2話
ぼんやりとした暗闇の中に、気付けば女は一人漂っていた。
記憶に混濁は見られず、意識を失う瞬間までも彼女はしっかりと覚えていたから、まず思ったことは、ここが天国なのか地獄なのかという疑問だ。
暗いということは地獄なのだろうか。しかし、話に聞く地獄というものはもっと凄惨なところらしいから、天国なのだろうか。
今、漂うことしか出来ない彼女に、その区別などつこうはずもなかった。
「……まあ、どっちでもいいか」
地獄だろうが天国だろうが、死んだという状況に変わりはなく、ならば、彼女にとってそんなことは些事に過ぎなかった。
しかし、あえて望むとしたならば、やはり、天国がいいなとも思ってしまうのは仕方のないことだろう。誰も、そんな彼女を責められはしまい。
「ん?」
そんなことを考えている折、唐突に、彼方に光点が現れた。
なんだと思い、女はその先を見ようと目を向ける。
光は、見れば見るほど大きくなっていくようだった。
初め、針の穴にしか見えなかった光は、やがてボールほどの大きさになり、楽に潜れそうな大きさになり……そして、最後には視界を覆い尽くすほどになっていく。
それはまるで、光が津波となって襲ってくるようで、女は為す術もなく光に呑まれていく。
ともすれば恐怖を感じよう光景にも、彼女は、なぜか全く恐怖を感じなかった。それどころか、心地の良い気分だ。
溢れてくる光は強烈で、それでいてどこか優しく、彼女を包み込んでいくようだった。
「……暖かい」
やがて、視界全てを白が埋め尽くす時、その言葉を最後に、女は意識を失った。
それでも光は止まず、彼女の身体さえも塗りつぶして行く。
その様子は、さながら、彼女を守り癒そうとする、光で出来た揺りかごであるようにも見えた。
▽
今の俺の心情を端的に表すとしたならば、たったの一言で足りるだろう。
「良かった……」
血まみれで倒れている女をアパートの前に見つけて、どうしようかと焦りに焦ったのが四十八時間前。今は布団の上に寝かせてある彼女の呼吸も落ち着き、素人目にも峠は越えたんじゃないかと思うほどに寝顔は穏やかだ。
ちなみに、救急車でも呼べばよかったんじゃないかと気付いたのは、ついさっきのことだった。
本当にバカだったとしか言いようがない。俺は、もう少しで死体を一つ作り上げてしまうところだったのだ。
だが、過程は最悪だったとはいえ、結果的にはもう大丈夫だろう。
俺は、医学のいの字も知らないただの一般人だが、なぜかそれだけは、妙な話だが絶対の自信を持って断言できた。もっとも、そんなものは俺が素人である以上根拠もない馬鹿げた妄想に過ぎないわけだが、そう思っていても、いま俺は心からの安堵を味わっている。
「う……」
二日以上に及ぶ看病……とも言えないようなお粗末なもので、心身ともに疲れきっていた俺は、胸を撫で下ろすと同時に去来した睡魔に身を任せようとしていたのだが、そのとき、頭の端で小さな呻き声を耳にした。
一瞬、それが何か理解できなかったが、気付くと同時に眠気も忘れて部屋の真ん中に敷いた布団に駆け寄る。
見れば彼女が、ゆっくりと目を開くところだった。
薄く開かれたまぶたの奥で、焦点の合わない瞳が虚空を見つめる。
その瞳は緑色で、髪の色と合わせると、ああこれが金髪碧眼って奴か、などと場違いな感想を持った。
「……こ、こは」
まだ意識がはっきりとしないのだろう、女はあらぬ所を見つめたまま呟く。それでもしばらく待ってやると、だんだんと目には光が灯り始め、やがて、その目が俺を見止めた。
女の目が一瞬大きく開かれる。
「だ、誰だ貴様……っ!」
「おい、まだ起きようとするなって! 怪我だって全然治ってないんだから!」
起き上がろうとする彼女の肩を抑え、再び寝かせようとする俺と、襲われるとでも勘違いしているのか、なんとか起き上がり逃げようとする彼女。そんな、意味のない争いは数分続き、唐突に、彼女が顔をしかめて蹲るという終わりを迎えた。
