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3 卒業おめでとう


「卒業おめでとう。イリ」

ここ数年ほとんど顔を合わせることもなかった兄さんが、うちの中で私を待ち構えていた。

「びっ、くりした。どうしたのよ、こんなに早い時間に」

きちんと言葉を交わすのはいつ振りだろうか。

私が家を出てから起き出し、私が寝てから戻って来る。

私が16になった今まで長く続いている、この美しい兄の生活だ。

兄さんは奥のソファに腰を降ろし、恐ろしく整った顔でにっこりと微笑んでいた。


極たまに顔を合わせることがあると、いつだってこの顔だった。

そして一言だけ私に声をかけるのだ。

「お金はいつもの所にあるからね」

私はどう答えれば正解だったのだろう。ありがとう?ごめんね?

早く帰って来てとはもう言える気もしなかったし、言いたくもなかった。

結局いつも、頷くことしか出来なかった。


「だって、今日はイリの卒業式だっただろう?」

軽く睨んだが、いつも通り腹立たしいほどに飄々としていた。綺麗に弧を描く艶やかな薄い色の唇が憎らしい。

「式にも来なかったくせに何言ってるのよ」

上着を脱ぎ椅子の背にかけながら皮肉を込めてそう言うが、ソファの背にもたれ私を見上げていた兄さんは素知らぬ顔で笑んだままだった。

「ごめんね、来て欲しかった?」

優しい顔で皮肉を返される。私がそれを望んでいないのは当然兄さんも分かっているはずだ。

「そんな訳ないでしょう。もし来たら大騒ぎで式どころじゃないじゃない」

一部の人間が騒ぎ、残りの人間には蔑まれるのだ。

来て欲しい等と思えるはずがない。

兄さんは私の嫌味をあっさり無視して続けた。


「仕事辞めたんだ」

「は?あ、え?そうなの?何か他の仕事するの?」

驚く私に兄さんが微笑む。

「後宮に入るから、イリも準備してね」

笑顔の兄さんを見つめたまま、しばらく思考が止まった。

何?ここは国の外れで、後宮は都の中心、え?後宮?

