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「先程まで、それが目の前におりましたので」
「いたか? そんなもの」
首を傾け訝し気に聞き返す九曜に、伊織はそれ以上何も答えられないと悟った。いや、答えても無駄だと悟ったのだ。すゞが自身を妖怪だと明かした時、目に写るものが周りの人間にも見えているとは思わぬように、と言っていたことを思い出した。見えない人間には、どれだけ言葉を尽くしても理解などされない。
伊織は背の高い草をかき分け火縄銃を拾い上げると、袖から取り出した脚絆と共に九曜へと手渡した。
「何だ、これは」
「九曜さんと合流する前に見つけたものです。おそらく山に入って行方知れずとなった猟師の中の誰かのものかと思われます。これだけでもこの山に起こっている危険を上へ十二分に伝えることができるでしょう。櫛松さんは自分が探して必ず連れて帰りますので、九曜さんはそれを持って先に山を下りてください」
伊織は常時通りに九曜へ説明しつつも、内心では常時以上に焦っていた。
今、この瞬間にも危険に晒されているかもしれない。自分の失言で命を落としてしまうかもしれない。それどころか肉の一片も残さず、彼の身内を悲しみのどん底に突き落としてしまうかもしれない。既に彼は息絶えてしまい、大蜘蛛はこちらへ戻ってきているかもしれない。
思考がどんどん悪い方へと転がってゆく。平静を装いながらも焦りがにじみ出てしまい、唇を噛んだり、指でふとももを叩いたりと忙しなく体のどこかが動いてしまう。
そんな伊織の様子を知ってか知らずか、九曜は渡された火縄銃と脚絆をじっくりと観察している。
「成程な」
一通り見終え何か得心がいったのか、そんな言葉を零す。
「では」
「だが、お前の提案を飲む気はない。私もお前と共に櫛松を探す」
「しかし、それでは我らが全滅した時、誰がこの山の危険を伝えるのですか」
「如何に危険と言えど逃げに徹すれば生きて戻る道もあるはずだ」
「ですが」
「花菱。私はお前の上官でお前に命ずることはあっても、お前に命ぜられる筋合はどこにもない筈だが」
「出過ぎたことを申しました」
九曜の強固な姿勢に結局は伊織が折れるしかなく、不本意であることを隠そうともせず、仕方なさそうに頭を下げた。
「では、二手に分かれて探すこととしよう」
「それでは櫛松さんを見つけ次第、速やかに呼子で知らせ合い、それ合図に麓で合流しましょう。危険と思ったら抗わず全力で逃げる、ということでよろしいですか?」
「そうだな」
話しているうちに冷静さを取り戻したらしく、伊織は落ち着いた様子で策を練る。大蜘蛛が見えずとも、これならばどうにかなるかもしれない。まずは生きてこの山を脱出することが先決である。
「では、お気を付けて」
お前もな。
九曜がそう返そうと口を開いたその時、森の奥からつんざくような男の悲鳴が二人の耳に届いた。聞き覚えのある声の質。おそらく声の主は、櫛松だろうと二人は直感する。
そして、声は大蜘蛛が姿を消した方角からであった。
お読みいただきありがとうございます。
本日、アップの前に小説情報が目に留まりました。
またまた、ブックマークが増えておりました。
本当にありがとうございます。心より感謝申し上げます。
大蜘蛛の代表格のような土蜘蛛。
歌川国芳の浮世絵が一番有名でしょうか。その他、妖怪の出てくる漫画や小説には高い確率で登場してきます。
土蜘蛛が何の揶揄かはさておき、死体を食べるや病を広める、といった話が多く語られているかと思います。
現在、アジア圏を中心に病が流行しております。売り場からマスクが消えたことがニュースに取り上げられるほど、影響力が計り知れません。
皆さま、体調管理は十二分に。
いつかこのコロナも妖怪になる日が来たり、するのでしょうか。




