22 悲しい顔
「お帰りジュジュ。楽しかったかい?」
部屋に戻った私に、兄さんがソファから尋ねた。
「うん。明日も遊ぶ」
「王子と友達か。お前いきなり出世したな」
ジョエが自分のベッドに寝転がっていた。
「ジョエ。あれ臭かったんだからね。もう汚れ物溜めないでよ」
そう言うとジョエが悪びれずに笑った。
「悪い悪い」
「もう。王子なんてあれを頭からかぶってえずいてたわよ。可愛そうに」
ジョエが馬鹿笑いをする。
「すげえな俺」
溜息を吐いて兄さんを見た。
「何かすることある?」
兄さんが笑んだまま緩く首を振る。
「昼食まで本でも読んでたら?」
「うん。そうしようかな」
いい口実が出来たと自室に引っ込もうとするが、その自室のドア近くのベッドから私を見上げていたジョエに通り過ぎざまに腕を掴まれた。
「何?」
「こっちの台詞だな。お前泣いて来たのか?」
ジョエの腕を軽く振り払う。
「泣いた。臭すぎて涙が出た」
そう言って、さっさと部屋に戻った。
息苦しい。
幼い顔立ちの兄さんが、可愛らしい顔を歪めて辛そうに涙を流していた。
どれだけ密着しているのだろう。
鼻先が当たりそうな程近くから兄さんの濡れた目に見つめられ、きつく口を塞がれていた。
自分が何を言いたいのかも分からなかったが、無性に叫びたかった。
ここから飛び出して、何処かは分からないその場所に行きたいと言う強い欲求と焦りがあった。
私を羽交い絞めにしてそれをさせてくれない兄さんに、酷く腹を立てていた。
兄さんの吸い込まれそうな目から溢れ、零れ落ちてくる大量の涙が、私の顔を濡らす。
幼い兄さんは、子供のものとは思えない程に、悲しい顔をしていた。
痛い程強く押さえつけられたまま位置をずらした兄さんの手の平が、私の呼吸の全てを奪った。
「イリ」
苦しい!苦しい!止めて!兄さん!
「イリ」
身体を揺すられる感覚とともに、意識が覚醒した。
乱れた呼吸に上下する胸を押さえ目を開くと、すぐにジョエの顔が見えた。
ほっと息を吐く。
夢だった。昼間兄さんのことで泣いたせいか、久々に嫌な夢を見た。
「大丈夫か」
暗がりの中私の顔を真上から覗きこむジョエが、分厚い手の平で私の頬を拭った。
涙と冷や汗でびっしょりと濡れている様だった。
「うん、ありがとう。でも、女の寝室に勝手に入って来ないでよ」
何気なく言ったつもりだったが、自分でも驚くほど声が震えていた。
ジョエが優しい顔をして、私の前髪をかき上げる様に頭を撫でた。
「お前の兄貴に行けって命令されたんだから、勝手じゃねえ」
「そう」
私がうなされていることに気付いていたくせに、ジョエに任せるなんて。
兄さんの声に名前を呼ばれたと思ったが、勘違いだったようだ。
あの夢の中の兄さんは、一度だって声を発したことがない。
勿論現実にあれが起こった時もそうだった。
兄さんは涙を流しながら唇を引き結び、一言も話さなかった。
兄さんはかつて、私を殺めようとした。
例え幼い妹を愛していたとしても、飢えに絶望したからでも、死なせるには至らずその後自らを犠牲にして養ってくれたとしても、兄さんがかつてそうしたと言う事実が覆ることは無い。
夢によって鮮明によみがえった兄さんの悲しい顔を思い出し、未だふるえる息を吐いた。
「怖い夢でも見たか?えらくうなされてたぞ」
ジョエが熱い手の平で私の顔をもう一度拭ってくれた。
自分でも寝間着の袖で両頬を拭う。
「うん、もう平気」
ジョエが夢の内容を話そうとしない私に怪訝な顔を向けているのは分かったが、そうする気にはならなかった。
10年かかってようやく薄れかけていた出来事を、今更鮮明にしたところでいいことなどないだろう。
「顔洗って来る」
「おう」
ジョエが大きな手で私の頭をぽんぽんと軽く叩き、ベッドを軋ませて立ち上がった。




