リグ。
パーフェクト・マスター……この名称は、魔法を学ぶ者ならば誰もが知っている憧れの称号である。
世界に5人しか居ないとされる、全魔法無制約能力者。その通称だ。
「君は?」
ただならぬ気配を纏うその少年に、ノートは平静を装って尋ねた。額には汗が滲む。
「魔専コースA組のリグだよ。それよりさ、君がパーフェクト・マスターなんでしょ?」
微妙に長い前髪の隙間から、好奇な目でこちらを覗き込んでくる。得体の知れない不気味さに、ノートは鳥肌が立つのを感じた。
「……残念だけど、人違いだと思うよ。僕は魔法はからっきし駄目でね」
この学院でノートが魔法を使った事は一度も無い。少なくともリノ以外で、ノートが魔法技術に長けている事を知る者は居ないはず。なのに何故かこの少年は、まるで確信しているかのようにノートを追及する。
「認めないつもりなんだね。困ったなぁ」
落胆も呆れも苛立ちも感じない、淡々としたその言葉の裏にある真意は窺えない。
「仮に僕がそうだとして、そんな僕に一体何の用なんだ?」
友好的なそれとは真逆にあるこの敵意。穏便に済ませるためには、魔法の事などとてもじゃないが認めるわけにはいかなかった。
さらに言うならば、そもそも本当にノートはパーフェクト・マスターなどでは無い。それは、持てる才能を遺憾無く発揮し、世界の秩序を守った英雄達に与えられる名誉の称号なのだ。
例えノートの才能がそれに匹敵する程であったとしても、誰にも知られないよう過ごしてきたノートに、そんな称号が与えられるわけも無かった。
するとリグという少年は右手を前に突き出し、その手の中にあるものをノートに見せた。
「輪ゴム? ……っ!」
次の瞬間、ノートの体を何かが縛り上げる。
リグの右手に輪ゴムを確認した途端の出来事。腰の付近に輪っか状の、体を拘束している何かがある。
「はぁ。本当はこんな手荒な真似するつもりじゃなかったんだけどなぁ」
誰も居なくなった静かな図書室。そこに、冷淡とも取れる少年の呟きが響く。
両手を抑えつけ、尚も縮もうと食い込むロープの様な何か。その正体は……今しがたリグが手にしていた、輪ゴムであった。一瞬にしてリグの右手から離れたそれが、巨大化し、頑強化して、ノートの自由を奪っている。
物質強化魔法。魔力を込めて、対象に様々な付加効果を与える魔法である。大抵の場合は、対象がそもそも有する特性を強化する技術であるが、熟練者の手にかかれば、対象の特性とは全く無関係の効果を付与する事も可能である。
「何が……目的なんだ? 僕をどうするつもりだ」
「あぁ、ごめん。別にどうもしないよ。ただ、こっちが真面目に聞いてるんだって事を分かって欲しくてさ」
何事でも無いかのように、他人に危害を加える少年。
でも確かにこれは、とても冗談では済まされない。
「君にお願いしたい事があるんだ。君の魔力の事、誰にも話さない代わりに協力してくれないかな」
……そもそも認めてなどいないのだが。まるで話を聞かないリグに、ノートは言葉を失う。
交換条件を提示してはいるが、恐らく要求を引っ込める気などないのだろう。この攻撃がその証拠だ。きっとノートに拒否権は無い。
「パーフェクト・マスターなんてもんじゃないし、魔力も全然無いんだけど……その協力っていうのは?」
輪ゴムによる拘束は、実の所ノートにとって何の意味も為さない。抜け出す事も破壊する事も、相手に跳ね返す事も容易だ。
それでも、相手の要求に従って事を収めようとする理由は、やはり魔力の強さを隠す為である。
自身の理念である以前に、この少年に明確に知られる展開を避けたのだ。
リグは頭をガシガシと掻きながら、釈然としない表情で答えた。
「面倒臭いなぁ……まぁいいや。頼みたい事は一つだけだよ」
静かな図書室に、少年の要求が響く。
まるで寝ている書物を無理やり起こすかの様に、強く。
「来月の魔法技能大会に参加して欲しいんだ。それも、魔専コース側のメンバーとしてね」
「ねぇちょっと」
「?」
長い廊下の突き当たりにある螺旋階段。すっかり暗くなった窓の外には、外灯の明かりがぼんやりと浮かんでいる。
「あんな雑なやり方で良かったわけ? 参加してくれそうな感じだった?」
階段を下りていたリグの後ろから、見下ろす形で女子生徒が追いかけてきた。
「……図書委員のふりしてカウンターから見てたでしょ。大丈夫だよ、きっと。ちゃんと脅しといたし」
リグは振り向かず、歩行を止めずに返答した。
「拘束もすぐに解いちゃうしさ。本物のスーパー魔法使いなのか確認するチャンスだったじゃん」
「ちゃんと確認したよ。拘束してた輪ゴムを通して、魔力の波動を聞いてた」
ツインテールをゆらゆらと揺らしながらリグの隣に並んだ少女は、実に楽しそうに詳細を尋ねる。
「へー。どうだったの? 荒波みたいな凄そうな感じだった?」
「いや真逆。波紋一つ起きそうにないくらい、静まり返ってたね」
靴箱に到着し、靴に履きかえる。「恐いくらいにね」と小さく付け足した。
校舎を出た先には大通りが伸びている。両側に並んだ外灯にはオレンジの光が灯り、夜を優しく照らしていた。影を伸ばし、リグと少女は校舎を後にした。
「どういう事よ」
「簡単だよ、ルカ。初対面のボクに突然攻撃されて、しかも体の自由を奪われたんだ。不安もしくは敵対心から、ちょっとくらい変化があっても良かった。なのにずっと波動は平坦な状態を維持してた」
ルカと呼ばれた少女は、元のサイズに戻った輪ゴムをリグから受け取ると、指で弄びながら続きを促した。
「あれは動揺が無かったというよりは、意識的に落ち着かせていた感じだ。その技術も凄いし、そうした理由も驚嘆に値する。恐らく、輪ゴムを通して波動を探知している事に気付いていたんだろうね」
「おー。つまり予想通り、スーパー魔法使い君だったんだ」
「そうだね……」
月を見上げ、外灯に照らされたリグが、口の端を吊り上げる。
「来月の技能大会が楽しみだよ」