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「まぁ、現世に馴染んでいるお前さんだからこそ頼もうと思ったのだがな」
独り言ちたような牛鬼の言葉に翁は引っ掛かり片眉を上げる。言葉から察するに、彼の用事は現世に関わることらしい。
現世、人に関わることなど厄介な上に面倒なことなのは想像に難くない。その上、現世で牛鬼の命令を受けて動く妖怪が彼の下にいないことはなかった筈だ。
己が得るものは少なそうじゃの。
話を聞く前に翁はそう見切りをつけた。
それでもわざわざ山路を登ってこんなところにまで足を運んでやったのだから、酒の肴に聞いてやるくらいはしても良いか、とも思う。
「早よ言わんか」
「頼みというのはな、人を探して欲しいんだ」
「お主が人探しとは、何かの冗談か」
「いや、本気だ」
「これは、明日は嵐か槍でも降るのか?」
「俺が人を探すのがそんなにもおかしいか」
おかしいに決まっている。牛鬼が人に興味を示すなど、出会ってからこれまでの何百年、一度も無かったのに。暇すぎて頭がどうかしてしまったのか。
喉まで出かかったが、なんとか飲み込む。翁としてはなかなかに信じられない発言の連続だ。
何故、配下でもない己に頼る程の執着を見せているのか。
頼み事の内容よりも、牛鬼の動機に興味津々だった。
「そこまでして探したいというのは、どこの誰じゃ」
「さぁな。この山の麓の奴だとは思うが。あ、現世のな」
翁は言葉を失った。え! や、は? といった一音すら出てこない。
人を探しているとはおよそ思えないような発言だ。牛鬼が探しているのは個人ではなく、人という生き物ではないのかすら思えてくる。それなら尚のこと翁が探してやる必要性は低いだろう。
「それは、本当に探しておるのか?」
少し間を置いて翁の口から出たのは、そんな問いだった。そう尋ねたくなっても仕方ないだろう。
「探しているとも。だが、人はみな同じに見えて仕方ない。分かりやすく違ってくれれば良いものを」
「牛鬼には言われたくないじゃろ、人の方も」
人と顔の造形を同じくしている翁としては、牛鬼の方が余程見分けがつかない。体の大きさから頭である牛鬼は分かるが、それ以外などそれこそ皆同じに見えてしまうというというものだ。
「だが安心しろ。探し人は他と違って見つけ易いぞ、きっと」
「俄かには信じられんのぉ。何を以て斯様に言うのだ」
「そ奴、俺との子を孕んでおる。流れてなければ未だ身重の筈だ」
「流れてなければ、など、お主は」
牛鬼の選んだ言葉を咎めようとして、途中で気づく。今、牛鬼の奴はとんでもないことを言ったのではないか、と。
「『俺との子』?」
「お前ではないぞ」
「分かっておるわ」
念を押しても変わらない。牛鬼は確かに『俺との子』と口にした。つまり人に対して微塵の興味もないこの妖怪は人の女と交わったのだ。
「お主が人を嫁に、か。その上逃げられたとは。長く生きてみるものじゃのぉ」
「あぁ、違うぞ。嫁などではない」
「では、なんだ」
「しいて言えば、胎か」
お読みいただきありがとうございます。
さて、前々回に引き続き牛鬼の説明をしたいと思います。
牛鬼の姿の伝承は名前同様、複数存在しています。
頭が牛で体は鬼。その逆に頭が鬼で体は牛。更には体は土蜘蛛というものも存在します。最後に至っては牛の要素はどこへ行ったのだろう、と思わずにはいられません。
牛鬼の姿を描いた絵ですが、有名なものは三つほど挙げられるでしょう。
まずは江戸時代の妖怪絵といえばこの人、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の牛鬼。絵を文字で説明するのは難しいですが、頭は歯の鋭さや犬歯など生えてはいますが、割と牛寄り。植物に隠れて分かりにくいですが、足は四本。ただし蹄の代わりに鋭い爪が生えています。全身毛に覆われ、ふさふさのしっぽは肉食獣のようです。総合すると肉食獣化した牛、でしょうか。
二つ目は牛鬼の絵といえばよく見かける、江戸時代中期の絵師・佐脇嵩之の『百怪図巻』のうし鬼。鬼のような顔に蜘蛛のような体で、全身真っ黒で毛むくじゃら。頭に生えている角にわずかな牛らしさを残しています。不思議な点は、蜘蛛なのに足が六本なところでしょうか。
最後はやはり水木しげる大先生の牛鬼。水木しげるロードに設置されているブロンズ像は『石見の牛鬼』となっています。角川の『日本妖怪大事典』の牛鬼の挿絵は佐脇嵩之と同様の牛鬼です。違いを挙げるならば、あまり黒っぽくない点と、毛の少なさでしょうか。またこの絵の特徴として、牛鬼が海岸で人を襲っている、ということです。近くに船も見受けられるので、人間は漁師かもしれません。
他にも牛鬼を描いた絵は多くありますが、割と佐脇嵩之・水木しげる派が多数のようです。以前後書で挙げました『ぬらりひょんの孫』では、人と同じ姿で、黒髪ロン毛無精髭でした。
ちなみに本作での牛鬼は、『百怪図巻』のうし鬼をイメージしながら書いております。参考までに。




