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時は遡り、伊織が九曜、櫛松と共に河濃山の調査へ向かっていた頃。翁は一人、山路を登っていた。
山は人の間で信じられているように異なる世界へと繋がっている。人が知らずに異世へ迷い込むこともあれば、気まぐれに妖怪が現れることもある。それらが神隠しや妖怪の目撃談として語られるのだ。
逆に行き方さえ知っていれば異世とを行き来することも可能となる。
宇和山の、人の歩かないような獣道を歩く翁。だが、妖怪である彼も流石に中腹を越えた辺りで疲れが出始めた。
そもそも町を歩くような恰好で山登りなどしているのだから。当然と言えば当然だ。その辺に転がっている倒木に腰掛け、一息つきながら空を見上げる。
日は未だ高くはない。上手く事が運べば日のある内に伊織の家に帰れるだろう。
気乗りがしないながらも、翁は再び山奥へと足を進めた。
人の歩く山路を進み、獣道を通り、何物も通らないような場所を抜ける。
倒れかけた木の交わる間を潜った時、小さな違和感を覚えた。己のいる場所が歪んだような感覚。後ろを振り返ると、木々の間に先程まで歩いてきた痕跡がどこにも無い。
どうやら無事異世に入ることができたようだ。
山の奥の方から、それまで聞こえてこなかった笑い声や物音が届いてくる。気配も一つ二つどころではない。
異世に抜けただけでなく、翁は友のいる山へ無事に移動することができたらしい。
翁が躊躇いなく声のする方へ行くと、木々の間、開けた場所に多くの牛鬼が文字通り犇めきあっていた。
あちらこちらで小さな円座が組まれ、酒や肉などを囲んでいる。何の肉なのかまで翁は確認しなかった。したところで胸が悪くなること請け合いだろう。
円座の間を抜け、一段土が高くなっている所に、他の牛鬼と比べ一回り以上大きな図体をした牛鬼が悠然とその身を伏せていた。
蜘蛛のような前足へ器用に通い徳利の縄を引っ掛け、注ぎ口から直接その大きな口へ酒を流し込む。反対の前足は、未だ鮮血滴る生の肉が、速贄のように刺さっている。口の周りを己の体液と、他の液体でべとべとに汚しながら酒宴を楽しんでいた。
周りに控える牛鬼たちも似たような様子だ。牛鬼にとってこの食事風景はいつものものなのである。
そうと分かっていながらも、翁はこの光景があまり好きではなかった。単純に品の無い、汚らしい食べ方だと思っている。食べる物が相容れないのは、今に始まったことではない為、そこをどうこう言うつもりはもう無い。
「もう少し綺麗に食べられんのか、牛鬼」
上座に鎮座する牛鬼の目の前で呆れたようにそう言うと、翁は持っていた扇子ですぐそこにある額をぺしりと叩いた。
その小さな音に、その場は一瞬で凍りつく。それまで酒に任せて大騒ぎしていたとは思えない静けさである。木々ですら恐れをなしたように一切音を立てない。
叩かれた牛鬼は呆気に取られ、額に当たっている扇子からその持ち主を目で辿る。すぐ近くに立っている翁に、牛鬼はその時漸く気がついた。
「おぉ、翁か。久しいの。元気にしていたか」
「呼びつけたのはお主じゃろう、牛鬼。幾十年と会うておらん儂に何用じゃ」
翁は再びぴしりと扇子を打ちつけた。
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漸く牛鬼本人が登場しましたので、改めて牛鬼の説明をさせていただきます。
牛鬼は『牛鬼蛇神』という四字熟語が存在する程、割とメジャーな妖怪です。「牛鬼」という名称が残っている淵などもあります。
また、愛媛県宇和島市では『うわじま牛鬼まつり』が現在でも執り行われているようです。インターネットによると、昨年の7月にも開催されていたようです。
主な伝承地は近畿、中国、四国、九州と西日本が中心です。
呼び方も「うしおに」「ぎゅうき」「ごき」と複数存在しているようです。
地名や祭りにもみられるように、現在でもその存在は根強く残っているようです。
長くなりそうですので、牛鬼の説明はまた次回に持ち越させていただきます。




