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八章

国立病院の救急外来に、加賀美に付き添い救急車で飛び込んだのは、すでに午後は十一時を回った頃だった。

医者に、加賀美の病状についての説明をひととおり終えると、俺は、かねてからの裏指令を果たすべく所長に連絡を取った。送話口の向こうの所長は、あたかも百年越しの恋人に会えたかのような嬌声を上げて俺の話に応じた。

『いやーん! やっと会えるゥ!』

そうして今、俺と桂木はずぶ濡れのまま、待合室の長椅子に肩を並べている。

「お前、どうしてあんなところに?」

俺は、無言のまま隣に腰掛ける桂木に問いかけた。桂木は、思い出している、というより、言うべきかどうか迷っているといった様子で目を右往左往させ、ややあって、何かを決し、声を紡ぎ出した。

「所長の、指示です」

「所長の?」

白い顔が頷く。

「尾行の卒業演習だ、と所長は言っていました」

桂木の話によると、今日の夕方、俺が会社を出ると同時に、所長の言う“実習”は始まったらしい。なんでも、俺には内緒のまま桂木に俺を尾行させ、退社後の行動――つまり、真澄さんとのあんな事やこんな事を逐一報告させていた、という。まぁ、大体そんなコトだろうと思ったけど。

それにしても、桂木の成長の早さと勘の良さには本当に恐れ入る。一応この仕事で飯を食う俺に、全く気付かれずに尾行を続けていたのだから。

「何か、飲むか?」

俺は尻ポケットから財布を取り出しつつ、暗いエントランスの片隅で下品なほど燦然とした光を放つ自販機を指差した。桂木は振り返るなり「あったかいおしるこ」とオーダーした。生憎今は夏で、そんな気の利いた商品は置かれていないのでは、などと思いつつ自販機に歩み寄ると、何故か運良く、あったかいおしるこは販売中だった。そいつを二缶買い、桂木の隣へと戻る。

よっぽど寒かったのだろう。俺から缶を受け取ると、桂木はそれを開けることなく両手でしっかりと包み込み、貴重な暖を取り始めた。

一方、俺は早々にプルトップを開け、しるこを一口すする。

「安藤さん」

不意に桂木は、手元の缶にじっと目を落としながら切り出した。

「ケイの言っていた事、本当なんですか?」

「え……?」

「さっき、ケイが言っていた事です。力を使う事が好きだとか、快感だとか」

本当だ。何もかも、全て。だが、そんな事を桂木に言ってどうする。

「……まぁ、多少は……」

俺は言葉を濁した。

「そうですか」

桂木は、手元で缶を弄びながら口をつぐんだ。

「がっかりしたか? 俺に……」

言いながら、俺は桂木の糾弾を待ち受けた。力の快楽に溺れる者を容赦なく攻め立てる、桂木の辛辣な言葉を。

――だが。

「きっと、ケイの方が、私なんかよりずっと安藤さんの事を理解しているんでしょうね」

「は?」

その返答は、あまりに意外なものだった。

振り返った桂木は、苛立っているような、拗ねているような顔をしていた。小さな口をついと尖らせたその表情は、大人びた桂木には珍しく随分と幼く見えた。

「それは……考え過ぎだよ」

「そうでしょうか……? きっと、安藤さん達にしか分からない事が、あると思うんです。私みたいな、普通の人間には踏み込めない事が」

再び桂木は口を尖らせた。

「あいつの言った事なんか、気にするなよ」

「……だって」

「だって、何だよ?」

「悔しいじゃないですか。こんなに近くにいるのに、私、安藤さんの事を何も知らない。どんな事を考えて、どんな風に景色を眺めて、どんな気持ちで生きているのか……何にもわからない。それって、とても悔しいじゃないですか」

「仕方ないだろ。俺とお前は他人なんだから」

「じゃあ、ケイは」

「あいつは特殊なんだよ。鏡を挟んでお互いを眺めているような、そんな感じだ。だから、お互いにいろんな事がわかってしまう。分かろうとして分かるんじゃなくて、分かってしまうんだ」

