(2)
今、俺は学校から家に帰る道を歩いている。高校のかばんを背中に背負うように持ち、足が地面に着くたびに揺れている。道路にはたまに自動車が通るくらいで他に雑音はなく、時折暖かい春風が頬をなでるときの音が耳に届くぐらいだ。
伊々座御高校は家から徒歩で10分もかからないほど近いところにある。そもそもそれが理由でここを選んだ。伊々座御高校の偏差値はさほど高くもなく、俺の学力でも問題なく入れそうだったのも理由の一つだ。俺は行かないからよくは知らないがカズやユミの話によると駅からも近く交通の弁が良いらしい。
家に着くと俺はドアノブをひねり、ドアを開けた。それと同時か少し遅いくらい時に「ただいま」と言って家に入った。
直後、目の前の異様な光景が視界に入った。広げられて箱状になった中にいろいろなものが入っているダンボール箱が散乱し、広げられずにまだ分厚い紙の板のままの状態のダンボールが玄関の壁に掛けられていた。
一瞬あまりの混乱に気が遠のきそうになったのを何とか堪えると、奥のリビングから声が聞こえた。
「おかえりなさい」
生まれてからずっと聞き続けてきた声の主に俺は告げた。
「母さん、まだ用意終わってないじゃないか」
玄関からみて右側にあるリビングに移動した俺はため息をついてから言った。
「なんで終わってないんだよ。時間はいっぱいあったろ」
足を曲げ地面に座っていた母親は用意をしていた手を止め、長い黒髪をなびかせながら振り向き答えた。
「だってあの人と電話してたんだもん」
あまりにも予想通りの答えに俺は思わずため息をついてしまった。
俺の母親、向井恭子の言うあの人というのは親父のことだ。一軒家に引っ越してから数ヶ月が経った頃からよく出張でいろんな国に行くようになり、しかも家に帰ってくるのはいつも深夜を過ぎている頃なので、この9年間ぐらいはリビングに飾ってある俺が小学校に通う前に両親と三人で撮った写真以外はほとんど全くと言っていいほど顔を見ていない。たまに顔を見てもいつも出張先で買ってくるお土産を渡すと、ほんの少しだけ話し、すぐに自分の部屋に行ってしまう。お土産は大抵の場合、俺は母さんから手渡されるかそうではない時はテーブルに置いてあるので、そういう時には少し話す。お土産といっても御当地の品物や骨董品がほとんどで、俺もシデンタもそんな物はいらないのでリビングに飾ってある。
そんな父親だがなぜか母さんとはこれでもかというほどにとても仲がいい。先月から会社の都合で親父がアメリカに転勤になった時に、母さんは自分もいくと言って聞かなかった。俺は高校が始まったばかりなので転校する気はなく、さらに仲の良い二人を離れさせるのも気が引けるので、一人で残ると伝えると、両親は、お前はもう子供じゃないから大丈夫、ということで俺の一人暮らしを認めてくれた。結果、母さんは後からアメリカに行くことになり俺はこの家で一人暮らしすることになった。それを学校の休み時間にハヤっちゃんに話すと心配されて呼び出された。
母さんは昨日までもずっとアメリカにもっていくものを用意していたのだが何かする前にいちいち親父に確認し、その後になぜか夫婦仲良く話しこんでしまうのいつまでたっても用意が終わらない。いよいよ明日日本を発つとういう時になってもこれだ。準備がいっこうに進まない。
親父と電話ということはこの真っ昼間から電話していたということになる。相変わらずの仲のよさに驚きを通り越して呆れてしまう。
真っ昼間ということは、親父は会社にいるはずだ。俺は「親父は今この時間は会社にいるだろう」と言いかけて、時差のことを思い出して言うのをやめ、代わりに呆れたように言った。
「そうっすか」
「あっ、そうだ。なんか保存できる日本食買ってきてくれない?」
とても大事なことを思い出したのかあわてながら、首を傾げ、両手を合わせて俺に尋ねた。
「何でそんなものいるんだよ」
「あの人、日本食が恋しくなってアメリカにある日本料理店に行ったら味が濃くておいしくなかったんだって。早くお前の料理が食べたいって言ってた」
照れたのか顔を赤くしてそれを覆い隠すように両手で頬に触りながら話を続けた。
「でもずっと同じ味っていうのもどうかと思うからそういうものを買おうと思っていたの。だから買ってきてくれない?」
母さんはとても楽しそうに語った。
はいはい、のろけ話は結構ですと流すわけにもいかず、この恋する乙女に何を言っても無駄だと思い、俺は代わりにため息をついた。
「もしくは母さんが買いに行くから用意しといてくれる?」
別に用意するのが嫌いというわけではないが、そうすると母さんはさっさと買ってきて、帰ってきたら用意にはそれほど手をつけずほぼ確実に親父の惚気話をするだろう。親の惚気話というのは聞いていて気持ちの良くなるものではない。だったら俺が買いに行って適当に時間をつぶしたほうがよいだろう。
「はー、いいよ俺が行ってくるよ。だから用意していてよ」
