砂の城を抱きしめる幻想
優しいのは、嬉しい。
優しいのは、痛い。
ぢゅー、と行儀も悪く音を立てて、ストローを噛み締めながら中身を吸う。
お気に入りの喫茶店の一つ、アイボリーをメインに使った店内は、清潔感と落ち着きがある。
オススメのメニューは、ミックスジュース。
かく言うボクも、ミックスジュースを頼んで飲んでいる。
その日に仕入れた果物を数種類、注文が入った時に作られる新鮮が売りのミックスジュースだ。
美味しい、が、今は何となく味気ない。
「美味い?」
「……うん」
「そ」
ボックス席の目の前に座っている男は、小学生から付き合いのある幼馴染み。
片目を隠すように長く伸びた前髪は、今日も健在で、こちらから見て左目しか見えない。
深い青の瞳だ。
幼馴染みは、どうしようもなく端正な顔立ちをしており、もっと言えば容姿がとても良い。
羨ましいくらいに、羨まし過ぎるくらいに。
程良く焼けた肌も、目鼻立ちの整った顔も、癖のない艶のある髪も、スラリと伸びた手足も、しなやかな筋肉をまとう体も、実に羨ましい。
そんな羨ましい外見を持つ幼馴染みが飲んでいるのは、ミックスジュースではなく珈琲だった。
アイスではなく、ホット。
幼馴染みは珈琲党である。
「オミくん、大丈夫?」
「何が」
「ん」
ストローを咥えたまま、とつり、とボクは自分自身の左目を叩く。
幼馴染み――オミくんのことを言えないくらいに長い前髪だが、瞳はその隙間からしっかりと覗く。
オミくんは、ボクの左目を見て、目を細める。
ボクからすれば、左。
オミくんからすれば、右。
「いつの話をしてるんだ、お前は」
オミくんの隠された右目は、あくまでもボクから見たら右と言うだけで、オミくん本人からすれば、それは左目である。
ティーカップを丁寧にソーサーに置いたオミくんは、静かに長い前髪を掻き上げた。
隠されたその瞳が露わになる。
色素が薄くなり、濁りを見せているその瞳。
ストローを噛み締め、同じだけの力を込めて眉を寄せれば、前髪はハラハラと落とされる。
強い衝撃を受けたために、瞳の色が薄くなり、濁った。
視力がなくなったわけではない。
多少下がったものの、生活に支障はなかった。
「今は、高校二年生、だから……うん。三年前かな」
「分かってるなら聞くなよ」
「うん。そうだよね、うん」
中学二年生の時の話である。
オミくんのその目は、ボクのせいだった。
オミくん本人、更には他の幼馴染みからは、どう考えてもオミくんが悪い、と言われたが、良く分からない。
今でも、良く、分からないのだ。
***
中学二年生の梅雨入り前の話だ。
梅雨入り前なのに、既に空気がジトジトとして、湿気が多かった。
その頃から伸ばし気味だった前髪は、ぺったりと額に張り付いて鬱陶しいものだ。
「作間さん、でしたっけ」
今日は本屋にでも寄ろうか、それとも画材屋か。
そんな思考を掻き消すような厳しく硬い、全く聞き覚えのない声に目を細める。
聞き覚えのない声通り、見覚えのない顔だった。
人の顔と名前を覚えるのが苦手だったので、知ってる人でも知らない。
「どちら様、でしょうか」
昔から、端的な言葉を好んだ。
言葉遊びも好きだったが、生憎、見知らぬ他人相手にそんなことをする好き者ではない。
端的か、遊びか、両極端と言えば分かり易く、故に、だからこそ、相手の機嫌を損ねる。
見覚えのないその人は、女の子で、明るい髪の毛を複雑に結い上げていた。
オシャレに興味の無いボクには、その結い方がどんな名前なのか分からずに首を捻る。
しかし、その女の子の後ろには、更に数人の女の子。
これは所謂、集団リンチ。
産まれてこの方、ぼんやりとしていると言われる性分故か、気付いたら大通りから一本外れた場所に連れ込まれていた。
相手が男だったのならば、もう少ししっかりとしていた、と思いたい。
瞬きをすれば、何故か複雑な髪の女の子がボクの肩を押す。
「……えぇ、と。何?ですか」
ドッ、と鈍い音を立てて薄汚れた壁に背中を打つ。
眉を寄せながら放った言葉に、女の子達は揃って顔を歪める。
全体的に世間一般の女子中学生の可愛い、を詰めたような顔なのに、歪めば般若だ。
「オミくんがあなたを気にする理由が分からない」
あぁ……と気が遠くなる。
顔立ちの整った、体付きも良い男の子のオミくんは、女の子に非常にモテた。
年上、年下、同い年、そんなもの関係ない。
制服に付いたネームプレートの色が青なところを見ると、同じ学年だ。
ボクの胸元のそれも、青である。
「幼馴染み、だから、じゃないですかね」
「それが納得いかないって言ってるのよ!」
「幼馴染みだからって、オミくんにくっ付いてる必要ないじゃない!」
「付き合ってるわけでもないのに……」
更に気が遠くなる。
くるり、と世界が反転しそうになり、一度ぎゅう、と目を閉じた。
オミくん以外の幼馴染みも一緒だ。
基本的に何をするにも一緒で、クラスが同じだからこそ余計に一緒。
ボクだけじゃないよ、と首を振りたい。
