二章3『君の中に証を』
視線の先には幾十の獣の影。その獣達の中心に更に二つの影があった。
片方は黒髪に褐色肌の少女。
「あれって、クロか……?」
「恐らく。クロの前にいるのは魔熊ね」
「魔熊?」
聞き覚えのない名前。
あの大群の獣なら知っている。
銀の毛並みを靡かせるそれは、いつか村長が言っていた群狼。
通常の狼と違い、群れで動くところが特徴らしい。その群れと会えば、大人の男でもどうにもならないとも。
「魔法に耐性のある獣だと思えばいい」
「魔法に耐性ってことは、つまり魔法が効かないってこと……?」
「並みの威力では」
あのバカみたいに大きい、僕の二倍ほどの大きさの獣で、しかも魔法に耐性があるなんてアリなのか……?
二足で立つ黒い獣、魔熊はクロを見下ろしている。
そういえばシロはどこに? いや、今はそれよりクロの安全確保が先だ。
「エリア」
「群狼を突破する。私の後に付いてきて」
一声で伝わったのか、具体的な指示が飛んできた。
こくりと頷いて、エリアの走る速度に合わせながら後ろに付く。
そこで。
「ウ────ァァァアアアアッ!!」
叫ぶような、唸り声が。
魔熊の鳴き声か? それとも。
「クリエイトスペル【我が手に一振りの剣を】」
疑問は余所に、群狼の群れへと突入。エリアが剣を生み出し、邪魔な群狼達の首を刎ねていく。一振りで冗談みたいに飛んでいく群狼の首。まるで玩具みたいだ。
視線を先に向けると、そこには。
「オオオァァァァ!!」
魔熊へと飛び掛かり左腕を振るい続けるクロの姿があった。
「クロッ、こっちだ! 逃げよう!」
僕の声は届かない。届いているのかもしれないが、何も聞こえていないかのようにクロは魔熊に飛び掛かり続ける。
左手で首を打ち、頭を打ち、腹を打つ。打たれる度にわずかに仰け反る魔熊は煩わしそうに巨大な腕を振るうが、クロはそれをギリギリのところで回避していた。
思わず目が行くのはあの左手。どう見たって普通じゃない。
黒いのだ、左手だけが異様に。元から褐色肌ではあったがそんな黒さではない。光さえ通さないような深い漆黒。
もしかして、魔法か?
「アスト、今のクロは正気じゃない。だから」
無理矢理にでも連れて行かないと、か。
「エリアは群狼に集中しててくれ。僕がクロを」
「分かった」
同胞を殺されエリアを脅威と見なしたのか、群狼達はエリアの方に集まっている。
今がチャンスだ。
「クロ、落ち着いてくれ。とにかくここから離れないと危ないんだ」
「うるさいッ! クロがこいつを殺さなきゃ……ッ!」
聞く耳を持たない。
どうしようか……。強引に連れて行こうとしても魔熊が危ない。
「どうして、そんなに……」
クロが魔熊をあんなに目の敵にしている理由を知らないと何もできない。
「こいつが……、こいつがッ! シロを!」
「シロが、どうかしたのか……?」
嫌な予感が過る。だが反射的に聞き返してしまった。
黒腕を魔熊へとぶつけ、クロは言う。
「殺したからッ……!」
息が止まる。クロが何と言ったのか頭の中でいくら反芻しても理解できない。
目の前にある黒の獣と黒の少女の激突を呆然と視界に入れるだけで精一杯だ。
「こ、殺した? 殺されたのか、シロが……?」
「だからクロはこいつを殺す。シロのためにも!」
剥き出しの感情。復讐。
僕は掛ける言葉を失ってしまった。
だって、僕には復讐というものを否定できない。
仮に、僕に力があったとしたら。村長達を殺したフィムへ激情をぶつけていたと思う。あくまで仮定の話だけれど、しないとは言い切れない。
僕とクロの違いは大事な人を失ったときに、力があったかどうか。
ただ立ち尽くす。理解してしまえばもう僕に言えることは何もない。思う所はあれど、それを口に出す権利なんて僕にはないのだから。
段々とクロの動きが鈍くなっていく。スタミナが切れているのだ。それも当然。まだ十二歳の少女が一撃を与えては離れてと、動き回っているのだから。魔法があってもそれは体力を補強するような力ではないということ。
気付けばぽつりぽつりと水滴が落ちてきていた。見上げれば曇天が。
いったいいつから……?
