上げた手を下ろした。
一瞬、槍が飛んでくるかと思ったが、ケイトが手を下ろした瞬間、彼女の周りを浮遊していた槍は音を立てて爆ぜ雪に戻っていく。
諦めたのか、などという安易な幻想は、さきほどからの互いに一歩も退かない二人の論争からして有り得なそうだ。
ならば、どうしたのか。
嫌な予感がひしひしと俺の背中を這いずり回る。
「……はは」
うつむき表情の見えないケイトから漏れ聞こえた声。
「……何がおかしい。私は本気だぞ」
「ああ、それはもう、充分理解したよ。君は昔から頑固だったからね。それでも何とか心変わりさせられないかと、まあちょっと頑張ってみたんだけど、無駄だったみたいだ。だから……」
再び、猛烈な風が吹いた。
先程と同じように、ケイトを中心に大気が引き寄せられているかの如く、降り積もりつつある雪をも舞い上げて吹きすさぶ。
なんだ、こんどはなにが起こるんだ。
考えても、俺なんかには到底分かりそうもない。
まあ、分かるとすれば――
「絶対、やばいんだろうなあ」
「正成っ、私の後ろから離れるなよ!!」
やっぱり男らしいクロエの声。立つ瀬がねえぜ。
とはいえ怖いから、情けなくともクロエの背中から離れられない俺。うん、適材適所っていい言葉だよね。
「……最初からこうしておけばよかった」
吸い寄せられた大気の帯が、束になり、渦を巻く。
それはまさしく、アメリカによく発生している自然現象であるところの――
――竜巻、そのものだった。
普通、竜巻といえば天に向かうほどその半径を増していくものだが、目の前のそれは全くの逆で、地上のあらゆるものが空に吸い込まれていくかのような円錐状だ。
風に巻き込まれた雪の欠片から風の動きが分かることが、より一層、それの強大さをアピールしている。
「お、おいおい、なんていうか、反則じゃね?」
怖さを紛らわすためにか、つい口を継いでいた言葉も、風が紡ぎだす轟音に掻き消されて消えていく。
天を衝く、巨大な風の渦がケイトの姿を覆い隠す。
俺はクロエの後ろにいるためか、風の影響も強風程度にしか感じないが、クロエは台風など目じゃないほどの風圧を受けているんじゃないだろうか。
「くっ、ケイト! こんな規模の魔術は、里の許可がなければ使えないはずだろう!!」
「ああ、そのとおり。君ほどの魔女を連れて帰れ、なんて危険な任務なんだから、当然、全魔術の使用許可は下りているさ」
こんな強風と轟音の中でも、二人の会話はすぐ近くにいるように聞こえてくる。やはり、何か特別なことをしているのだろう。
「君が帰らないというのなら、私は君を力ずくで連れて行くことにするよ。ふふ、四肢でも落とせば、いくら君でもそう簡単に回復できないだろうからね」
竜巻はさらにその規模を増し――そして、信じられないことに、その天頂に位置する最も細くなっている部分が、まるで蛇のように蠢き鎌首をもたげた。
もちろん、その先にいるのは俺とクロエだ。
「あー、クロエさん。あれって、もしかして……」
「ああ、あれで私たちを貫いてから、風でズタズタに切り裂くんだ」
やっぱりねー。
「――行け」
その声が、俺には、閻魔大王の判決に聞こえた。
呼応し、鳴動する竜巻が、その巨大な身体をうねらせ迫る。
その速さは、とても俺が反応できる程度の速さではなかっただろうが、それが俺にはゆっくり写った。
これが、死ぬ寸前の映像がスローになる、というやつだろうか。
雪を纏って渦巻く風の塊が、まるで、それこそ岩盤を貫く掘削機のような威圧感。
掠るだけで、いや、近づくだけで、俺なんて八つ裂きにされる。
――そんな訳の分からないものに対して、クロエは左の手の平を向ける。
転瞬、視界が白に染まった。
まるで電動ノコギリが金属を削っているかのような音が鳴り響き、俺は咄嗟に耳を塞ぐも、その嫌悪感を催す音は手の平を貫通して脳を揺さぶる。
やばい、と思った。
あまりの音に、意識が遠くなる。
目を開いているのかいないのかそれすらも分からない白い光の中、ただ音だけが轟き渡る。
