初恋
父がどんな仕事をしていたのかは覚えていない。だから、急に引っ越すことになった時もそれが父の転勤などではなかったのだと思う。
引っ越して来たのは母の実家がある田舎町だった。その時、父が一緒に居たのかさえ今では定かな記憶はない。
引っ越して来て母は最初に僕が通う幼稚園を探した。歩いて通える範囲にあった幼稚園に僕は転園した。新しい友達はすぐに出来た。そして、僕は一人の女の子に出逢った。僕は彼女のことが不思議と気になって仕方が無かった。
僕と彼女は同じ小学校に上がった。クラスは違ったけれど、その子のことはずっと気になっていた。5年生の時、同じクラスになった。言葉では言い表せないくらいうれしかったのを覚えている。けれど、まともに喋ったことはなかった。
幼稚園で見知らぬ土地へ引っ越してきて以来、僕はあまりしゃべらない子どもになっていた。けれど、近所に住む同級生の女の子とはよく遊んだ。彼女とは“結婚しよう”なんて話もしていた。結婚が何なのかもよく解からないままに。ただ、結婚するのならこんなことをするのだと彼女に言われ、お互いに裸になって体を触り合ったりした。中学校に上がる前にその子は遠い土地へ引っ越して行ってしまった。
幼稚園の時から気になっていた女の子とは中学校でも一緒だった。クラスは違ったけれど、中学生になった彼女はとても美人になっていた。他のクラスの男の子たちの間でも評判になるほどに。そんな彼女に僕は憧れていた。そして、3年の時に再び同じクラスになった。けれど、その時、僕の心の中には違う女の子がいた…。
きっかけは些細なことだった。
中学2年。この頃の僕たちは男女が仲良くすると、すぐに冷やかされて、からかわれるのが常だった。体育の授業でフォークダンスを踊る時でさえ、ちゃんと手を握る者は居なかった。恥ずかしいとかそういうのではなく、ただ、異性に触れるということが不浄の行為のような雰囲気があった。
彼女はしっかりと僕の手を取った。僕は思わず手を引こうとした。彼女はそんな僕の手を決して放さなかった。ほんの数秒の出来事だったのだけれど、僕は彼女の手の温もりを今でも覚えている。彼女は僕にだけそうしたわけでは決してない。けれど、まだまだ未熟な僕の心が彼女に引きつけられたのは自然なことだったのだと思う。
彼女はよく僕に話しかけてきてくれた。僕はそんな彼女に対していつも煮え切らない態度を取っていた。今にして思えば、どうしてそんな態度を取ってしまったのか理解に苦しむ。当時は彼女と仲良くして冷やかされたり、からかわれたりするのが嫌だったからなのかもしれない。
水泳の授業の時だった。泳ぐのが苦手な僕は仮病を使って授業をさぼっていた。一人で教室に居ると、彼女が窓の外から声を掛けてきた。
「神部くん、私の机の横にかかっている手提げ袋を取ってくれない?」
彼女の水着は濡れていて、そのまま教室には入れないのだろう。僕は彼女に言われた通りその手提げ袋を手に取った。何が入っているのか知らないけれど。
「ダメ!見ちゃダメ」
彼女が急に叫んだ。僕はちょっと驚いたけれど、そのまま彼女に手提げ袋を渡した。渡す時に指が触れた。
「ありがとう」
彼女ははにかみながら言った。彼女の水着姿は眩しかった。胸の小さな膨らみやすらっと伸びた両足の付け根の滑らかなラインが…。
「神部くんのエッチ」
僕の視線に気づいたのか、彼女はそう言って駆け出した。途中で振り返ると彼女は笑顔で手を振った。その時僕は思った。こんなに美しい笑顔がこの世に存在するのかと。
バレンタインデーほど嫌な日はなかった。そして、今までで最もショックだったのがこの年のバレンタインデーだった。
たいていの女の子は義理チョコを配って回るだけなのだが、僕はその義理チョコさえ、貰ったことが無かった。彼女はどうするんだろう…。他の子と同じように義理チョコを配るのだろうか…。そうだとしたら、僕にもおこぼれが回ってくるかもしれないなどと期待していた。
彼女がカバンから取り出したのは義理チョコだと言えるような代物ではなかった。きちんとラッピングされていてリボンまでかかっている。誰がどう見ても本命のチョコだ。彼女はそれを持って席を立った。まさか…。
そんなはずがある訳はなかった。彼女が向かった先は隣の教室だった。そして、まるで知らない奴に、僕がこの世で一番欲しい宝物をあっさりと渡してしまった。奴は周りの連中から、からかわれて揉みくちゃにされている。奴に対して可哀そうだとか羨ましいだとかそういったことを考える余裕も無かった。今すぐ、その場から消えてしまいたかった。
