56 これ取って良い?
「何してるの?」
兄さんの不自然ではない少しだけ高い作り声が私にかけられ、男の視線が私の頭上を通り過ぎ驚きに固まった。
兄さんの方を窺うと、男を見つめ蠱惑的な笑みを浮かべていた。
射落とす作戦だろう。そして獲物はあまりにも簡単に陥落していた。
あっさりと私の存在を忘れてしまった男に腹も立つが、どちらかと言うと気の毒だった。
「早くいらっしゃい」
私を呼ぶ兄さんの元に駆け寄ると、兄さんが男にもう一度意味ありげに笑んでから私の手を取り歩き出した。
「どうして手」
見上げて尋ねると、私を見下ろした兄さんがにっこりと笑んだ。
「お、怒ってるね」
「ちゃんとついて来られないみたいだから、手を繋ぐの。分かった?ジュジュ」
怖い。
「はい」
外階段の下につくまでの短い間だったが、兄さんと手を繋いで歩くという貴重な体験をした。
きっと、幼く頼りない側付きの手を引く、優しい姫様に見えただろう。
動悸と息苦しさと緊張が、兄さんのしなやかな手のせいなのか、怒っている兄さんへの恐怖のせいなのかは判然としなかったが、兄さんと手を繋いでいると言うことが、とにかく、嬉しかった。
複雑な嬉しさを感じたのもつかの間、部屋に戻ると当然のように兄さんのお説教が待っていた。
「出る前に気を付けてって言ったよね?ジュジュ」
笑顔の兄さんが相変わらず怖い。
「ごめんなさい」
「ごめんじゃ済まない。一人だったらどうしてた?あの馬鹿を怒らせてその辺に引き倒されてたかもね」
返す言葉もなく、立ったままの兄さんから目を逸らし唇を尖らせた。
「あのねえ、いくら体形を誤魔化したって、ああいう男はいくらでも出て来るよ。中身は子供じゃないんだから、君が気を付けていなきゃ表情ややり取りから女だと判断される。当然だよ」
「だって、ジョエは」
兄さんが私を遮った。
「ジョエは特別だよ。君を実際に子供の頃から見ているんだ。今更子供だ女だってことじゃない。ジョエにとって、君はイリなんだよ。とにかく、男には気を付けて。ジョエの様に胸の大きさに拘る男ばかりじゃない。体形を誤魔化すのは、面倒を減らすと言う意味でしかないんだからね。分かった?ジュジュ」
「分かった」
ソファで不貞腐れる私に兄さんが溜息を吐いた。
「本当に、気を付けて。ここは娼館同然だと言うことを忘れた?姫には一応の地位が有るから無理強いはないにしても、君は自分で身を守るしかないんだよ?未遂ならジョエやシバの力で君を傷つける男を排除出来る。でも、起こってしまってからでは手遅れなんだよ」
兄さんは上辺の笑顔を私に見えなくさせるほど、真剣な目をしていた。
真剣に、しつこくお説教を繰り返す兄さんに、私の身を案じてくれているのだと目元が熱くなってきた。
膝に拳を握り、兄さんの足元を見つめて唇を結んで涙を堪えた。
もう一度兄さんが溜息を吐くのが聞こえた。
「泣かなくても良いよ、ジュジュ。言い過ぎたね」
首を振る。怒られて泣きそうな訳ではない。兄さんに心配されて嬉しかっただけだ。
不意に頭に重さを感じた。
驚きに息を詰める。
もしかして、兄さんに頭を撫でられてる?
この間、私が無理矢理撫でさせた時とは違う、ちゃんとよしよしされる感触に衝撃を受けた。
兄さんが自ら私の頭を撫でてくれてる。信じられない。
堪えていた涙が、当然のようにぼろぼろと流れ落ちた。
「ああ、ごめんってば、ジュジュ。これからちゃんと気を付けるなら泣かなくて良いよ」
私の頭を撫でながら、それでもしつこくお説教を繰り返してくれることが嬉しかった。
「飯―!持ってきたぞ。お?何やってんだ?」
ジョエが部屋に戻るなり騒がしかった。
兄さんの手が私の頭から離れてしまったので、袖で頬を拭って顔を上げた。
ジョエが戻らなければもう少し頭を撫でて貰えたのにと、腹が立った。
「説教が終わったところだよ」
兄さんが答えると、ジョエが馬鹿にした様に鼻で笑いながら私を見た。
「何やったんだ、お前」
ふんと顔を背け無視すると、兄さんがご丁寧にジョエに答えてくれた。
「散歩中に衛兵に引っかかってたんだよ」
「はあ?お前と一緒だったんだろ?」
ジョエがテーブルの横にカートを付け、呆れた様に私に視線を向けた。
「一緒だったのにだよ。少し離れて歩いてただけで捕まってたよ。イリにもしつこく言ったけど、ジョエもちゃんと気を付けてやってよ?」
不貞腐れてソファから立ち上がり、食事の準備を始めようとした私の頭をジョエが小突いた。
「何やってんだよ。女だから気を付けてんだろ?」
「こんな幼児体型に下心持つ奴がいるなんて思わなかったのよ」
ジョエを睨むと軽く拳骨を落とされた。
「痛い」
「阿呆!子供でも変態に気を付けろって何度も言っただろうが」
そうだった。
「だから、気を付ける対象は変態だけじゃないって。男全部だよ。体形誤魔化してても油断するなって、何度も」
私を間に挟み説教を再開しようとする兄さんとジョエの腕を掴んだ。
「分かった!男には全部気を付ける!だから、これ取って良い?」
お腹に手を当て兄さんとジョエを見上げると、ふたりが声をそろえた。
「駄目だ!」
「駄目だよ!」