「……ずるいです、そんなの」

「は?」

「ずるいです! 私の事は他人だからって突き放して、ケイには分かってしまうだなんて、そんな言い分は不公平です」

「さっきから、一体何が言いたいんだよ」

その時、黒水晶の瞳が、突如俺に光を向けた。

「私、もっと知りたいんです!」

「……は?」

「だから、もっと話して下さい。安藤さんの事。今までの事や今の事、その力の事や……その、ま、真澄さんとの事も……もっと、もっともっと」

「そんな事、知ってどうするんだ」

「だ、だって、私……」

桂木はそこで、はたと口を閉ざすと、顔を真っ赤にしてぷいと顔をそむけた。

しるこの缶を開けながら、ぽつりと呟く。

「その、……あなたの部下ですから。仕事の……」

桂木は、缶をあおり、ぐびぐびとしるこを飲み始めた。

「は、はぁ……?」

どうして、仕事をするのに俺の過去や真澄さんの事が必要なのだろう。

その時、海底を思わせる待合室の静寂が、突如大きく震えた。喧騒と共に夜間通用口方面からずかずかと現れたのは、今回、間接的に俺を救った恩人の一人でもあり、同時に余計なお世話の首謀者でもある当の本人であった。

「いやぁ、まさかこんなに早く、たっくんに会えるなんて思わなかったわぁ!」

目を遣ると、今まさに薄暗い闇の向こうから、二つの人影が浮かびつつある所だった。

「所長! 水城さん!」



加賀美への処置がひととおり終わり、奴が眠る個室にようやく目通しを許されたのは、午後も十二時を随分回った頃だった。

「いやーん! 生で見るとつくづくいい男!」

白いベッドに横たわり、点滴と何本ものケーブルに繋がれて弱弱しい姿を晒した加賀美を見るなり、所長は場違いな嬌声を上げた。

「所長、どうか自重して下さい」

一応病院なので、と諌めると、所長は俺をじろりと睨み上げ口を尖らせてぶうたれた。

「いいじゃないのさ、あたしゃ飢えてんだよ! イケメン分に飢えてんの! あー、早く補給しなきゃ!」

言いながら所長は、人形のような顔で眠る加賀美の脇に駆け寄り、寺で線香の煙を浴びるオバチャンよろしく、イケメン分とやらを手扇でぱたぱたと自分に浴びせ始めた。

「あー、森林浴森林浴」

「所長……」

呆れて、もはやツッ込む気にもなれない。

「う、ううっ」

微かに加賀美が呻く。ひょっとして、本当にイケメン分とやらを吸われて苦しがっているのか? と、余計な心配をする俺をよそに、加賀美はゆっくりとその薄い瞼を開いた。

「こ、ここは……?」

「あら! おはよう、たっくん!」

「た、たっくん……?」

明らかに混乱している。そりゃそうだろう、目を開いたらいきなり枕元に見慣れない女がいて、自分の事を奇妙なあだ名で呼んでくる。混乱しない人間がいたら、そいつはよっぽどメデタイ阿呆か、聖人君子に違いない。

幸いメデタイ阿呆でも聖人君子でもなかった加賀美は、自分を取り囲む大小不揃いな人影を見渡し、やがて俺に焦点を絞った。

「お、お前が、どうしてここに」

「お前と一緒に、救急車に乗り込んで来たんだ。さっきは悪かった、そして、ありがとう。こいつを――桂木を助けてくれて」

「どうして、お前がここに」

意識が混濁しているのか、加賀美は俺を見つめたまま、うわごとのように繰り返した。

「へ、変か? 確かに、さっきはあんな事になっちまって……そんな俺に助けられるのは不本意かもしれないけど」

「戻ったというのか……? まさかあの状態から」

俺を見る加賀美の目は、驚愕に満ちていた。

「いや、そんな筈はない。あれほどまでに堕ちた人間が、戻るなどありえない。ありえない。いや、あってはならない、あってはならないんだぁ!!」

「か、加賀美!?」

「たっくん?」

やおら加賀美はベッドを跳ね起き、体中に取り付けられたセンサーや点滴の針を引き毟ると、並み居る驚きの目を意にも介さず、怪我人とは思えない力強い足どりで俺に歩み寄ってきた。

