All's fair in love and war.
「……まずいなぁ」
俺が淹れたコーヒーを口に含むと、彼女は物憂げに呟いた。
「悪かったですね。まずくて」
「……え? あ、いや、コーヒーの話じゃなくて!」
カン、と高い音を立てて置かれたカップから、黒い滴が飛び散る。しかしそんなことは気にする様子もなく、彼女は続けた。
「帝国の軍、うちの三倍近い規模なの。早く作戦立てなきゃ、もうもたない。長くても、あと一ヶ月ってとこかしら」
そう言って胸ポケットから何やらメモのようなものを取り出す彼女は、俺が所属する王国軍、期待の新人軍師様だ。新人といっても、俺のひとつ上の三年目。ふらりと休憩室にやってきてコーヒー片手にペンを採る姿は、ベテランのそれだ。
「そんなやばい状況なら、執務室なり司令室なり行ったらどうですか。資料とか揃ってるのに」
「司令室のパソコン様は便利だけどね。奴のせいで飲食禁止なのよ。カフェインがないと仕事できない」
「中毒ですか」
「中毒ですよ」
年相応の柔らかな笑顔。普通に就職すれば、普通に恋人ができて、普通に幸せになれただろうに。軍に来てくれなければ出会えなかったけれど、しかしそれを恨めしく思わなくもない。
こんなところに来なければ、彼女は普通の幸せを手に入れられていて、俺はこんな思いをせずにいられていて――いや、しかし、この国は滅んでいたかもしれない。
彼女はこの国の救世主にして大事な大事な司令官で、俺はいくらでも替えのきく兵士その一。怪我で前線を離れている今は、もはやただの税金泥棒で雑用係。
――遠いなぁ。
「おまえ! 毎日のように休憩室で喋ってんのに遠いとか! もう軍隊やめろ、クソ!」
……相談相手を間違えただろうか。
しかし同室の友曰く、何かと出会いの少ない職場である。そう思えば、俺は幸せなほうなのかもしれない。傍から見れば。
「でも、俺じゃ彼女と釣り合わないどころのレベルじゃないぞ」
「それは……そうだけど、だからこそ、今の環境に感謝しろ。贅沢言うな」
「ハイハイ」
未だ後ろで文句を言う友人を無視して、ベッドに潜り込んだ。こいつと話していても大した益はない。
しかし納得いかないのか、友人は二段ベッドの下から、俺の背中を蹴飛ばしてくる。木板越しとはいえ腰に響くので、仕方なく口を開いてやった。
「もっと普通の場所で出会ってれば良かったんだけどなぁ」
「んなもん、今更言っても仕方ねーだろ! おまえが今から普通の場所に連れていけばいいじゃん」
「はぁ?」
足癖だけでなく頭も悪いのか。こいつは。
「寿退社だよ! 退社? 卒業? 脱退? ふたりで愛の逃避行と行けばいいじゃねーか!」
「どこからツッコんだらいいのか分からないが、無理に決まってるだろ……この国の救世主だぞ」
「おまえが彼女の、彼女だけの救世主になれ!」
「彼女は仕事に不満があるわけじゃないんだから、救世主どころか邪魔者だよ。ばーか」
バカの単語に反応する友人より一拍早く、部屋の電気を消した。
やっぱり、どうしようもない。俺は今の環境に満足して、それで終わるべきなんだ。
「……諦めんなよ。ばーか」
墨を流したような暗闇の中、友人の低い声が静かに響いた。
* * *
「無きにしも非ず、って感じねぇ」
予想外の返答だった。
ふと昨夜の友人の言葉を思い出して、思い切って訊ねてみた。現状をどう思っているのか。不満は、あるのか。
「私だって君みたいに前線で戦いたかったのよ。今の仕事もやりがいはあるけど、時々つらいの」
「……つらい?」
もしかすると、俺は本当に『救世主』になれるのだろうか? そんな想いが頭をよぎった。
そんな俺の心を知ってか知らずか、彼女はどこか遠くを見つめて淡く微笑む。それはまるで、鳥篭に囚われながらも大空に憧れる美しい小鳥のようであり、俺には傾国の美姫のようにも見えた。
「つらいよ。私の采配ひとつで何千って命が失われることになるかもしれない」
「辞めたいとは思わないんですか」
言った。
しかし、もしもイェスと返ってきたら、俺はどうする? 救世主を気取って、手と手をとって逃げ出すのか? 逃げ出してどうする? そんな状態でまともな就職先はあるか? 彼女を守っていけるか?
