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えんのことは一先ず良い。このまま過ごしていれば、さした障りもなく臨月を迎えるだろう。
問題は牛鬼である。時折翁があちらの進捗を確認し、こちらのことを誤魔化してくれているが、それもいつまでもつのか分からない。明日この家を襲ってきてもおかしくはないのだ。
その前にすゞが獣の勘で異変に気付くだろう。もしくはご機嫌伺いをしている翁が彼らの動きを察するだろう。
件が生まれるその日まで油断はできない。
しかし今の時点において伊織にできることは取り立てて存在せず、こうして彼女の様子を眺めているしかなかった。えんには、それで充分です、と言われている。
「こうして村を離れ、日の下で普通に過ごすことができるのは、あの時花菱様が私を雇ってくださったからです」
すゞにも翁にも賛同された。それができるのは伊織しかいない、と。
確かにこの中で唯一立場ある存在だが、それでも目に見えて何かできないことがもどかしく伊織は感じていた。
「久し振りに先生の所に顔でも出すか」
伊織はそう独り言ちると部屋に戻り、箪笥にしまい込んでいた道着を引っ張り出した。仕事の忙しさにかまけて、これを日の下に出すのはいつ振りかさえ思い出せない。
「飯を食ったら少し出る」
食事ができたと声を掛けられ、膳の前に腰を下ろした時、伊織はすゞたちにそう告げる。突然の外出の知らせに、彼女たちは驚いて、はぁ、と気の抜けたような返事をするのが精一杯だった。
夜番の月の時は大抵仕事までゆっくり過ごしているのが伊織の常だった。もし外出するにしても、その日思い立って出掛けることはほとんどない。
元々の約束もなく外出を告げるなどえんが来てからは一度も無かった。
「どちらへお出掛けでございますか?」
「剣の先生の所へな」
「お主、剣の師などおったのか」
突然伊織の目の前に現れた翁が膳の中身をつまみながら尋ねてきた。糠漬けの大根が翁の口の中に消え、小気味良い音を立てる。
「別に特別師事していた訳じゃない。この辺で剣を習うと言えば一刀流の笹舟道場か俺の学んでいた穂長道場のどちらかだ。俺はたまたま穂長道場というだけで、習うのはどちらでも良かったんだがな」
「では、何故そちらで学ばれていたのですか?」
「親父が勝手に決めて勝手に放り込んだだけだ」
兵衛と初めて会ったのも道場だったなど思い出す。無理やり通わされてはいたが、剣の腕は今に活きているし、そこでの出会いも大事なものになっているのだから、父親には少しくらい感謝しなければと思う。勿論嫌々通っていたことに変わりはないが。
「お主とは似ておるような、おらぬような父親じゃのぉ」
「似てないだろう」
「いえいえ、人に無理強いなさる時は似ておりますよ」
伊織が苦い顔で否定していると、外から入ってきた佐吉が口を挿む。
「佐吉、お前は親父に会ったことないだろうが」
「ご自身の考えを曲げないところはお母上にそっくりかと」
「やめろ、あの二人になど似たくもない」
一段低い声で吐き捨て、伊織は膳の上のものを一気に掻きこんだ。
「いざという時の為に今一度己の剣を見てもらおうと思って行くだけだ。これ以上己の身も護れないような様は見せられないからな」
わざとらしく道場に行く理由を告げて先程までの話を逸らす。道着を肩に掛けてそそくさと家を出て行った。
誰もが見送りの言葉を忘れたが、佐吉に、これ以上余計なことは言うなよ、と釘を刺すのを伊織は忘れなかった。
お読みいただきありがとうございます。
新年明けましておめでとうございます。
皆様と新しい年を迎えられましたことを嬉しく思います。
本年も御贔屓お引き立ての程、お願い申し上げます。
そう臆面もなく申し上げたいところではございますが、正月一日から衝撃的なニュースが立て続き飛び込んできましたことから、諸手を挙げて慶ぶとはいかないように思えて仕方がありません。
令和六年能登半島地震、羽田空港での航空機事故。
今年一年がどんな年になるのか、と案じずにはいられない幕開けとなりました。
被災、被害に遭われました皆様に心からお見舞い申し上げます。