「イリ?」

兄さんに呼びかけられ意識が現実に戻る。

「は!?何言ってるの?後宮?誰が?」

「もちろん僕だよ。他に誰がいるの?出発は明後日だから、準備と世話になった人への挨拶済ませ、」

「ちょっと!」

焦る私をあざ笑うように、落ち着いたままの兄さんがのんびりと言った。

「何?行かないっていう選択肢はないよ?家も明後日には他の人間が入るし」

「何ですって!?」

訳が分からない。どういうことだろう。

「イリ、まだ仕事決まってないんだろう?ここに残ったって暮らして等いけないんだから、一緒に来るんだよ」

笑顔で命令する兄さんに腹が立った。

「どうして?おばさんの所で今まで通り手伝わせて貰えば、」

兄さんが手をひらひらさせて私を遮る。苛立ちが募る。

「おばさんから給金が貰えるとは思っていないよね?また納屋を借りるにしても、食い扶持なんか稼げる訳ないし、おばさんに迷惑だよ」

物凄く腹が立つけどその通りだった。

今までだっておばさんの暮らしが少しでも楽になる様にと、過去の恩返しに手伝わせて貰っていたのだ。

私に給料を払う余裕があるなどとは私も思っていない。


唇を引き結んで兄さんの憎らしい程綺麗な薄青の目を睨みつける。

「どうして明後日なのよ。もっと早く言ってくれたら働き口だって」

「あると思うの?ああ、そうだね。僕みたいな仕事で良ければ、こんな所だから幾らでも見つかるだろうね」

兄さんが自らをこんな風に卑下する物言いをしたのは初めてだった。

歪む顔を取り繕うことも出来ず、そんな私に兄さんが笑った。

「嫌だろう?こんな荒んだ僻地じゃ君に相応しいまともな職は見つかりっこないよ。ねえ、一緒に王都へ行こう?」

「何言ってるの?後宮なんて入れっこないでしょう?兄さん、男なのよ?」

根本的な事実の確認に兄さんがにっこりと笑う。

「大丈夫。今、後宮はのんびりしたもんなんだってさ。王の渡りも有る方が珍しいみたいだよ」

「そうなの?」

何故兄さんがそんな事を知っているのだと言う疑問はすぐに伝わった様で、気にするなとでも言うようにもう一度ひらひらと手を振られた。

「そうだよ。見た目は問題ないだろう?」

兄さんが薄いシャツを着た腕を広げて首を傾げて見せた。


派手な金色の髪が艶やかに窓からの陽光を映しながら揺れる。

久々にじっくりとその顔を見たが、23になったはずの今も兄さんは綺麗なままだった。

肉が落ち鋭くなった頬から顎にかけての線や、女と言うには高くなってしまった背丈が10代の頃の可憐で可愛らしい少女の様な印象を損なってはいた。

でもそのおかげで、淑やかな動きや細くしなやかに伸びる手足、流す視線、細く通った鼻梁、艶やかで綺麗な唇は色気を増し、今の兄さんは男ながらに妖艶でさえあった。


「見た目が大丈夫って言ったって戸籍は男でしょう?」

「ちゃんと手配済みだよ。自分の身の回りの世話をしているだけで、これから先一生食べられるはずもなかったような贅沢なご飯が食べられるんだよ?」

「ご飯?」

つい反応してしまった意地汚い私を兄さんが笑う。

「そう。美味しい贅沢なご飯が一年も、ただで。しかも給料付、王都で先の仕事も見つかるかも知れないね」


常に空腹で、そのこと以外何も考える余裕のなかった子供の頃の記憶が、お腹の痛みとしてよみがえる。

気を失いながら食べ物を待たなくてもいい。

小さな欠片しかないパンを兄さんに分けてやることが出来ない、欲張りで賤しい自分に罪悪感を持たなくて良い。

兄さんのおかげで飢えから脱して長い時が経つのに、あの頃の記憶は未だに鮮明だった。


「一年って?」

「一年間王の渡りがないと後宮を出されるんだ。行くって言ったって永遠じゃない、たった一年だよ。その後は王都ででもこちらででも働いて自活すれば良い。ねえ、一緒に行こう、イリ」

無理なお願いをして自分の横暴を通そうという時は、ソファに寛いだままではなく、私の目の前に立って頭を下げるべきだと思う。

でも、これまで兄さんに養われてきた。

私が行けるはずもなかった学校にも通わせてもらった。

これからどうにかして職を見つけ兄さんから自立するのだと思っていた。

けれど本気でそう思っていたのなら、今日のこの日までのんびりして等いられなかったはずだ。

兄さんのことを嫌いながら兄さんに甘えている自分に、無意識にこれから先も甘えようとしていた自分に嫌悪感がわく。


兄さんが私を見て、憎らしいほどに綺麗な顔で笑った。

「一生に一度くらい、苦労せずに毎日お腹一杯食べられるって経験をする権利が、あると思わない?」

僕たちには、国費で食べさせてもらうその権利があると思わない?と兄さんの目が語っているのが分かった。

深く溜息を吐いた。

「そうね。毎日飽きるほどお腹一杯食べてみたい。行くわ」

苦労してきたのは兄さんだ。兄さんがそうしたいと言うのなら、何も文句など言えるはずがない。


「良し。じゃあ、今日と明日でイリの準備だよ」

「私だけ?」

顔をしかめて、私とは対照的な笑顔の兄さんを見る。

「僕はもう準備万端だもの。まあ、イリの分も実は殆ど済んでるけどね」

もう一度溜息を吐いて呟いた。

「私は兄さんの持ち物じゃないわよ」


一瞬、兄さんが笑顔のまま表情を固めたのかも知れない。

そんな気がしたけれど、実際の所は分からない。

次の瞬間には兄さんは相変わらず笑っていたが、幼い頃ならともかく今では私も理解している。

昔から、おそらく今でさえ、私を生かすも殺すも兄さん次第。私は兄さんの持ち物同然だ。

だけど、兄さんは私の為だけに自分を犠牲にして生きてきた。

頭ではそのことを理解出来る年齢になっていた。

それでも、理解できたところで嫌いだと言う感情がなくなる訳ではない。

兄さんの綺麗で優しい笑顔の中に、常に冷めた色を浮かべる目を感じる事が耐え難かった。

そんな顔でしか私を見ない兄さんが、大嫌いだった。






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