「はっ……ああっ!!」
俺の意識が遠ざかり、帰って来れなくなりそうになる寸前、バチン、と一際大きな破裂音が鳴ったかと思うと、視界を覆う光が消えうせ、鼓膜を叩く音も止んだ。
ふらふらと、地に足が着いていないかのように脳が揺れるのを感じながら、何とか我慢して俺は目を開いた。
写り込んだのは、先程と同じ場所に立って動かない二人。先程と違うのは、ケイトが肩で息をしているらしいということだけだ。
「……だから、言っただろう? 今の私には、お前では勝てないと」
「く、そっ……何故だ!」
もう既に限界だったのか、叫ぶと同時にがくりと、眉をしかめたケイトが方膝をつく。そんなケイトをみるクロエの視線は、やはりどこか悲しげで、もしここにクロエしかいなかったら、こいつは泣いているんじゃないだろうかと、そう思わざるを得ないほどに、クロエの目には力がなかった。
「双子の炎、だ。……ケイト、私は双子の炎を見つけたんだ」
チラリと横目で、クロエが俺を見た気がした。
「……なんだって? バカな。双子の炎なんて所詮、ただの御伽噺に過ぎない」
「違う、そうじゃない。双子の炎の話は、里が意図的に隠しているんだ。私のような、脱走者を出さないためにな」
ケイトが俯き、頭に乗せた帽子がひらりと落ちたが、彼女がそれを気にする気配はない。
「……世界にたった一人、自分と全く同じ魔力をもつ人間か。全く同じ魔力を持つもの同士が接触すれば、共鳴反応が起き、魔力が爆発的に増幅される。……とても信じられた話じゃない。だけど、能力的にはほとんど互角だったはずの君に、私の最高の術をこうもあっさり防がれてしまえば……もしかしたら、嘘じゃないのかもしれないね」
「……ケイト、退いてくれないか」
ケイトはふらふらと立ち上がると、自嘲的な笑みを見せた。
「君はまだまだ戦えそうなのに、私はもう魔力が無い。こんな状況でまだ突っ掛かって行くほど、私はバカではないよ」
「……そうか。ありがとう、ケイト」
「ふっ、勝者が礼を言わないで欲しいな。――それじゃあ、また会おう」
その言葉を最後に、ケイトは夜の闇に解けるように消えていった。
いつの間にか、空を覆う雲は消えていて、頭上には溢れんばかりに星が輝いている。風はもう冷たくはないし、凍死寸前だった身体ももうなんともない。
どうやら、終わったようだ。
夢を見ていたのか、それとも今も見ている最中なのか、そう考えた方が自然なくらいの不思議現象だった。度肝を抜くとはこのことだが、そんな一言で言い表してしまっては失礼に当たるんじゃないだろうか。
だが、俺がどう思おうとも、俺の目の前には、変わらずクロエが金の髪を風に揺らして沈鬱とした表情で立っていた。
「……すまなかった、正成」
先程と比べれば格段に暖かい風が、頬を撫ぜる。
クロエが何を謝りたいかといえば、そんなことは火を見るよりも明らかで、人の気持ちに関しては鈍感な方の俺としても分からないわけにはいかなかった。おそらくは、巻き込んでしまったと、言いたいのだろう。
確かに、非常に、物凄く、俺史上類を見ないほどに怖かったし、訳の分からないことの連続で未だに何が起きていたのか理解し切れていない。むしろ、混乱しすぎて逆に冷静になってる感もあるのだ。
だが、だからといって、俺がクロエに対して怒りを覚えるかといえば、はっきり言ってそれは別の話だ。
俺の今の気持ちを端的に表現してしまえば、それは、もしかしたら嬉しいに値するんじゃないだろうか。
何が起こったのか理解できていない。だから、まだクロエに対して怒りを覚えていない。……確かに、その可能性もかなりあるだろう。
だが、それは未来の話で、今は未来ではなく現在だ。だから俺は、俺にできる限り一番の笑顔を作った。
「ま、気にすんなって」
――結局のところ、俺は、二日前に俺の目の前で死にかけたあの女が、目の前で無事な姿を見せてくれていることが、何より、嬉しかったのだ。