42 私、馬鹿じゃないの?
「行儀が悪いって言ってるだろう?」
そう時間をおかずに戻って来たジョエとソファに並んでいた。
ジョエはソファの前に置いた椅子を台にし、私は膝の上にトレイを載せて、二人の間に置いた椅子に広げた本をジョエに指していた。
「だって昼やらなかったし」
私がそう言うと、兄さんが溜息を吐いた。
「だから、わざわざ食事中じゃなくてもいいだろう?」
「だから、食べながらじゃないとジョエがやらないって」
先日と同じ問答を繰り返す私達を、ジョエが馬鹿にしたように笑った。
「何笑ってんのよ。ジョエがちゃんと机に向かって座れるならそうするんだからね」
ジョエに膨れて言うと、ジョエが私の頬を潰しながら兄さんに言った。
「別に良いだろ。誰に怒られる訳でもねえしよ」
「僕が怒ってるだろ」
兄さんがジョエにも溜息を吐いたが、ジョエは笑うばかりで何も気にしていなかった。
今の私に兄さんの真正面に座って食事を取ることは難しかった。
もう無視はしたくなかったが、何を話して良いのかも分からなかった。
お互い嫌い合っていると思っている間は、兄さんの顔を見るのが腹立たしくて悲しい分、少しは冷静だったと思う。
でも、おそらく今兄さんを目の前にすると、緊張して落ち着きを失い、何も考えられなくなる気がした。
それに冷たい目を見ればやはり萎縮してしまう気もした。
ジョエが一緒に来ていて良かった。
自分のご飯をさっさと食べ終わり、兄さんの残り物を物色しにソファを離れたジョエを見て思う。
大体、ここに来る以前の兄さんと私の関係でも、二人旅をして二人一つの部屋で後宮生活を送るなど考えられなかった。
ジョエがここにいるのは必然だ。
例えジョエに護衛の才がなかったとしても、兄さんはここにジョエを連れて来ていたのだろうなと感じた。
兵舎に用があると言うジョエがついでに食器を返しに出て行った後、まだ薄明るい窓辺で兄さんに単語集を作った。
今日も指先で受け取るだろうか。私は今でも本当に兄さんにさわれないのだろうか。
ソファから覗く兄さんの金の髪を見て思う。
兄さんは昨日までの分の単語集を眺めている様だ。
他にすることがない分、どんどん吸収していそうだ。
この程度では一日の暇を潰すには量が少ないかもしれない。
単語ばかりでもあきるだろうし、簡単な物語でも勧めてみようか。
読めない、あるいは意味の分からない単語があれば、真似して書き出してもらって、それも書く訓練になるだろう。
明日物語も探してみよう。
勉強という媒介があれば、兄さんとの会話も然程緊張しなくてすむのではないかと期待した。
「はい」
私の声に兄さんが振り返った。
部屋が広いので立ち上がらざるを得なかったが、今日は手を伸ばしソファの後ろから兄さんに紙を差し出した。
兄さんが呆れた顔をする。
「どんどん行儀が悪くなってるんじゃない?ジュジュ」
「はい」
腕を目一杯伸ばして、椅子の近くから兄さんの方へ紙をひらひらさせる。
兄さんが諦めた顔で笑んで、ソファの背の上から手を伸ばしてきた。
これなら指先で取られても不自然じゃないし、私も傷つかない。
兄さんの綺麗な指先が紙を挟んで引っ張った。
「ありがとう、ジュジュ」
兄さんが手を引きながら私に微笑んだ。
薄暗くなり兄さんの目の色は見えない。
それなのに冷めた目を想像してしまう染みついた癖は簡単に抜けるものではないが、いつか素直に兄さんの感謝の言葉と笑顔を受け入れられたらと願う。
『ジュジュ』
そう私に呼びかける兄さんの声が私の頭の中でこだました。
部屋に灯りを入れ、窓とカーテンを閉めて回った。
ソファを見ると、兄さんが手元に置いた蝋燭の灯りで先ほど渡した紙を見ていた。
「明日明るくなってからやったら?」
そう言うと、兄さんが私を見上げ笑った。
蝋燭の灯りがあるとは言えもう本格的に暗くて、兄さんの笑顔も笑顔に見えた。
「ああ、一通り目を通したら寝るよ。お休み、ジュジュ」
追い払われたと、これまでの私なら感じるはずだ。
でも今日は、ただ単に私が大抵夜は自室で本を読んで過ごすので、そう言われたのだろうなと考えることが出来た。
『ジュジュ』と言う言葉の力かもしれない。
暗かったせいだろうけれど、兄さんがまだ幼い私にそう呼びかける姿を想像してしまい、先ほどの『お休み、ジュジュ』が、私の脳内で完全に『お休み、可愛いイリ』に変換された。
そんな言葉をかけて貰った記憶などないけれど、私が兄さんにふれられなくなる以前には、もしかしたらそんな事もあったのかも知れない。
勝手で幸せな想像に一気に頬が熱くなった。
恥ずかしい。想像して喜んで赤くなるなんて、私、馬鹿じゃないの?
一人で悶えていると兄さんが怪訝な声をだした。
「どうしたの?ジュジュ」
また、『ジュジュ』だ。
慌てて、でも意を決して兄さんを見た。私の赤い顔と兄さんの目の色が見えないくらい暗くて良かった。
そうでなければ勇気が出せなかった。
「何でもない。文章読もうか?」
兄さんの反応を恐れるがゆえの緊張を隠して、さりげなく尋ねた。
兄さんがソファから私を見上げ微笑んだ。
「頼める?」
私達に行儀が悪いと言う割に、ソファに座る姿が常にしどけない兄さんは今日も綺麗だった。
あんなに悩んだ、いつまで経っても兄さんに近付けない私の容姿も、血が繋がっていないのなら納得だ。
こんなに綺麗な兄さんと並べる他人がそうそういる訳がない。
血が繋がらないと早くに知っていたかった。
そうすれば、兄妹なのに何故兄さんばかりが容姿に恵まれたのかと、余計な醜い僻みでまで兄さんを嫌わずにすんだのに。
兄さんから離れてソファの端に腰を降ろす。
こちらでちゃんと距離を保てば、兄さんが離れて行くことはない。
「どれにする?」
手を出さず、兄さんに尋ねると、兄さんが微笑んで手にしていた紙を二人の間に差し出した。
無闇に避けられる事もなく、私の心も苛立たなかった。
兄さんが持つ紙を眺めながら、努めてゆっくりと落ち着いた声で自分が書いた文を読む。
暗くて、静かで、ゆったりとした空気が流れていた。
そんな穏やかな空気に反して、兄さんとちゃんと兄妹出来ているという思いからか、私の心は嬉しくて、幸せで、興奮して、最高にどきどきしていた。