30 愛しい人
兄さんから離れたいのもあって、食器を戻した後ジョエに頼んで図書館に来ていた。
まだ、ここまで一人で迷わず来られるとは思えなかったからだ。
「やあこんにちは。姫様はもう読んでしまわれたの?」
お兄さんが会釈した私を見つけて声をかけてくれた。
「はい。また借りさせて貰います」
「俺、兵舎に顔だして来るから読まずに選べよ。読むなら、借りる本を選び終わってからにしろ、分かったか?」
しつこく念を押すジョエに嫌な顔をすると、お兄さんが笑った。
「気を付けてても、読み始めたら自分じゃ気付けないもんなんだよ。ねえ?」
同意を求めるお兄さんに心底頷く。
「わっかんねえなあ。こいつが固まってたらあんたが尻でも撫でてやってくれ。じゃあな」
ジョエが最低なことを言ってさっさと図書館を出て行った。
「最低」
ジョエの後姿を眺めながら呟くと、お兄さんが苦笑した。
「流石に君のお尻は触れないけど気付いたら教えてあげるから、ゆっくり選んでおいで」
「はい。ありがとうございます。行ってきます」
ジョエのことは忘れて、整然と並ぶ沢山の本の中へ、ウキウキと足を踏み入れた。
母の故郷ロウエンとこの国との関係についての本がないかと、関連する書籍が有りそうな棚を目でなぞっていた。
ロウエンとの交易と言うタイトルの本を引き出しパラパラとめくっていると、背後から声がかけられた。
「ロウエンのことを調べているのか?」
低い男性の声だった。
振り返ると、見覚えのある精悍な顔付きの男が、本を手に一人掛けのソファに腰を降ろしていた。
先日ここで笑いながら現れたあの男だ。
明らかに一般人ではない上等な衣装を身に着けている。
上位官僚だろうか。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だ。変質者ではない」
可笑しそうに笑いながら言われた。
「申し訳ございません。男性には気を付ける様、主に言付けられておりますので」
今日も雇い主のせいにしてかわそうとそう言ってみるが、効果はなかった。
「ロウエン出身か?いや、出身国ならわざわざ調べることはないか?ユールの服を身に着けているものな」
穏やかな表情の中の何もかも見透かすような目に、ひやりとする。
明らかに立場が違うので何かしら答えぬ訳にはいかない。
「はい。出身はユールですが、ロウエンについて何も知りませんので」
「そうか。ユールは寛容な土地柄ゆえロウエンの民も多く受け入れていたからな。ロウエンの血が流れているのだな」
黒髪から明らかな事実をわざわざ問う男性の視線が、私の髪を厭うている様に、でも懐かしんでいる様にも見えた。
戸惑いながら頷く。
「はい」
男性が私の目に視線を移し微笑んだ。
この男の方が爽やかだが、兄さんの笑顔と似ているかも知れない。
冷やかで底の見えない目だった。
「名は何と言う?」
「ジュジュ・シュラウドと申します」
答えると、一度軽く目を見開いた男性がまた笑った。
「名付け親に愛されているのだな」
意味が分からず眉を寄せる私に、笑顔の男が続けた。
「自分の名の由来を?」
「存じません」
彼の笑顔が少し歪んだように見えたが気のせいだろうか。
「ロウエンの言葉には親しんで来なかったか?」
不審に思うが、平静な振りをして首を振った。
目の前の男には私の不審も見透かされているに違いないが。
「両親は?」
何なのだろうか。答えねばならないのだろうか。
「幼い時分に他界しております」
「そうか」
男が本心の分からぬ爽やかな顔で笑いながら言った。
「ジュジュとは本来、人名に使われる言葉ではない。ロウエン国内ではまずないだろうな。自分の名と、名付けた親を愛しなさい」
怪訝な顔をしていただろう私の目を、微笑む男の目が真っ直ぐに捉えた。
射抜かれる様な視線に息をのんでいると、予想もつかない言葉が紡がれた。
「ジュジュとは、愛しい人、可愛い人、と言う意味で愛する者に呼びかける為の言葉だ」
固まった私の頭を軽く叩いて立ち去った男が、私の反応にどんな表情を浮かべていたのかを窺う余裕はなかった。
名付けた親を愛せと言われたが、私にジュジュと言う仮の名を付けたのは親ではなく、兄さんだ。
毎日幾度もジュジュと呼ばれている。
身分を偽っていることを私に思い出させる為に、皮肉も含めてわざわざ仮の名で呼ばれているのだと思っていた。
だけど、もし兄さんがこの言葉の意味するところを知って私に呼びかけているのだとしたら。
意味を知ったうえで、私にこの仮の名を与えたのなら。
私は兄さんに、家族として愛されているということにはならないだろうか。
思わず期待に胸が高鳴った。
でもすぐに、兄さんが私を避けてソファの端に寄った姿が脳裏によみがえった。
やるせなくてお腹が痛くなり、次いで溜息が漏れる。
呼び名が何なのよ。兄さんが意味を知っているとも限らない。
知っていたって、その名を付けたこと自体が嫌がらせかも知れない。
兄さんの目と態度が全てを物語っている。
兄さんは私を憎んでいる。
分かっているはずなのに、私を期待させ混乱させる余計な知識を、私に植え付けていった男に腹が立った。