今までの中で一番大きなため息をつき俺は答えた。
俺が近づくと透明なガラスでできた自動ドアがひとりでに開き、コンビニ特有の音が耳に届いた。
『ほんと、あの惚気はどうにかしてほしいな。聞かされるこっちの身にもなれってんだよ』
もう一人の俺がつらそうに脳裏で囁いた。さすがに人前でこいつと話すわけにもいかず、俺は苦笑いをしながら軽く流しコンビニに足を入れた。
コンビニには惚気話をするしつこい人はいなくて、とてもまったりとしていた。ファッション雑誌らしき本を読んでいる女子学生、高級そうな財布からお金を出して定員にお金を払おうとしているお腹の少し出て少し小太りな中年、部活帰りなのか暑そうに汗を吸った制服を持ち上げパタパタと風を起こしながらスポーツドリンクを手にしている男子学生。そんな中を俺は一人でカップ麺売場へと足を運んだ。いろんなメーカーの商品がある中俺は適当に数個を買った。
「ありがとうございました」
コンビニの定員の言葉を適当に聞き流しながら俺は外に出た。
すぐに異変に気付いた。家に向かっている途中の道で変化が起こった。
いつからそうなっていたのかはわからないが周囲が一変していた。辺りが薄暗くなっていたのだ。空が雲に覆われているというような暗さではない。実際空は雲に覆われているのだが、それ以上に暗い。景色から色が落ちている、そんな感じだ。周りの建物などはそのままある。だが全体的に暗くなっているのだ。しかも暗くなっているにもかかわらず、よく見える。遠くまで見られるというわけではなく、把握できると言ったほうが自然かもしれない。それに風が全く吹いていないのである。空気が、時間が止まっているとしか言いようがなかった。
風景以外にももう一つおかしいことがある。人が一人もいないのである。この時間帯ならば部活で帰りが遅くなった学生たちが下校していてもいい時間なのに、学生どころか人が誰一人として見当たらない。
直後、目の前にあった高層ビルが煙を上げて轟音とともに崩れ去った。
目前の光景に驚く暇も与えず一人の大きな人間が煙の中から走り出してきた。いや人間ではない。背中から生えているコウモリのような黒い羽をはばたかせ、時折、後ろに振り返りながら俺のいる方向めがけて地面すれすれに飛んでいた。
黒光りするコウモリのような羽、どんなものでも斬り裂くことができるような爪。2メートル近くある巨体を薄い羽だけで浮かせ、へんな妙気をまといながら近づいてきたそれは、まさしく悪魔と言うにふさわしかった。
悪魔のほうを凝視していると何かから逃げるようにおびえながらこちらに飛んでいる悪魔と一瞬目が合った。そのとたんに悪魔は唇を吊り上げ、奇妙な笑みを浮かべると右手の甲を俺に見せるようにぎらつかせ爪を立てながら、俺めがけてスピードを増して俺めがけて飛んできた。
その悪魔を追うように煙の中から何かが飛び出した。美しく輝く白い翼、高位な位の人が身にまとうような華麗な服。先ほどの悪魔とは正反対で神々しくおもわず見とれてしまいそうになるほど美しかった。天使は一度翼をくっつきそうになるほど背中に引き寄せると一気に下へと振り下ろし大きく上に飛んだ。
――一体何がどうなってるんだ。
俺は何が起こっているのか理解できずに判然としていた。俺の混乱などお構いなしに悪魔は俺との距離を縮めていく。
5メートルほどのところで悪魔は爪を立てた右手を後ろに引き、俺を突き刺そうとした。
しかし、俺は突き刺されなかった。
その代わりに、悪魔が音もなく崩れ去るかのように黒い煙となって空中へと散漫した。
理由はすぐにわかった。天使が持っていた剣で悪魔を切り裂いたのだ。
近くで見る天使からは一切の情も感じられず天使というにはほど遠かった。
「ちっ、逃げ足の早い奴め」
天使は悔しそうにそう言った。
その言葉の意味を考える間もなく、天使はその右手に握っている剣を俺に向け、言った。
「何者だ、お前」
その声はどんなに遠くからでも聞き取れるほどに透き通っていた。だがどこか懐かしいような感じもした。それと同時にスミレ色の瞳が俺をじっと見つめていた。
半分声に魅せられて、半分剣におびえて、俺は反射的に答えた。
「向井巧だよ。だからその剣をおろしてくれ」
「名前を聞いているのではない。何をしたと聞いている」
「何もしてない。だからその剣をおろしてくれ」
「とんだほら吹きだな」
そう言うと天使は剣の先を俺の喉元にあてた。瞬間チクッと首に痛みが走り、血が首を伝わるのが感じられた。
「もう一度聞く。お前は何者だ」
「ただの高校生だよ。だからその剣をおろしてくれ」
その瞬間に辺りが一気に明るくなった。どこから湧き出てきたのか大勢の人が通りを歩いていて凶暴な天使はいつの間にかどこかに消えていた。
――駄目だな、最近。たるんでる。授業中に寝るわ、天使の幻覚を見るわ。
ため息をつくと俺は重い足を持ち上げ、家へと歩き始めた。