高校は地元の工業高校へ進んだ。泳ぎが苦手な僕はプールが無いという理由だけでその学校を選んだ。工業高校だから女子の人数は少ない。けれど、そんなことはどうでもよかった。
考えてみれば、チョコが貰えなかったというだけで、はっきりとフラれたわけではない。あのバレンタインデー以降も彼女は変わらず僕に接してくれた。あのチョコだって本当の意味での本命チョコではなかったのかもしれない。彼女はもとよりチョコなど配るような子ではないのだ。彼女にしてみればあれが奴に対する義理だったのかもしれない。
僕は意を決して手紙を書いた。ラブレターというヤツだ。
『坂本桂子さま、中学校の時はあなたのことがずっと好きでした。在学中は気持ちを伝えることが出来ずに後悔しています………もし、宜しければお返事下さい』
すると、彼女から返事が来た。
『こんにちは。お元気ですか?お手紙を貰って驚いています。俊彦さんがそんな風に思ってくれていたとは知りませんでした。正直、とても嬉しいです。俊彦さんが良ければ、またお手紙を書いてもいいですか?』
やった!ボクはすぐに返事を書いた。
『お返事ありがとうございます。とてもうれしいです………こちらこそよろしくお願いします』
僕たちはこうして手紙のやり取りをするようになった。いわゆる文通というヤツだ。今までまともに女の子と付き合ったことも無い僕にとっては大きな進歩だったと言える。
誕生日のプレゼントに彼女が手作りのマスコット人形をくれるという。友達がいつも僕の家の前を通って学校に通っているらしい。彼女に渡してくれるように頼んだという。誕生日の当日、家を出ると玄関先に一人の女の子が居た。彼女と同じ学校の制服を着ていた。そう言えば、ウチの前を通るのをよく見かける女の子だった。
「神部俊彦さんですか?」
「うん」
「これ、桂子から頼まれたので…」
その後も、彼女経由で贈り物の交換を何度かした。けれど、直接会おうと言われたことは一度も無かった。そのことで気が付けばよかったのだ。
いつもの様に彼女から手紙が届いた。僕は心を弾ませて封を切った。しかし、そこに書かれていたのは僕を人生のどん底に突き落とすには十分すぎる内容だった。
『ごめんなさい。もう手紙を書くことが出来なくなりました…』
ショック!突然の死刑宣告にも匹敵する1行だった。それまでの人生でこれほど悲しい文章を読んだことは一度も無かった。僕は居てもたってもいられず外に出た。公衆電話に十円玉を詰め込むと彼女の家の電話番号を回した。電話に出たのは彼女の母親だったと思う。心臓の鼓動が受話器越しに聞こえるのではないかというくらいドキドキしていた。
「神部と申します。桂子さんはいらっしゃいますか?」
『ちょっと待ってね』
そう言って母親らしき女性が彼女を呼ぶ声が聞こえた。
『もしもし…』
「神部だけど…」
『うん…』
「手紙のこと…」
『ごめんなさい…。好きな人が出来たから…』
「そう…。解かった。僕のことは気にしないで…」
僕はそれだけ言うと受話器を戻した。戻し掛けの受話器からかすかに『ごめん…』とつぶやく彼女の声が聞こえたような気がした。
高校を卒業すると東京の企業に就職して上京した。最初の年の正月に中学の同窓会が開かれた。僕は帰郷したついでに参加した。彼女の姿はそこになかった。
「神部くん、桂子に会いたくない?」
そう言ってきたのは彼女と同じ高校に進学した子だった。僕と彼女が手紙のやり取りをしていたことなどを彼女から聞いて知っているという。
「いま、近くに居るみたいだから行ってみない?」
僕はその子と二人で会場を抜け出した。近くに車が1台止まっていた。その車の助手席に彼女の姿があった。
「久しぶり。元気だった?」
「まあね。坂本さんも元気そうだね。隣に居るのが…」
「う、うん…」
僕は彼女の隣に居る男を見た。中学の同級生だった。けれど、それは彼女があのバレンタインデーの日にチョコをあげた奴ではなく、僕と仲の良かった友達だった。
「お前…」
「こういう事になっちゃったんだ。悪いな」
「そうか…。良かったな」
僕はそのまま同窓会の会場に戻って行った。
数年後、彼女からの年賀状には結婚式の写真が印刷されていた。けれど、隣に居る男は顔も名前もまるで知らない男だった。
彼女とは今でも年賀状のやり取りが続いている。彼女は現在、地元のバスセンターの土産物屋で働いているのだと書かれていた。今度帰郷した時には会いに行こう。いや、彼女に会うために帰郷してみるのもいいかも知れない。30年以上会っていないから彼女はきっと僕のことが判らないだろうな…。