確かに付き合ってもいない、男女間の距離感が近過ぎる幼馴染みである。
しかし、残念ながら男女のそれはない。
「……それにボク、オミくんのこと好きですけど、他の幼馴染みも好きですし」
幼馴染みは最早身内だ。
そういう意味を込めて、言ったのだが、言葉選びを間違えたらしい。
カッと赤くなる女の子の顔。
結い上げられた髪が立ち上がりそうなくらい、怒っている。
「アンタなんて……」
「あ、ちょ」
足を下げる。
壁に踵をぶつけた。
何故、彼女達の方の壁に、鉄パイプが立て掛けてあるのだろうか。
何故、女の子はそれを手に取るのか。
何故、鉄パイプを振りかぶるのか。
運動神経が悪いために、反射で避けられるはずもなく、壁に踵をカッカッカッと数回打ち付けた。
下がれるはずも、ないものの。
「つっ……――?」
踵を打ち付けながら、来る衝撃に目を閉じたが、数秒が数分に感じられ、何も無い。
眉を寄せたまま目を開けて、喉が鳴った。
変な呼吸でヒゥ、と。
背中を向けていても、見慣れていれば分かるものだ。
似合わない学ランを着て、女の子よりも厚みのある肩と、少し長い青みがかった黒髪。
ボクにぶつからなかった鉄パイプは、やはり振り下ろされており、それは、目の前の背中の持ち主が、その額に受けていた。
「あ……え」
「オミくん!」
カンカラカン、と高く軽い音を立てて鉄パイプが転がった。
今度は女の子が後退る。
「オミくん!オミくん!」
「うるせぇ」
前のめり気味の体を掴み、その顔を見た。
やはり見慣れた顔だ。
ダクダクと流れる鈍い赤色は、全く以て見慣れないものだったが。
幼少期、転んで怪我をしたことがある。
大きく擦り剥いた膝から流れた血とは、比べ物にならない量だ。
色々と情報過多だった。
女の子の良く分からない行動とか、突然現れた話題の本人とか、鉄パイプとか、血とか。
回る目のままに、オミくんの肩を抱きながら叫ぶ。
「オミくん!死なないで!!」
***
ストローから口を離し、窓の外に視線を投げた。
思い返してみれば、若い。
青臭いほどに、乳臭いほどに若く、テンパって醜態を晒した、と思う。
それは、あくまでも成長して、それを過去にしているから思うことなのだろうけれど。
「……嫌だなぁ」
何となしに呟いて、テーブルに額を打ち付けた。
頭皮が焼けるような視線が落ちてくる。
「何が」
首を捻って頭の向きを変える。
こちらを見下ろすオミくんは、特別表情を変えることはない。
ティーカップに口を付ける姿は、とても絵になった。
「ボクも抉るべきかと思って」
「……?何を」
「眼球」
息を吐く。
オミくんが、そこでやっと目を剥いた。
ボクは自分の手で瞼に触れる。
目を閉じてギョロギョロと動かせば、瞼からその感覚が伝わって気持ちが悪い。
ボクのせいじゃない、と皆が言う。
いまいちそれが理解出来ずに、三年の月日が経ち、過去のことと置き去りになった。
そのことも、気持ちが悪い。
理解出来ないことも、納得のいかないことも、気持ちが悪いのだ。
「片目、あげようか」
「……お前、近視に乱視のド近眼だろ」
「うん。裸眼で生活するなって言われてる」
それでも裸眼生活をしている。
一度、割ったのだ。
あの高価なド近眼と乱視を矯正するレンズを。
その時の母の顔は今でも鮮明に思い出せて、思い出すと冷や汗が出た。
倒していた上半身を起こし、首元を拭う。
手の平よりも、冷たかった。
「そんなランクの低そうな眼球は要らねぇよ。視力を上げてから来い」
「無理だよ。乱視だもん」
眉を寄せ、頬を膨らます。
ストローに口を付けて、勢い任せに中身を啜った。
ズゴゴゴ、と思いの外大きな音がする。
思ったよりも中身が減っていたようだ。
グラスの中には未だ形の整った氷だけが残る。
ド近眼が乱視でも、誰に何を言われても外では眼鏡を掛けることはしない。
家の中では掛ける。
普通は逆だろう、と事情を知らない人間には怒鳴られるが、過去にレンズを割ったのは外だ。
それだけが確かな理由になる。
不便は不便だが、慣れれば気にはならない。
しかし、元の視力が良いオミくんからすれば、確かにランクの低い目だろう。
「眼球をくり抜いて渡されるよりも、ただ普通に傍にいる方が良いだろ」
しっかりとした喉仏が上下した。
空っぽになったティーカップをソーサーの上に戻したオミくんは、ボクが反応を返すよりも早く腰を上げる。
その手には、どこから出したのか分からない黒い長財布が握られていた。
「行くぞ」
間の抜けた顔をしているであろうボクを置いて、スタスタとお会計に向かうオミくん。
ぽかん、とも、きょとん、ともしていられない。
慌てて立ち上がったせいで、テーブルに足を打ち付けたが、広い背中を追い掛ける。
オミくんの言葉を頭の中で繰り返し、咀嚼して意味を理解し飲み込むよりも前に、早く行かなければミックスジュースのお代まで払われると考えた。
頭の中にあるのは、ミックスジュースの金額だけである。