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ゆりが座敷に顔を出した途端、兵衛の機嫌が一気に良くなる。表情も声の調子も一気に明るくなり、すぐに部屋の中へゆりを引き込み、自分の隣へ侍らせた。
ゆりが、きくとのすれ違い様に彼女を睨み付ける。自分の客に手を出さないように牽制したのだ。きくはそんなつもりはないと言いたげに、肩を竦めて視線を逸らした。
そんな飯盛女達の争いなど客には関係ない話だ。兵衛の隣に腰を下ろしたゆりは、兵衛の艶っぽい笑みを浮かべ兵衛の手に己の手を重ねた。既に酒が入っている兵衛はゆりが来たことにより更に気分を良くし、酒だ肴だと次々に胃袋へ納めていく。
いくら下り酒とは言え、量呑めば酔うのは当たり前の事。一刻もしない内に真っ赤な顔をした兵衛はゆりを伴って、襖で仕切られていただけのほの暗い隣室へと消えていく。ゆりは去り際、きくを見下す視線を残していった。
兵衛たちが部屋を去れば、一気に静けさを取り戻す。だが障子や襖越しに喧騒が聞こえ、完全な静寂とは程遠い。
「元気だなぁ、あいつは」
襖の隙間から漏れ聞こえてくる兵衛とゆりの声に、ずっと黙っていた伊織が呆れたように呟いた。
「それはそうと、花菱様。どうしてとんと来てくれなかったんだい?」
きくは伊織の膝に両手を添え、一気に顔を近づけた。口調も随分崩れている。しかし、伊織にそれを気にする様子はない。
「年明け前から辻斬りの一件があったのと、今日まで別の仕事を任されていたのもあって暇が無かった」
「仕事なら、仕方ないけど」
「あとは、新しく女中を雇ったのもあって、家の事が落ち着かなかったのもあるな」
「女中?」
事も無げに告げられた言葉にきくは引っ掛かり、おうむ返しをする。少し低めの声での問いかけだったにも関わらず伊織は、あぁ、と答えた。変わらず平然としている様子にきくは顔をしかめ、伊織の袖を強く引く。
「まさか、その女中に懸想した、何て事無いだろうね? 嫌ですよ。花菱様の口から他の女の話を聞くなんざ」
「お前まで言うか。俺にその気はない」
「なら、良いけど。でも」
「何だ? 妬いているのか?」
からかうように問いかければ、きくは自分の方へ引いていた袖から手を離す。自分の膝の上に両手を乗せ、一頻り逡巡したあと恥ずかしそうに小さく頷いた。俯いても隠しきれない頬は仄かに赤く染まり、視線は伊織を伺っては逸らされる。何とも頼りなさげに膝の上の手を組み換える様子に伊織はついに失笑した。
「そうか。それは男冥利に尽きるな」
伊織の笑い声にきくはますます顔を赤くし、肩を震わせる。泣いているのかと思い彼女の頬にそっと手を添え、顎まで滑らせるとそのまま顔を上げさせた。
「すまん。意地悪が過ぎたな」
額を擦り合わせながら謝れば、至近距離にあった潤んだ瞳が細められるのが見えた。顔を離せば、先程の事など無かったように屈託のない笑顔を向けられる。
随分な女子になったものだ。
以前のきくを思いだし、伊織は笑みをこぼした。
頬に添えていた手を離すと、きくは離れていく掌を名残惜しげに流し目で追う。持ったままになっていた猪口を膳へ置くと、そうだ、と二人の纏う雰囲気を変えた。
「面白い話をしてやろうか」
「そいつは楽しみだ。寝ちまうようなことはごめんだよ」
「いいだろう」
伊織は嬉しそうにするきくを残して立ち上ると、窓際に畳まれてあった布団の内、敷布団だけを足で広げた。乱暴に広げられた布団は部屋に対して平行ではない角度で、歪みもできている。きくはその間に部屋の真ん中にあった二人分の膳と座布団を端へ寄せた。布団の歪みを直した伊織はその上に腰を下ろすと、おいでと言うようにきくへ手を伸ばす。きくは黙って伊織の手を取る。そのまま引き寄せられたきくの体は伊織の膝の上のにすっぽりと収まった。
「そうだな。最近知り合った、爺の話だ」
伊織は嘘のような本当の妖怪の話を語り始めた。所詮は床での寝物語。きくは全く真に受けず、作り話として相槌を打つ。
油が差されなかった行灯はいつしか照明としての役目を終えた。月はようやく山辺から顔を出し、夜はさらに更けてゆく。
お読みいただきありがとうございます。
更新前に確認しておりましたら、ブックマークが増えておりました。
また、ユニーク数が1400を突破しておりました。
本当にありがとうございます。
ニュースを見ておりますと、明日からの三連休にまたしても台風が来襲するそうですね。
前回の台風、大雨などで被害を受けられた皆様が無事にこの三日間を乗り越えられることを心より願っております。
この作品を読まれ、被災された方々の辛さを一時でも紛らわせられれば、と思っております。
また、日常に疲れた方にとって、一時的な現実逃避になっていれば、幸いです。




