11 そして兄さんはそれを出来ない
「ええと、この辺かなあ」
言語の成り立ちや、言語教育、海を越えた地域の言葉を研究した本などの表紙を眺める。
「お前すげえなあ」
ジョエが感心した声を出すので後ろを振り向いた。
「そんな本普通に読めるんだろ?同じ場所で育ったのになあ。信じられねえよ」
え?よく意味が分からず怪訝な顔をした私に、ジョエが怪訝な顔を返す。
「俺らはそんな本読めねえぞ?お前もしかして、普通のことだと思ってんじゃないだろうな」
「ジョエが本を好きじゃないのは知ってるけど」
俺らって?もしかして兄さんのことだろうか。
自分が酷い顔をしてしまう嫌な予感がしたので、慌てて本棚に視線を戻す。
ちょっと待って。俺らはそんな本読めないって、この本は兄さんに選んでいるもので、でも、ジョエだけじゃなくて兄さんも読めないってこと?
兄さんが、私が読める本を読めない?
そんなことがあるだろうか。
嫌なことに思い当たりそうで、血の気が引いて行くのを感じた。
「俺は兵学校で少しだけ習ったから、なんとか簡単な字は読めるけどよ。あいつは学校自体行ったことねえからなあ。自分で勉強はしてるかもしれねえけど、大して読めねえと思うぞ。読めたとしても俺と同じようなもんだろ」
読めないんだ。当たり前だ。兄さんは学校に行ったことも、勿論教師についていたこともないのだから。
そんなこと分かってたことじゃない。
文字なんて習ったことないんだ。
分かり切っていたのに、これまで考えたこともなかった事実に愕然とした。
自分が兄さんに当たり前の様に与えられ、こんな押しつけがましいものなんて要らないとまで思っていた教育の中に文字も含まれていた。
当たり前じゃなかったんだ。要らないものじゃなかった。
兄さんが私に学ぶ機会を与えてくれていなかったら、私はここで夢中になって本を読むこともなかったんだ。
そして、兄さんはそれを出来ない。
生きて行く為、私の教育の為に自分を犠牲にして働いて、その私に学校なんか必要ない等と非難をされて、さぞ腹立たしかったに違いない。
その後も結局卒業までさせてもらったのに、それでも私は兄さんに対して後ろめたさを感じるのが嫌で、その酷い態度のままだった。
そうじゃなかった。兄さんに感謝すべきだったのだ。
唇を噛んで涙が零れ落ちそうになるのを必死でこらえ、自分用に言語教育の為の本を引き出した。
それから、少し離れた棚へジョエに背中を向けたまま移動し、文字の練習用の本を探した。
少し迷い、初歩的な内容のものともう少し高度なものとを選び出した。
こっそり目元を袖で押さえて、息を吐いて、ジョエの座る椅子に戻った。
「どっちがいい?」
二冊をジョエに差出し、テーブルの上で開いて見せる。
「は?俺?」
「そうよ。兄さんと一緒に教えてあげる。早く決めて。ご飯なくなっちゃう」
「冗談じゃねえ。今更勉強なんてしたくねえよ」
ジョエが死ぬほど嫌そうだ。
「どうせ暇でしょう?字はちゃんと読めて損はしないわよ。おばさんが書面で誤魔化されて役人に土地を取られたことがあったでしょう?ジョエが難しい文章も読める様になればあんなこともなくなるわ。そうでしょ?」
「ああ?あー、まあ、そうだな」
当時を思い出したジョエが怒りを顕にして頷いた。
「私も性格の悪い金持ちに口げんかで負けない語彙と知識が欲しい。それにおばさんを守れるように役人や地主より賢くなりたい。せっかくこんなに良い環境があるんだもの、一緒に勉強しよう、ジョエ」
ジョエの腕に手をのせ説得しようと試みるが、嫌そうな顔のままだった。
「じゃあ、お前が俺の分まで勉強して賢くなれ、そんでお袋と一緒に住んでくれよ。そしたら安心だろ。俺も勉強しなくて良いしよ」
「はあ?駄目よ、もう良いや。取り敢えず帰ろう。早くご飯いかなきゃ私の分なくなっちゃう。貸し出しの手続きして来よう。あ、ちょっと結局どっちにすんの?」
ジョエが悪びれず笑う。
「分かんねえよ。何習ったのかも覚えてねえし」
「はあ?あーもう。どっちも借りよう。とにかく早く帰らないとご飯が。お腹減ったし。ねえ先に走って帰っててよ。ご飯運んどいて」
「何言ってんだよ。一人にしたら最後、帰って来れねえだろう?俺は迷子の回収業者じゃねえんだよ。小せえ頃ならまだしも今は止めてくれよ。慣れねえ土地じゃ回収するにもこっちがひやひやすんだよ」
ジョエが呆れた様に椅子の背に肘をついて私を見上げた。
「子供じゃないから大丈夫だって。ご飯がなくなちゃうじゃん」
不意に棚の影から低い笑い声が聞こえた。
噛み殺し損ねて吹き出してしまって、取り返しがつかなくなったという風だった。
ジョエが立ち上がりざまに私を引っ張って自分の身体の後ろに庇い、棚の奥を覗いた。
「悪い。いや、聞くつもりはなかったんだがな、面白くて。昼飯は大丈夫か?早く行った方が良いんじゃないか?」
低い落ち着いた男性の声が、ジョエの大きな背中の向こうから聞こえた。
穏やかで楽しそうな声音に、ジョエの背中から顔を出し男を覗いた。
30過ぎくらいの精悍な顔つきの男が、目を細めながらジョエから私へと視線を移し、笑顔のまま表情を固めた。
私の髪色に対しての嫌悪感だろうか。王都に来てからはなかったあからさまな態度に眉をひそめると、すぐに男が穏やかな顔を取り戻した。
「昼飯は良いのか?」
そうだった。
「じゃあジョエ、私手続きしてくるからね」
「ああ、俺も行く」
自分の手の中の本に視線を落とした男をその場に残し、立ち去った。