まだ怪我は治ってなどいなく、下手をすれば傷口が開きかねないというのに、そんな状態で動こうとすればそうなるに決まっている。
そうなった彼女の抵抗は弱く、俺は彼女の両肩を抑えてゆっくりと布団に下ろした。
「俺は高塚正成。んで、ここは俺の住んでるアパート」
再び混乱のないように、幸か不幸か大人しくなった彼女に言い聞かせる。彼女も、動かないほうがいい事に気付いたのか、首だけ俺のほうに向けてちゃんと聞いているようだ。
「二日前にな、あんたがここの目の前で倒れてたんだよ。まあ放っとくわけにも行かないから、運び込んで看病を……って、どうした?」
話を聞いているのかいないのか、俺の顔をじっと凝視する彼女。これだけ見られれば居心地も悪くなろうものだが、緑色の目に見据えられて、俺はなんとなく動けなくなってしまっていた。
「……ここは、あの世ではないのか?」
「は? あ、ああ、俺が死んでるんじゃなきゃこの世だろうけど」
「私は、今にも死んでしまいそうな怪我をしていたよな?」
「そうだな、右腕なんて千切れかかってたからな」
女は布団をめくり、その下にあった右腕を持ち上げる。
それを見た瞬間、俺は雷にでも打たれたかのような衝撃を受け、驚きを通り越して言葉が出ず、放心してしまいそうになった。絶句、というのはこういうことを指すのだろう。
――彼女の右腕は、僅かな傷を残すだけで、ほぼ元通りに繋がっていた。
「え、あ、それっ……た、確かに千切れて……っ!」
「うん、私も千切れかけていたと記憶している。でも、今ではこのとおりだ」
そんなびっくり人間も腰を抜かすような奇跡を目の当たりにして、彼女は少しも驚いた様子を見せなかった。それ見ていると、不思議と、俺の上がりに上がったテンションも落ち着きを見せ始める。
そんな、百面相をしているであろう俺とは違い、女は思案顔で、繋がった右腕を見つめたり撫でたり軽く叩いたりと何かを確かめているようだ。
「これは……まさか……」
どうやら、簡単に怪我が治ってしまったことについて、何か思うところがあるようだ。
「お前……正成とか言ったな」
「ああ、そうだけど」
「ちょっと手を出せ」
別に逆らう意味もない。俺は素直に彼女に向けて手を差し出した。
「……行くぞ」
ゆっくりと俺の手に近づいてくる彼女の手は、何かに緊張しているように小刻みに震えている。なんでそんなに緊張しているかなど全く見当もつかない俺は、黙ってことの経緯を見守っていたのだが、彼女の手が、ほんの少し俺の手に触れた瞬間――
――意識が、白に染まった。
指先から、何か得体の知れないものが怒涛の勢いで流れ込んでくる。
流れ込んだ何かは俺の中で出口を求めるように螺旋を描き、膨らんで、拡散して、縦横無尽に暴れまわる。
鼓動は心臓が耳の隣にあるかのように大きく、そして早鐘を打つ。
血液の循環が加速したかのように身体全体が燃えたような熱を帯びていく。
俺は俺の身体が内側からはじけ飛んでしまいそうな感覚を覚えた。
「なんだ、これ……っ!」
あまりの衝撃に飛びかける意識をなんとか繋いで、それだけを呟くことが出来たが、それでも身体を駆け巡る得体の知れない奔流はその速度を増し、蹂躙せんと咆哮をあげる。
「双子の炎……なるほど、怪我が早く治るわけだ……」
耳の端で、女が何か呟いたその瞬間、圧倒的な何かは唐突に消え失せた。どうやら、彼女が手を離したらしい。
身体は全くの普段どおりで……いや、なんだか肩凝りと二日間の完徹の疲れが取れているような気がするが、気のせいだろうか。
「な、なあ、今のは……」
「正成!!」
俺が今の超常現象のことを聞こうとした瞬間、女が俺の両肩を掴んだ。呆気に取られる俺だが、目の前にある彼女の緑の瞳はキラキラと喜色に輝いていた。
その目を前に、俺は言うべき言葉を失う。
「私はクロエ、クロエ・ハリウェルだ! これからよろしく頼むぞ!!」
俺は彼女……クロエのあまりの勢いに、再び、言葉をなくすのだった。