茂る草の波が水を帯びていた。地面はぬかるんでいた。僕が気付くよりもずっと前から降っていたかのように。
「クロ!」
名前を呼ぶ。だけどクロは聞く耳を持たない。
「クロッ!!」
今度は叫ぶ。
「うるさい!!」
しかしクロの怒声に掻き消される。
今のように動き回っていてはいけないんだ。このままじゃ……。
嫌な想像は現実のものとなる。
雨などおかまいなしに駆け回っていたクロの足が、滑る。どさりと倒れ込んだクロ。
「くそっ」
走って手を伸ばすが届かない。そんな僕を嘲笑うかのように魔熊が剛腕を振り上げ。
そして、振り下ろされる。クロの頭へと迫る凶爪は。
─────一つの剣によって堰き止められた。
「間に合ってよかった」
その長い黒髪に水を滴らせる少女の後ろ姿が目に入る。
「エリア……。ごめん、助かった」
「構わない」
見渡せばもう群狼の姿はない。僕が不甲斐なく黙り込んでる間に片付けたのだろう。
情けなくもエリアの助けに安堵を感じている僕とは対照的に、クロは。
「邪魔すんな、エリア姉ちゃん!」
薄茶色の服を派手に濡らして立ち上がった。
動き出そうとするクロを前にして、僕は今度こそ走り出す。
「もうやめろ! 今のクロじゃ勝てないんだ……」
後ろから羽交い絞めにして、耳元で小さく声を掛ける。
エリアが魔熊を引き付け僕らから少しずつ離れていくのが見える。きっと時間を稼いでくれているのだろう。
だから、今しかない。クロを復讐から目覚めさせるのは。
「離せ! クロがあいつを殺さなきゃ……!」
冷静に。冷徹に言葉を連ねろ、僕。
「駄目だ。あのままなら魔熊はエリアだけで殺せる」
「だったらなおさら離してよ! シロの仇を討つのはクロの役目なんだ!」
「なら復讐心を捨てなよ。ただがむしゃらに動き回るだけじゃ勝てないことは分かっただろ」
「シロの仇なんだ! だからクロが殺す、それの何が悪いッ!?」
ああ、そうだよ。君は何も悪くない。悪いのはシロを殺したあいつで、クロとシロには何の罪もないことは分かっている。
だけど僕は、僕自身を棚上げにして言わせてもらおう。
「シロがッ! シロがその復讐を望んでいるのか!? 君はシロの死を理由にして、その悲しみを魔熊にぶつけているだけだ」
暴れていたクロが動きを止め、黒い左腕は消えて元の腕に戻っていた。剣戟の音と雨音だけが響く中、僕は言葉を続けた。
「シロを生かすも殺すも君自身だ。シロは冷静な子で、いつも君をこっそりと支えていた。その支えがなくなったら暴れ出すのか? 違うだろ。変わるべきなんだよ、支えがなくとも前を向けるように」
君も、僕も。
「クロがシロを生かす……?」
「どんな形でもいいよ。シロがいたって証を、君が君の中に残せばいいだけの話なんだ」
黙りこくったクロを見て、僕は手を離した。きっともうむやみに暴れることはないだろうから。
そんな僕らを余所に魔熊の一撃でエリアがこっちまで弾き飛ばされる。剣で防御こそしていたようだが。
「決定打がない。私の剣じゃ魔熊を倒すには少し足りない」
「そうか……」
さっきこそクロを煽るために、倒せるかもとは言ったがやはり厳しいか。
魔熊は巨体を揺らしながらこちらへと疾駆する。見た目に反してこの速度は予想外。
エリアが僕を守るようにして一歩前に出て、同時に僕へ注意を促そうとするが。
「アスト、離────」
「ホワイトスペル【奔れ】!」
その声は、真っ白な一条の光によって遮られた。
その光の一撃は魔熊をわずかに後退させ、動きを止めさせた。
今のはもしかして。
「クロ……?」
「兄ちゃんが言ったんだ、シロの何かを残せって。だったらクロはシロの魔法を残すよ。幸いクロ達はどっちも火の魔力なんだ!」
カードを空に掲げ、クロはそう言った。その顔はどこか晴れ晴れとしていて、さっきまでの鬼気迫るような雰囲気は消え失せていた。
「ブラックスペル【覆え】!」
再びクロの腕が黒に染まる。助走を付けて放った左手の一振りは魔熊を大きく後退させた。
すぐに距離を取って僕らの前で立ち止まる。
もうクロを止めることはない。だから代わりに一言。
「やれるのか? クロ」
「もちろん! クロと……、シロの! 二人の魔法であいつを倒す!」
魔熊が唸り声を上げながら再びこちらに迫ってくるが、クロは落ち着いた様子で魔熊にカードを向け詠唱を口に。
「カオススペル【白黒混沌に染まれ】」
その詠唱と共に放たれたのは白と黒の魔法が絡み合う螺旋の閃光。
その螺旋閃光は直進し、一瞬にして魔熊の上半身を消し飛ばす。
残ったのは、バランスを崩して倒れた魔熊の下半身と、直線に抉り取られた地面の跡だけだった。