1話
夜の帳も下りて久しく、風が通る音だけが響く不気味なほどに静かな夜。一人の女が住宅街の路地をゆっくりと進んでいた。
半ば壁に身体を預け、足を引きずりながらもなんとか歩を進めていく女の姿は、命のともし火が消える寸前の儚さと、近づくもの全てを切り刻んでしまいそうな凄絶な空気を纏っている。
だが、その姿も、もう僅かもせずに崩れ落ちてしまいそうだった。
彼女は全身、血に塗れている。
それは、頭の先から赤い液体を被ったかのように、血塗れていない場所を探す方が難しいほどの有様だ。これが全て彼女の血であったならば、こうして動いていることが奇跡のようなもので、それでも、今すぐにでもその吐息が掻き消えてしまうだろうことは火を見るより明らかだった。
だがそんな状態であっても、彼女は足を止めようとはしない。
何かから逃げるように、或いはこの先にある何かを手に入れんと足掻くように、彼女は暗闇の中を睨み付け、半ば折れかかった足と、完全に折れてしまった足を懸命に動かす。
髪が壁に擦れるのも気にせず、右腕が半ばから裂け皮一枚でぶら下っているかのような状態である以上唯一まともに動く左腕で壁に沿って這うように、彼女は、ほんの僅かな距離を普段の数十倍の時間をかけて進んでいく。
「あ……」
嫌な、ともすれば生理的嫌悪感を催す音が小さく響いた。同時に、支えを失い傾ぐ身体。留まろうと力を入れた足は、先ほどの音で、両足ともに完全に折れてしまっていた。
思わず口から漏れた声も、穏やかな風に掻き消されるほどに脆弱。
完全に支えを失った彼女の身体は、僅かばかりの抵抗も見せずに地面に叩きつけられていた。
痛くはない。
既に痛覚は、彼女に何の情報も寄越すことはなくなっていた。
「……ち、く……しょう……っ!」
もはや、彼女の身体で、彼女の意思によって動く場所は、目と口くらいになっていた。
それでも、女は道の先、夜の闇によって覆い隠されたその先を睨みつける。
――ここまでか。
認めたくない心の声が、彼女の頭の中に響く。
追手は撒いた。こんな離れた場所まで来た。それなのに、これからだというのに、何故、こんなところで終わらねばならないのか。
憤る。
身体は、氷のように冷え切っているというのに、頭の中は燃え滾るように熱かった。
だが、感情だけはどうにもならないことが、世の中には数え切れないほどあることも、彼女は知っていた。
次第に、視界が黒に染まっていく。
思わず叫ぼうとして、もう、声が出なくなっていることに気付いた。
――ちくしょう!
ここまで来ても、彼女は諦め切れなかった。
昔の彼女の仲間がここを見ていれば、なんと往生際の悪いことかと嘆き悲しんだに違いない。
だが、いくら生き汚いと言われようとも、死しては為せないことがある。
なんのために、死ぬほどの危険を冒してここまで来たのか。なんのために、昔の仲間を傷つけてまで逃げてきたのか。
ここで命尽きるようなことになれば、それら全ては水泡に帰す。それだけは、そんなことだけは避けなければならない事態のはずだった。
だが、結果はこのとおりだ。
女は何も為せず、何も残さず、月が見下ろすだけのこんな場所で、未練に塗れたまま死んでいく。
薄れていく視界の中、彼女は酷い無力感に襲われていた。
結局、何もできなかったのだから。
閉じていく意識、濁っていく視界。
本当の終わりを目の当たりにして、女は初めて、死ぬのが怖いと感じた。
――何も感じられなくなる。
――何も与えられなくなる。
――何も出来なくなる。
「う、うわっ? お、おいっ、大丈夫か!!」
ふっ、と最後の火が消える瞬間、彼女は、何かを聞いた気がした。