41-(1)
口車に乗ってしまった、と伊織は少し前に己のした決断を早速後悔していた。目の前の翁は、それは満足気な笑顔を彼へ向けている。
「端からそのつもりで頼まれ屋なんて言い出したな」
「その腹積もりが無かった、とは言わん。しかし、お主を思っても、多少はあったぞ」
「そんなもん、小指の爪の先程度だろ」
伊織は片手で額を覆い、天井を仰ぐ。結局、一番の利を得たのは翁らしい。この愉快犯まがいの妖怪が己以上に他者を慮るなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。そんな分かり切ったことを今更思い出し、盛大にため息を吐いた。
「何を言う。お主の預かり知らぬところで妖怪の頼まれ屋にされるより幾分も良いじゃろう。儂の頼み事だけ聞いておっても、お主が今後辿る道は変わらんかったと思うぞ。前もって心積もりさせてやった儂の優しさが分からんか」
「勝手にされるよりはましだ。が、何か良いように利用された気がするのが気に入らないって話だ」
「そんなもの、些末な事じゃろ。子細無いわ」
「勝手に決めるな」
からからと笑う翁と、それに威嚇する獣のように牙を剥く伊織。このまま喧嘩に発展するのでは、と思ったすゞは慌てて二人の間に入って酒を注いだ。
「翁様の事の運び方はともかく、予め妖怪との間に取り決めがあるのは悪いことではないと思います」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
「頼まれ屋として翁様の頼み事を聞かれるのですから、せいぜい吹っ掛けてしまわれれば良いのです」
そう言ったすゞは稀に見る、とても良い笑顔をしていた。あまりに嬉々というものだから、伊織もつられて笑みが零れる。苛立ちなどどこかに霧散していた。
「当人目の前に言うか?」
伊織の呆れたような言葉にすゞははっとし、翁に青くなった顔を向けた。翁は笑みを浮かべたままひらひらと手を振っている。失言を怒ってはいないらしい。
奇しくもすゞの失言でその場は一気に和らいだ。元々翁と伊織の言い合いは珍しくもなく、しても翁にいなされ伊織が呆れるのが常だ。今回は多少熱が入ってしまっていたが、二人の間ではその範疇にあった。放っておいても鎮火はしたが、すゞのお蔭で早まったのは本当のところだろう。
「まぁ、そうだな。開業祝だ。話の内容にもよるが、吹っ掛けさせてもらおう」
「普通は逆じゃろ。勉強してくれんか」
「自業自得だな」
伊織には鼻で笑われ、翁は肩を竦める。すゞは再び喧嘩にならないか、とおろおろしているが、二人の表情は先程と比べれば随分緩い。すゞはほっと息をつく。
場が落ち着いたのを見計らい、翁が仕切り直すようにわざとらしい咳払いをした。二人の視線が翁へと集まる。
すっと半眼に開かれた翁の目は真剣さを過分に含んでいた。
「頼み事というのはな、人を探してほしいんじゃ」
「人探し? 妖怪がか?」
「そうじゃ」
「で、名前や人相、年の頃は?」
「分からん」
「は?」
人探しをしているとは思えない言葉に、伊織の口からは気の抜けた声が零れた。
お読みいただきありがとうございます。
今年に入って、初めて遅れることなく更新できました。
ここまでの二回が異常だったのですが、二度も続くとある種の感動を覚えてしまいます。
個人的な話ではありますが、先日恩師を訪ねて数年ぶりに母校へ行きました。
コロナ禍になって初めて大学のキャンパスを訪れたのですが、感染対策の為に自分が在学中に一度もしたことの無い入退校時の学生証の読み取りを見かけました。その他にも、検温や消毒など様々な対策が行われておりました。
ニュースや人からの話では何となく知ってはいましたが、大学も大変なんだな、と直に感じました。
そういうものを目にする度、早く元に戻らないかな、と思う日々です。




