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老夫が思い出したように、のぅ、と伊織に問いかけた。
「お前さん、名は?」
「雲居藩奉行所同心、花菱伊織だ。あんたは」
「おや」
老夫の名を問おうとした時、何かに気付いたように言葉が挟まれる。次いで家の戸が勢いよく開けられた。入ってきたのは、田吾作夫婦。妻に腕を引かれ、引きずられそうになっている田吾作が後ろにいる。
「すみません、お待たせしてしまって。うちの人が他人様の家に行ったまま、帰りたがらなくって」
「いや」
伊織は構わないと言う風に返事をし、再び老夫に視線を戻す。老夫の姿はどこにもない。例の如く消えてしまったのだ。茶でも飲もうかと湯飲みを手に取り、違和感を感じる。普通こんなに軽いものか? 中を覗けば伊織の湯飲みの中身だけが空になっていた。仕方なく湯飲みを戻す。
田吾作が食卓を覗き込み、声をあげる。何事かと伊織と田吾作の妻が彼の方を見た。
「飯が減って、ない?」
「俺が見ていた限りでは下手人は現れなかった」
そう答えてやれば、二人は諸手を挙げて喜んだ。埃がたつのもお構いなしである。
一頻り喜んだ後、田吾作夫妻は伊織の手の前に三本指を揃えて頭を下げた。
「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げて良いのやら」
「いや、これもお役目故。では俺はこれで失礼する」
「ありがとうございます」
二人に深々と頭を下げられながら、伊織は田吾作の家を出た。すぐに奉行所に戻っても良かったが、万が一のことを考えて村を見て回る。あの老夫はどこにも入らなかったようで、どの家にも飯泥棒の被害は無い。
伊織はさっさと奉行所に戻ることにした。奉行所へ戻れば、事務仕事が待っている。とは言え、戻った頃には良い時間になってしまう。
書類にいくつか目を通しただけですぐ夕方になった。手早く片付け、門の前で待っている佐吉と連れ立って家路につく。老夫が既に来ており、帰りを待っているかもしれない。伊織の足はいつもより少し早くなる。
家には誰もいない。老夫はまだ来ていないようだった。
食事はすゞが来る前同様、佐吉が用意した。文句こそ言いはしないが、すゞの料理の腕には及ばない。昨日そんなことを言えば、
「百年以上料理している妖怪に、人間のあっしが敵う訳ないじゃありまんか」
と、佐吉は開き直った。確かにその通りである。それを言われては伊織も文句は言えない。
黙って佐吉と二人でとる夕げは静かなもので、食器の当たる音だけである。
「いやぁ、迷った迷った。すまんが儂にも飯をくれるか?」
何の前触れもなく伊織の傍らからした声に、二人の手が止まる。声のした場所には昼間の老夫が座っていた。誰かが入ってくるような気配も音も無かったはずである。
佐吉は驚きのあまり、持っていた箸を手からそのまま落としてしまった。
お読みいただきありがとうございました。
習慣というものは、恐ろしいものです。
二ヶ月以上残業が続いたある日、定時に帰ることができた日があったのですが、逆に何をしたらよいのか分からなくなりました。
残業をしなくともよい日を迎えたら、自分はどうすればよいのでしょうかね。
さて話は変わりますが、本日気が付いたのですが、ブックマーク数が増えておりました。また、評価ポイントも増えておりました。
本当にありがとうございます。閲覧数もそうですが、レスポンスがあるというのは嬉しいものですね。閲覧数やブックマークなどが増えているのを確認し、執筆の原動力にさせていただいております。
これからも日々精進してまいりたいと思います。