ノーと言ってほしいと、心の奥底で思った。
「どっちもどっちかなぁ。この責任から逃れられるものなら今すぐにでも逃げ出したいけど、今が一番、この国に貢献できてるっていうのも事実でしょう? やっぱり私は、国のために身体張ってたいかなぁって」
そう言って再び彼女は微笑む。彼女は鳥籠の扉が開いていようと、自ら飛び立つことはないのだ。ここで一生を終えることに、何の抵抗もない。
なんて強いんだろう。
彼女は俺なんかが振り回していい人じゃないんだ。こんな小さな恋心なんかのために。
「あなたらしいですね」
もう、終わりにしよう。
俺も目一杯の微笑を返して、休憩室を後にした。
「というわけで、今までお世話になりました!」
ガバッと勢いよく下げた頭を上げれば、ぽかーんと口を開けた友人の顔。
「ど、どういうことだよ! 何がどうなったら、昨日の会話からそうなるんだ! 俺、何か、そんな」
「別におまえのせいで辞めるんじゃないよ。昨日のお前の話を聞いて、彼女と話して、辞めようって思った」
怪我のこともあるしな、と付け足せば、友人はぐっと唇を噛む。同じ兵士だからこそ分かる、この言葉の意味。今の俺は必要とされていない。
これ以上は何も言えないのか、友人は昨日の俺のようにベッドに潜り込む。いつもなら大きい背中が、ひどく小さい。
そんな背中を向けられたまま、これまた消え入りそうな声で問われる。俺のほうが泣きそうだった。
「彼女には言ったのか」
「明日言うよ。それで、そのまま出て行く」
返事はなかった。明朝、こいつと話せるだろうか。今の会話が最後になってしまうのだろうか。
数分後、友人が静かに寝息を立てているのを確認してから、俺は携帯に手を伸ばした。俺の番号は送らずに、友人の番号を自分の携帯に登録して、俺もベッドへ入る。
このベッドも、毛布も、何もかもが最後だ。
俺の恋も、明日で終わり。
* * *
「おはようございます」
次の朝、休憩室には既にコーヒーをすする彼女の姿があった。
「おはよう。ねぇ、昨日はどうしたの? いきなりあんな話して」
「えぇと……確認、です。自分の心の」
彼女は一瞬きょとんと不思議そうな顔を見せたあと、ふっと俯いた。伏せられた睫毛が真っ白い頬に影を作り、それはまるで計算しつくされた芸術品のように美しかった。
「そっか。君もまた私の采配ひとつで変わっちゃうんだね」
「……はい?」
「話、聞いたの。今日でお別れでしょ? 昨日の私の話のせい?」
「あなたのせいではないです。強いて言うなら、俺のせいです」
その会話とは不釣合いな真剣な視線が、静かに炎を立ててぶつかるようだった。自分の想いと相手の想いが噛み合わないもどかしさが、ひしひしと伝わってくる。
俺は彼女の言葉のせいで辞めるんじゃないのに、彼女は自分のせいで俺がやめるのだと思っている。
いや、仮にそうだったとして、何の問題がある? コーヒーを淹れる雑用係がいなくなるだけだ。
前線に立てない俺は彼女が抱えている『数千の命』のひとつじゃないのに、どうして彼女は――こんな悲しそうな顔をする?
「俺の、せいです」
この心が痛くて痛くて仕方ないのも、彼女の頬を涙が伝うのも、全部俺のせい。
「俺が弱いからです」
「……うん」
否定されない。お世辞でも否定できない。だってそれが紛れもない事実だから。
「でも、だからこそ、君が卒業するべきはここじゃないと思うんだよ」
突然の彼女の言葉に首を傾げた。
「ここ以外に、どこを卒業するんですか?」
「……ばーか」
軍師様のお言葉は、俺が理解するには難しすぎるのだろうか。やっぱり俺と彼女じゃ生きる世界が違うのだろうか。
なんだか居たたまれなくなって、すぐにでも踵を返したかった。でも、そんな中途半端な状態で終わりたくもなかった。俺は無い頭をフル回転させて考える。
しかし無いものは無いもので、見かねた彼女が苦笑しながらも口を開いた。
「ヒントをあげよう。……私は」
そこでしばらくの沈黙が訪れる。私は、何だ? これがヒント? でも、彼女はまだ何か言いたげに俯いている。黙って、じっと待つ。
「私は、君のこと、嫌いじゃなかったかな」
* * *
「よぅ」
部屋から出てきた友人に小さく手を挙げて挨拶する。
「……えぇぇ! おまえ、なんでいんの? 辞めたんじゃねーの? 辞めることすらも許されねーの?」
「辞めることすら許されないって何だよ! 辞めるには辞めた、って言ったら殴られるかなー。現役兵士に殴られるのはまずいなー」
「わけわかんねぇこと言ってんな。彼女に影響されたか」
「少しは」
「うわぁ」
何事もなかったかのように交わされる会話が心地よかった。俺はなんて素晴らしい友人を持ったんだろうと、改めて思った。
「で? 結局どうなったの、おまえ」
「まだしばらく雑用係やるよ。で、そのうち司令室にでも異動届出す。この身体でも仕事できるとこ」
「ふーん。で、何を辞めたんだよ。酒とか煙草とか言うなよ」
「どっちもやってないだろ。そうだな、強いて言うなら……」
弱虫な自分を卒業した、と満面の笑みで告げたら、案の定殴られた。