表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

制服

作者: 隘路樹

 制服の裾についた染みが、気になって仕方がない。いつの間にか付いていた。気になりはするが落とす気にもならない。いつぞやも、チョークの粉でも拭いたか、ガードレールに擦ったかなどと考えることもあったが、どうにも記憶がない。気にし、気にせず、視界の端に捉えなくなってからも随分と経った。もはや気にする必要もない。しかしどこか靄が残る。ふと思い出しては、制服を引っ張り出し、矯めつ眇めつ眺めている。長くはかからない。数分眺めると何故こんなことをしたのか、不思議になるくらいあっさりと興味がなくなるのだ。時間を無駄にしたなどと取り留めのないことを考えて制服を丁寧にクローゼットにしまう。そうしてまた現実に戻る。クローゼットにはそれなりに思い出のあるものが残っている。何度も着てすっかり草臥れてしまったスーツ、片手で事足りるほどしか着なかった喪服、母親の着物、祖母の着物。それらにどんなに思い出が詰まっていようと、引っ張り出してまで思いに耽けることはない。ある時、それらの服をひっくり返して汚れでも付いていないか徹底的に調べたことがある。どれほど時間がかかっただろう。襟から袖から裾から細部に至るまで徹底的に洗い直した。どれもこれも汚れという汚れが発見された。一着につき少なくとも一つは汚れが見つかったのだ。だが制服の染みほどの興味を引くものは終ぞ現れることはなかった。どの汚れも気になるものばかりだった。当然だ。スーツや着物ばかりだ。気にならないというのも変な話だ。どれもこれも目立ったり目立たなかったりと統一性もない。それでも確かにそこにあるのだ。それでも、通常気になるようなものも制服の前には偏に風の前の塵に同じだった。まるで気にならなかった。目の前にそれがあっても制服の裾の汚れが頭の片隅から離れることはなかった。

 思い返すは2年前、もう何度目になるかわからないが、例の汚れが脳裏をかすめたとき、ふと思いたった、そろそろこの問題にも決着をつけなければならないと。決意にも近い想いを持った。過去に何度も終止符を打たなければならないと思うことはあったが、ここまで決心が付いたことはなかった。短絡的にクリーニングに出そうと思った。家の外でそう思った。この感覚は必ず家に帰るまで継続する。それでやらなければならないことに支障が出るほど、影響があるわけではないが、気持ちは薄れることなく家に帰るまで保たれる。家に帰れば、手を洗い、うがいをし、部屋着に着替え、いざと気合を入れ戸を開く。定期的に発作ともいうべき制服の汚れ問題で開かれるクローゼットは、恐らく他の家庭よりも埃の始末が付いていた。マスクを付ける手間さえ惜しんで制服を引き抜く。まず下衣。こちらには特に見られない。汚れは当然に見られるが、所謂塵である。すぐに上衣。上衣にはもはや語るに及ばず、一際目を引く、注目の的ともいうべきものが眼前にはあった。 平然とそれは模様のように、それはすれ違う人のように、あるいは本に挟む栞のように、まさか胡乱な点などあるはずもなく、元来傾注する必要もない。それでも見ればまたも思い返すことがある。何度も何度も、気にしては引っ張り出し、見れば思い返す。そこまで過去を省察する趣味はないが、追想されるなら仕方がないのだ。この時は嫌に強く、深く、不愉快になる程、鮮明に蘇った。何も不自然なことのない、新鮮で美しい艶やかな記憶。

 思い出はない。わざわざ追懐するようなこともない。追蹤する必要は本来ない。自分の意思で行ったことはない。かつてそれを着ていた頃、致命的に忘れ去った記憶。年末も年末大晦日。家の大掃除の中、学校に捨てても良いものを残していたことを思い出し、休みの中、制服を羽織り学校へ赴いた。学校に連絡をするとどうしてか担任に繋がった。彼の言によると

「ああ、ちょっと忘れてたことがあってな、終わらせてるんだ。裏門なら開けてるから、入って来ていいよ。来たら一応僕のところまで来てくれるかな」

まだ慣れている教員でよかった。頭の固い他の人間だったら、また面倒なことになるところだ。年も越してしまう、忘れ物は出来れば無くしておきたかった。学校に着くとやはり裏門は開いている。裏門からは校舎まで少し離れている。校庭を半分抜け、体育館を過ぎると所属のクラスが入る校舎に繋がる。少々遠い。体育館は広さを持て余し、嫌に閑散としていた。体育館の側を過ぎると、なにやら会話が聞こえる。男女2人の声、どうやら告白らしい。彼らも忘れ物を取りに来たのだろうか。そんなことを思った気がする。まるで見当違いだ。彼らは、いや彼女は、あの年に気持ちを忘れに来たのだ。今も過去も盗聞や横恋慕は趣味じゃない。気にせずに過ぎる。一つ目の汚れだ。職員室に寄り、担任に挨拶をする。

