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翌日になっても老夫のことが伊織の頭から離れない。疑問を抱えたまま、彼は再び鴨瀬村に来ていた。時刻はそろそろ昼げの支度をする頃である。
五兵衛の家には寄らず、伊織はまっすぐ田吾作の家を目指す。家の中は昨日のことが尾を引いているのか、随分と暗い。まるでお通夜である。
御免、と声を掛ければ、伊織にようやく気が付いたのか田吾作の嫁が出てきた。視線は落ち、暗い雰囲気が滲み出ている。
「これは、昨日の」
「すまんが、ここで張り込ませてもらえないか? これ以上お前たちに被害があるのは酷だろう」
「ありがとうございます」
伊織は家に快く上げて貰った。伊織が腰を下ろせば目の前にお茶が出される。
「粗茶ですが」
「戴こう」
田吾作の嫁は伊織をそのままに昼げの支度を再開した。その間伊織は卓袱台の前へどっかりと座り、腕を組んだまま微動だにしない。
程なくして空腹を誘う香りが漂ってきて、静かに待っていた伊織の鼻腔を擽る。
「お役人様もご一緒にいかがでしょうか?」
「いや、遠慮しておこう。ただでさえ何者かに飯を盗まれているのだ。俺が相伴に預かっては、申し訳が立たん」
「そうですか」
そう断れば、伊織の目の前に二人分の食事が置かれた。並べられたのは昨日とそう変わらない内容。煮物と汁物、香物、ご飯。簡単なものであるが、香りだけで伊織の口の中に唾液が溢れてくる。しかし顔には出さず、深く息を吸い込むだけに留めた。
「旦那を呼んで参ります」
そう断って、田吾作の嫁は家を出た。家には伊織一人が残される。静かな中、変わらず腕を組んだ体勢のまま動かない。伊織の思考は未だ彼を捉えて離さない、老夫の事へ向いていた。
このまま張り込んでいれば、あの老夫は現れるだろう。見付かったことを警戒してすぐには現れないかもしれないが、数日の内に現れるだろう。あの老夫はこの家の飯を気に入っているのは、頻度から窺える。
「お侍さん、何を待っておられるので?」
「決まっている。飯泥棒だ」
「それはご苦労様で」
伊織が食い気味に答えれば呑気な声が返ってくる。今更何を聞いてくるのか、と呆れて、伊織はふと疑問に思った。
今、この家には己一人。他には誰もいない筈。なら、今の声は誰のものだ?
慌てて声の方を向けば、昨日この家に現れた、あの老夫がにやにやと笑いながら伊織を見上げていた。
老夫は近くでよく見れば、何とも不思議な姿である。骨と皮だけのように見えて矍鑠としており、若人程でないにしても肉もついている。座高は伊織よりも低いが、背筋が曲がっているという訳でもない。頭に髪はほとんど残っていないが、後頭部が僅かに張り出し奇形だ。飯を盗んでいる割に、身形は悪くない。地味ではあるが、仕立ては良い。少なくとも食うに困っている人間の格好ではない。
伊織が老夫を観察していると嬉しそうに、あぁやっぱり、と広角を上げる。
「目が合ってる。しっかり返事もしていたし、どうやら本当に見えとるようだね」
老夫はカラカラと笑いだす。伊織は老夫の言葉で更に訳が分からなくなっていた。
何を言っているんだ、このじじい。
内心そんな悪態をついていた。それは顔にも出ており、眉間に皺を寄せて訝しげに老夫を見下ろしていた。老夫は伊織の思っていることを察していたが、気にも止めない。至極嬉しそうに彼を見るだけであった。
「妖怪になら何度か会ったが、この藩で見えとる人間に会ったのは、お侍さんが初めてだ」
お読みいただきありがとうございます。
先日、自分が推しているとある作家の新作の文庫が発売したので、早速買いましたが、未だに一頁も読めていません。それどころか手を付けていない本が十冊以上溜まっています。
取り合えず仕事の所為だと自分に言い訳していますが、仕事に必要な本すらまともに読破していない時点で、自分は相当に積んでいるのではないかと嘆く日々です。
どなたか速読の方法をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授願いたいです。
さて、話は変わりますが、更新前にこの作品のブックマークが増えていることに気が付きました。
心より感謝申し上げます。
これからも何卒ご贔屓いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。




