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灰色の空があった。
私は、その海の上を漂っていた。体全体が浮かんでいて、酸素だけはしっかりと吸い込めるよう、顔だけは沈んでいなかった。少しでも自由を得たいが、水平線だけが目端にうつる。
このままでは、死ぬのは目に見えていた。
しかし、私の心は穏やかであった。それで良いと考える自分がいるからだ。
どうしてそう思うのか。分からない。ただ、ひとつだけ、唯一言えること。
それは、楽になりたい、ということだった。
目が覚めた。
ふと、私の片手首に巻かれた鎖に嫌気がさす。
ちゃり、と鳴るそれ。左手首に丹念に繋がれたそれは罪人の証でもあった。
ベッドの上の住人と化して、どれほどの歳月が過ぎたのだろう。窓はあるが、遥か頭上にあって届かない。
数えるほどの頭は、すでに失われてしまっている。
薄汚れたシーツから半身を起こそうとして、転び出る。
どうもこの体たらくでは、力が抜けてしまうようだ。バランスが悪いからか。体の芯がズレてしまったようで、どうにもうまく立ち上がることができないでいる。
内心、舌打ちする。
悔しさがこみ上げてくるも、それを表に出しては相手の思うツボなのはわかりきっていた。
絡まった鎖をほぐし、床に敷かれたカーペットについた手の平に力を込め、ベッドに戻ろうとした。眠ろう。そうすれば、何も考えなくて済む。
「……目が覚めたか?」
ベッドに頬を載せた状態のまま見上げると、男がいた。
いつものことながら、その血に染まったような瞳で見詰められると、ぞっとする。
……あれから。
狂言を口走る私を、この王太子様は気絶させ、隣国カレンドラ王国にまで距離があるというのに運ばせたのだった。どうやって一人の人間を、他国の人間の身柄を引き取ることができたのだろう。
下手したら拉致のようなものである。護衛騎士の、それも貴族の血を引く者を連れ去ることを由としただろうか。前例を作ることは、国の体面を損なわないか?
なぜ殺さなかったのか。
それぐらいの馬鹿すぎる不敬な態度をとったはずなのに……我が公国の君主様ならば、それで手打ちにしたら納得はするだろうに、何故かこの王太子様は私を引き取ることを希望した。
興味は尽きないが、藪蛇になっても困る。
私の心中には、マリーメイア様が居座っていた。
金髪青眼の、天使のような笑みを浮かべるマリーメイア様。
花畑の中心でお花の冠を頭に載せ、嬉しそうに喜びの表情でいる彼女。
反転、視界が黒一色に塗り潰される。
黒の正装から、ふわ、と鼻腔に吸い込んだ香りは、私もよく親しんだ香水と同じだった。
「フェリクス……」
呟きながら、彼は私の肩を踏みつけてきた。
頭の芯を突き抜けるかのような痛みが走る。
「ぐっ」
思わず呻いてしまった……。
突き飛ばされ、仰向けになった。
しかし、このままずっとグリグリと靴底で痛めつけられてはかなわんと、立ち上がろうとするも、やはり、力は抜けてしまう。私の両足がべたりと床につき、その振動がかえって体の奥を貫いてしまい、私の口から情けない悲鳴が飛び出す。さらに勢い余って踏み続けられる右肩からも鋭い痛みがする。何回も何回も、骨が砕けるかと言わんばかりの蹴りは容赦がない。
彼は、そんな浅い息を幾度も吐く私に満足したのか、いつもなら何回か踏み倒してしまうというのに、肩から足を外す。
ここは、狭い部屋だった。
ベッドと、この部屋と同等以上に豪奢な風呂場があるだけの。
騒がしく鎖巻かれた左腕を起点に、どうにか上半身だけでも息苦しい位置からもがけるだけもがこうと、這いだす。
すると、遥かな高みから、彼は立ったまま、いつものように私をその赤い双眸で見据え続けている。
蹴り上げるという一種の儀式的な暴力を終えた後の彼は何もしない。ただ、眺めているだけ。
王太子から距離を置こうと努める私をじっと見つめている。
正直、未だに良くわからない。
良くわからないが、彼は、こうしてもがき続ける私に対し鬱憤を払うことで、どうにか、裏切りの代償を受け取っているようだったから、何も言うつもりはなかった。
これで、マリーメイア様への憎しみが逸れるのならば。
私としては、言葉をもたない。
必死に、壁際ににじり寄り、背中をひっつけた。これで、私は倒れることはないし、背後をとられる心配もない。王族相手に不遜な座り方をしているが、仕方ない。
そもそも、この殿下は、何もかもが可笑しいのだ。
「痩せ細ったな……」
言いながら、彼は私の傍へとわざわざ片膝立ててしゃがみこみ。
その滑らかな動きで私の頬を、指腹で撫でつける。
最近、彼がよくやる行為だ。
特に目元から顎のラインがお気に入りらしく、何度も、何度も……指を侍らす。