「おお、来たか。見てくれ、僕1人だ。この広くも狭くもない職員室に僕1人だ。愉快だろ」

言っている意味がわからなかった。相当に疲れているんだと思った。「そうですねえ」

「良いものが見れただろう」

見当がつかなかった。この職員室のことだろうと思い「ええ、なかなか見ないですね」と答えた。教員は歩み寄り

「そうだろう。忘れ物だったか、ほら鍵、教室でいいんだよな」

「はい、ありがとうございます」

「さっさと取ってこい。早くしないと来年から来てしまうぞ」

「そうですね。では早く済ませてしまいますよ」

そう言って職員室を出た。来年から来るというのはなんとも彼らしい表現だった。教室まで行き忘れ物をとる。これだ。忘れていたのは。これを取りに来たんだ。教室の鍵を閉め、職員室に戻る。

「見つかったか」

短く「はい」とだけ答える。確かに見つかっている。これ以外に言葉はいらない。

「そうか、それは良かった。もう忘れないようにな。今回は僕が居たけど、次は入れるかわからないよ」

「はい」とまた短く答えた。

「そう返事だけだと叱っているみたいだな」

ああ、こういう人だった。疲れてはいるだろうが知っているままだ。「いえ、そんなつもりは。忘れ物はちゃんとありましたよ」

「そうか、良かった良かった。もうここには何もないか」

少し目頭が痛んだ。「はい、もう何も」

「そうか、それは良かったな。もう帰るんだろ、気をつけて帰れよ」

「はい、ありがとうございます。それでは」

習慣で正門に向かってしまう。正門は開いている。振り返り裏門を目指す。二つ目の汚れだった。裏門から出ることが正しいことだと思った。再び体育館の側を通る。さっきのことが脳裏を過ぎり、体育館裏を覗く。そこには互いに俯く男女の姿があった。最悪の場面で来てしまった。手前の男はこちらには顔を見せることなく、そのまま立ち去ってしまう。立ち去ることで女の顔が明らかになった。クラスメイトだった。こちらと目が合う。その目から大粒の涙が止めどなく溢れ出した。それを見なかったようにその場を歩いて立ち去った。三つ目の汚れだ。

 学校を後にして家に帰る。ちょうどドラム缶にゴミを放り入れているところだった。

「ただいま」

 忘れ物を燃やした。その時の焼け焦げた灰の匂いが今も脳裏に焼き付いている。

 新鮮で美しい艶やかな記憶。細部に至るまで思い出さなければそんな表現をしてしまうことも無理はない。その2年前までは記憶が蘇っても綺麗に改変された、すっかりと洗われてしまった想像しか思い返すことが出来ていなかったのだから。ここまで深く回想したのはあのときで初めてだった。その記憶、その汚れに一切の勢いを殺されてしまった。クリーニングに出そうなんてとても言えないほどにはブレーキを掛けられてしまった。とてもじゃないが整理ができていない。忘れたままで良かったのかもしれない。時の彼方に捨ててしまえば時間を取られることもなかったのかもしれない。これからもその過去を頻繁に見つめなければならないのか、そう思うと途方に暮れてしまうが、それを考慮しても汚れを落とす気にはならなかった。

 予想と違って頻繁になることはなかった。寧ろ頻度は下がり、クローゼットにも埃が溜まっていることだろう。最近は実に順風満帆な生活を送っている。大きな幸せもないが深い悲しみもない。実に緩やかな平穏が、物干し竿に一面垂れ下がる掛け布団のように、だらりと続いているだけだった。風変わりなことのない日常は実に緩やかだ。もう何年も経ったんじゃないか、なんて1月しか経っていないのに思う時もあった。かつてのように一つのことで思い悩んでいた方が良かったなんて思える日も来た。時間の川に転がされていつしか丸みを帯びて来た。ふと、久々の感覚が今日襲った。気に障った等という訳ではない。ただ単に見たくなったのだ。母や祖母の着物や、未だに折り目まで綺麗に整っているだろう喪服と一緒に、自身の大過に溺れてみたくなったのだ。小型掃除機や粘着性の清掃用具まで用意し、マスクを着用し、戸を開ける。楽しみは最後にとっておく性分である。まず祖母の着物から取り出す、他にも色々と取り出して、母の着物、喪服と順々に取り出す。実に長い時間が経った。時間旅行とはこのことかと認識するほどに。最後に見たそれにはしっかりと残っていた。だが期待よりもあっさりとした反応になった。驚くほどに無関心になった。そろそろクリーニングかと、これもまた軽々しい決断だった。すぐさま袋に詰め、他の着物も一緒に店へと持っていった。

「着物2着と、制服が1着でよろしいですか」

「ええ」

「では、また洗い上がり次第お電話させていただきます」

「ええ、それでは」

制服の裾についた灰が気になって仕方がない。「全く制服というのは繊細なものだな」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 文字数が少なくてすぐ読める所 [気になる点] 句読点が多すぎる [一言] 話のオチがなくがっかりしました。他の作品も読んでみよう、という気には全くなりませんでした。
2021/09/04 07:00 退会済み
管理
[良い点] 美しい文で繋がれる、心残りの現れがステキでした。 [一言] ツイッターで自薦されておられましたので拝見させて頂きました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