50 勘違いだった
「ねえ。私、別に倒れても嫌じゃないしさ。兄さんだって倒れる原因が兄さんじゃないなら、問題ないでしょ?ちょっとさわってみてもいい?」
緊張に動悸が大変な事になっていたが、勇気を振り絞った。
「え?」
予想しなかった言葉だったのか、兄さんが噛んでいた唇を開いた。
小さい子供みたい。血が出ていないかしら。
暗くて良く見えないが、歯があたっていた部分が赤くなっている様な気がした。
ばくばくと鳴り響く自分の音が煩い。
「実験よ。絶対に倒れない自信があるけど」
言いながら兄さんににじり寄ると、兄さんが後退りしようとした。
この様子では、手を出してと言ったところで素直に出してくれるとは思えない。
「いつも思うけど、下がれないのに下がろうとする素振りしないで。無駄に傷つくから」
ソファの端に追い詰められた兄さんの、壮絶に美しい無表情の顔が強張っている気がした。
そんなに私が倒れるのを見たくないのだろうか。
兄さんが仰け反っているせいで肩が遠かったので最寄りの太腿に手を置くと、無表情のままの兄さんが私を睨むように見据えた。
そっとのせているだけなので、柔らかい布の感触しか私の手には伝わってこない。
この程度の接触でも倒れていたのかしら。
こんなに近付いて酷い胸の音が兄さんに聞こえていないだろうか。
緊張以外、倒れる予兆など何もない。
何故か兄さんに勝ったような気分にもなる。
「ほら、大丈夫」
強張らないように努めてにこっと兄さんに笑いかけてみたが、兄さんの表情は変わらなかった。
兄さんの足に体重をかけ、身体を寄せながらゆっくりと兄さんの唇に指を伸ばす。
布越しに、兄さんの骨ばった身体の感触がようやく手の平に伝わる。
緊張と動悸で指がふるえそうだ。
兄さんの視線が、私の指先を追いかけていた。
艶やかな下唇にゆっくりと人差し指を置き、軽くなぞってすぐに放した。
兄さんが僅かだがその目を開き驚きを見せた。
そのことがおかしくて、笑いながら自分の指を確認した。
「やっぱり血が出てるよ」
ほんの少量うっすらとにじむ程だったそれを指先をこすり合わせて握り込むと、兄さんの足にかけていた手を退け、とすんと兄さんの隣に座りなおした。
はー、どきどきした。
足同士が少しだけふれている。初めての距離だった。
隣で肘掛けにもたれ私の方を見たまま固まっている兄さんに笑いかける。
「ね?大丈夫だったでしょ?もうくっついて座っても良いよね?」
そう言うと、兄さんがかすかに顔を歪めた。
そして、肘掛けから身体を起こすと膝に肘をつき、溜息付きで両手に顔を伏せて目元を覆ってしまった。
兄さんが何を思っているのかは分からなかった。
喜んでいる様には到底見えなかったけれど、私から離れて行かない兄さんがとても嬉しかった。
兄さんが座り直したことで、兄さんの体温を感じるほどにくっついた太腿が意識されて、未だどきどきと胸が激しく音を立てていた。。
「兄さん」
「何?」
兄さんが顔を覆ったまま答えた。
「お願いがあるんだけど」
「うん?」
私とは違う色の薄い髪が肩から落ちて、兄さんの横顔が見えなくなった。
指でその髪をすくい、男性にしては薄くて細い肩の後ろに流す。
記憶にある限り初めて触れた兄さんの髪は、とても柔らかくしなやかだった。
兄さんが身動ぎ、こちらに顔を向けた。
落ち着いて来ていた動悸が、心地よいくらいの音を再び立て始めた。
間近で覗き込んだ兄さんの目に、拒絶の色は見られなかった。
えへへと笑いかけると、兄さんが困ったように笑んだ。
「何?ジュジュ」
「ねえ、ここに来てから、子ども扱いされて色んな人に頭を撫でられるんだけど、兄さんにはされたことないでしょう?」
兄さんが少しだけ不満げな顔をした。
「イリが憶えていないだけだろう?毎日数え切れないほど撫でていたよ」
珍しい素直な表情と声の調子に、おかしくなって笑う。
「そうなんだ。でも、憶えてないもん。ねえ、やってみて」
「え?」
兄さんが勢いよく身体を起こして私から離れた。
常にたおやかで緩やかな動作の兄さんには珍しい姿だった。
「そんなに嫌がらなくても良いじゃない」
膨れて兄さんを睨むと、兄さんが焦ったように笑顔を作った。
見たことのない兄さんの姿が次々に現れるのが嬉しくて、すぐにふくれっ面が緩むのを感じた。
「嫌な訳じゃないけど、もう何年もふれていないし緊張す、」
言いかけて口ごもった兄さんが、凄く気まり悪げで恥ずかしそうな顔をした。
可愛らしくて声を上げて笑ってしまった。
「はい」
兄さんの方へ軽く頭を下げた。
俯いて兄さんの手を見つめていると、かなりの時間経てからようやく持ち上げられた。
視界から兄さんの手が消える。
凄くドキドキする。
兄さんの手の平がそっと私の髪にふれた。
そのまま、動かされることなくその場にとどまっている手の感触に一人胸を高鳴らせ、感動していた。
あまりに長く微動だにしないその手に、兄さんの様子が気になり手を無視して顔を上げると、表情のない酷い顔をした兄さんが手を引いた。
穏やかな、或いは気まずそうな顔を期待していただけに、酷く驚いてそして悲しかった。
わだかまりが解けて、仲の良い兄妹になれるのだと思ったのに、私の勘違いだったようだ。
「ありがとう、ジュジュ。君がもう大丈夫だと分かって良かったよ」
兄さんが緩く自分の身体を私から離し肘掛けにもたれた。
思わず涙が零れそうで、必死に唇を引き結んで耐える。
心地よい胸の動悸も、冷えた胸の痛さにすり替わてしまっていた。
私の顔を見ていた様子だった兄さんが、緩く笑った気配がした。
あの冷めた目で微笑んでいるのだろうか。
「どうかした?ジュジュ」
「ううん。何でもない。ねえ、もう私から逃げないでよ?指先でこうやって物を受け取るのもダメだからね?」
ふるえそうになる声を押し隠しわざとおどけて兄さんの仕草を真似て言うと、兄さんがやはり普段通りの顔で微笑んだ。
今日で私と兄さんの関係は何か変わったのだろうか。
せっかく触れ合うことが出来たのに、何も変わってはいない気がして酷く虚しかった。




