8-(1)
「それでは、そろそろお暇致します」
「そうか。また」
いつでも来い、と続けようとした伊織の言葉が止まる。豆助の背後から砂を踏み締める音がしたのだ。伊織の視線が豆助の後方に向けられ、豆助もそれに気づいて視線を後に向けた。
庭にいたのは一人の男。年の頃は二十と少しといった好青年の風体で、商人が好む小銀杏髷を結っている。男は見られているのに気がつくと一度頭を下げ、二人の方に近づいてきた。
「こちら、花菱様のお宅にお間違いありませんでしょうか?」
「如何にも。我が家は花菱家に相違ない。分家筋に当たるがな」
「おや、坊じゃないですか」
男の正体に気付いたのか声を弾ませる豆助に、知り合いか、と伊織は尋ねた。豆助はへい、と伊織の方に向き直る。
「すゞさんの幼馴染みです」
「そうか」
男は豆助が紹介しても伊織を上から下まで舐めるように見て、挨拶をしない。何往復かして満足したのか、漸く頭を下げた。
「挨拶が遅れまして申し訳ありません。こちらに女中奉公に上がらせていただいております、すゞの幼馴染みの染五郎と申します」
「そうか。立ち話もなんだ、上がれ」
伊織は体を半分退き、染五郎を中に誘う。染五郎は一礼してから土間に踏み込んだ。
「では、私はこれにて失礼致します」
豆助は深々と頭を下げる。伊織は斜めにしていた体を真っ直ぐ豆助に向けた。
「あぁ。また来てくれ」
「はい。今後ともよろしくお願いいたします」
豆助は編笠を被ると、竹垣の戸から出ていった。いつ消えるのかと楽しみに後ろ姿を眺めていた伊織だが、普通に立ち去っていく豆助に少し残念そうに勝手口の戸を閉めた。
板間では染五郎が伊織が上がってくるのを待っていた。伊織は草履を脱ごうと足元を見る。染五郎が履いていたであろう草鞋は土にまみれて汚れていた。伊織は視線を染五郎の足元に向ける。しかし、彼の足は拭いた跡があった。板間に自分も上がった伊織は彼を客間へと案内した。
染五郎を客間に待たせ、伊織は茶を入れに賄い場に戻る。だが茶を入れる手間を惜しみ、湯を沸かすだけ沸かして、結局二つの湯飲みに白湯を注いだ。
「白湯ですまんな」
「いえ。お武家様に入れていただくなど、こちらがお詫びするところにございます」
客間にて礼儀正しく待っていた染五郎の前に詫びながらも湯飲みを置けば、逆に伊織が謝られた。伊織は上座に座ると、盆から湯飲みを下ろさずにそのまま口へ持っていった。
「して、用向きはすゞにか?」
伊織が尋ねれば、染五郎は飲もうと手に取った湯飲みをまた茶托に戻し、横へずらした。両の手を正面に並べて置き、上体を少し倒す。しかし顔は真っ直ぐ伊織に向いていた。
「はい。本日はすゞを引き取りに参りました」
お読みいただきありがとうございます。
新キャラの染五郎ですが、江戸時代に実在した歌舞伎役者・市川染五郎とは、一切関係ありません。そして、梨園とも関係ありません。
まあ、自分の頭の片隅に十代目松本幸四郎の姿が無かった、とは言いきれませんが。