伸び始めた髭の粒を潰してから、目の端をいじり。幾度も、幾度も……飽きもせずに。
こういった時の彼は先ほどの荒々しさが消えて、凪いだ目をしていた。
分からないことだらけだった。王太子は、暇ではないはずだ。それなのに、定期的にこうしてやってきては、思案を続ける。とりわけ、私の目の周りをいじくるのは、私がほのかに怯えるからだと感じていたが、まつげの隙間の隅々に至るまで動線のように流し触れるのだから、良くわからない。目つぶしをするつもりはないようだが、時折、発作のごとく喉仏を潰そうとするのだから油断はできない。
ふいに、指が離れる。
真剣ながら、それでいて夕闇のような瞳が、私を囚え続けていた。
「マリーメイアは、俺の子を産んだぞ」
シーザーは囁く。
驚いた私であったが、そっと、詰めた息を吐いた。
「それは……おめでとうございます」
「……ああ」
シーザーの手腕は見事なものだった。
政治のみならず、敵国からの襲撃を振り払い、むしろ追い落としたというのだから、軍略面も非常に優れているといっていい。その次期賢王たる彼が、這い蹲る私のために床へ直に両手足をついてまでも、あれこれと憎しみをぶつけてくるのだ。
その二面性を、カレンドラ王国の中枢は知っているのだろうか。
感情のままに、私を痛めつけてくるカレンドラの継承者。
彼の持つ伸びた黒髪が、この部屋の外では、ひときわ時間が過ぎていることを知らしめるも、彼の内面は変わらずにいる。とぐろのように私の手首に巻かれた鎖みたいに、冗長だ。
それでいて、その青白い肌が変わらないように、シーザーの心は何ら変化もなく私への怒りが継続されていた。偏執狂で、執念深い。
「お前を人質にしてようやく言うことを聞く女。
フェリクス、お前を抱きしめたこの体で、マリーメイアを抱く。
……どう思う、フェリクス?」
「……それは、愛が、あれば……」
いずれは、シーザーを愛するだろう。だが……人質、をとっている時点で。
私が人質となってしまい、歯がゆい思いをされているであろう、お優しいマリーメイア様……。
「ふ、愛?
俺の愛は窓から破り捨てられたぞ」
シーザーの愛は、すでに壊れているのだろうか。
分からない。
だが、彼は、時折、狂ったように私に抱きつく。
あのとき、マリーメイア様が縋るように私を抱き竦めたように。
くすくすと笑う彼は、優しげな表情である。
だが、その赤眼は笑ってなどいない。
「あぁ、そういえば。
あの女は、俺と口づけをするのを嫌がる。
愛がないんだろうなあ。
ならば、どうする?
……ふふ、はは……なぁ、フェリクス……」
唇だけ笑いの形を作りながら、シーザーの赤く、被虐の炎から、私は目を離せないでいた。
彼から、憎しみは切り離すことはできないのだろうか……。
近付いてくる端正な顔、その薄い唇がゆっくりと降りてきた。
柔らかな感触を拒絶したい。
だが、
「フェリクス」
思わず両目を閉じるも……観念するしか、なかった。
獣でさえ、ここまで非道なことをするだろうか……。
私は、人間であることを、いまだに命があって、この身が蹂躙されつくされている現実から目を背けたくてしかたなかった。背筋がぞくぞくとして、気持ち悪い。泣いたところで、この牢獄から抜け出す手立てはなかった。騎士として、護衛騎士としても。体面を保つには、それなりの環境と程度が必要だったってことか。あらゆる訓練を積んできたが、これほどまでに状況が積むと、どうにもならない。
ましてや、相手は。次期国王陛下だ。私程度の価値が何できる。何もできない。希望もなく。あるのは絶望だけ。苦しい。溺れる者は藁をも掴むというが……理不尽に対する沸き起こる怒りを受け流すことで精いっぱいだった。
これから、どうなるのだろう。
いつ殺されるのか。
シーザーは、私の利き腕に触れる。先ほど踏みつけられたソレ。
そこには、本来あるべき右腕がなかった。
騎士としての道を閉ざされたも同然の、木偶の棒。
ただその代わりとばかりに、こうして、ゆっくりと両脚をなすり続ける日々。
従順にしていたら、時折もたらされるマリーメイア様の様子を知ることだけが、私の楽しみで。縋るものだった。それが、最近では……顔を殴られることも、なくなってきた、か。
海の上は、いつの間にか黄昏のような空が広がっていた。
真っ赤に染め上げられた空の端は薄い。私は、海の底へと落ちないようもがくも、夕闇の空から目を離せない。それは、恐怖だった。彼は、私から、何を引き出そうとしているのだろうか。
痛い。
命が。心が。
灯が、消えそうだった。
嗚呼、早く。消えてくれたらいいのに。
そうすれば。ゆっくりと、罪悪感に、背徳に目を背けなくていられるのだから。
マリー、マリーメイア様……。
どうか、お許しください……。
本当は……。
私は……貴女のことが。