病室に、制止を呼びかける所長の声と、観察対象を失ったセンサーが鳴らすリズムを持たない電子音が響く。

「ありえないんだ!」

遠くからも感じ取れる程の膨大な熱を放ちながら、加賀美はその手を俺の首元へと伸ばした。先程の償いだ、と、俺は目を瞑り、その手を甘んじて受け入れた。が――。

「やめてください、ええと、加賀美、さん」

その手の前に、すかさず桂木が割り入った。

「君は?」

手と熱を引っ込めながら、加賀美は怪訝な顔で訊ねた。

「さっきは、助けてくださってありがとうございました」

礼を述べ、頭を下げた上で、桂木は続けた。

「安藤さんは、もう大丈夫です。あんなふうに暴れる事は、二度とありません」

同意を求める瞳が一瞬こちらへ振り返り、そして再び加賀美に向き直った。

「私が、させません」

それまで、今にも火を噴きそうな勢いで――本当に噴いたかもしれない――俺に詰めていた加賀美は、これまでの泰然とした印象からは想像もつかなかった程、あっけなく足元へ崩れ落ち、涼やかな声とは一変、蚊の鳴くように呟いた。

「そんなはず、ないんだ……」

と、突如、加賀美は喉を押さえ、不自然な呼吸を始めた。身体は硬直し、その端正な顔は瞬く間に真っ赤に膨れ上がった。微かな呼吸の間から、苦しげな呻き声が洩れる。

一瞬、時が止まったかのような沈黙が白い空間を満たした。

張り付いたようなポーズ画面を再び動かしたのは所長の鋭い一喝だった。

「落ち着いて! ただの過呼吸よ。口に袋を当てて息をさせれば収まるから。安藤と桂木ちゃんは袋を探して! 水城さん、ナースコールをお願い!」

所長の矢継ぎ早の指示に、弾かれたように動き出す一同。水城さんはボタンを押すべくすぐさま枕元へ駆けつける。俺はというと、運良く桂木がコンビニの袋を持っていたので、そいつをひったくって加賀美の口に当て、息が落ち着くよう促した。

さっきの人工呼吸よりはマシだな……うん。

しばらく落ち着いて息をさせると、ようやく加賀美の容態は落ち着いた。

微かに肩を上下させながら、なおも加賀美は呟く。

「ありえないんだ……」

ほどなく、ナースセンターから駆けつけた看護師が、続けて医師が病室になだれ込み、俺達一行はすぐさま退室を強いられることになった。



「たっくんには、昔、同じような能力を持ったお兄さんがいたらしくてね」

病室から帰る道すがら、突如所長が切り出した。

どうしてそんな事を知っているのか問かけようとした俺は、行為の愚かさに気付き慌てて口を閉ざした。所長の目を逃れうる情報など、恐らくはこの地球上に存在しないのだ。

「へぇ、そうなんですか」

「でも、そのお兄さん、数年前にレベル四に堕ちて、彼の機関に抹殺されてしまったの」

「抹殺……」

突如表れた不穏な言葉の響きを確かめる。抹殺。一人の人間が、いや、かつて一人の人間だった者が、人知れずこの世から消し去られる。先程まで、俺がその抹殺対象だったことを思い出し、俺は思わず背筋を凍らせた。

弱い者ほど力に溺れる。加賀美はそのように言った。自分の任務が、力に溺れ、力に堕ちた者を狩る事だ、とも。ひょっとして加賀美は、自分の兄の姿を俺に、いや、俺のみならず力に堕ちようとする異能者たちに押し被せては、任務以上の感情を無自覚に覚えていたのかもしれない。まぁ、これはあくまで邪推だけれども。

「戻るなんてありえない、ってか……」

どうやら俺が元に戻る事ができたのは、加賀美としては随分イレギュラーな事態であったらしい。それほどまでに、堕ちかけた人間を救う事は難しいのか。

ふと、ケイの事が頭に浮かんだ。

「――ケイを、ケイを救う事はできるんだろうか」

「え?」

桂木が、眉根に皺を寄せながら聞き返した。

「ケイを? どうして」

「あいつは俺と同じ――だからわかる。本当の意味であいつを満たすのが何なのか。あいつをこちらへ引き戻すものが何なのか。俺はこっちに戻る事ができた。きっと、同じようにあいつも――」



 通用口を出ると、外は本格的な土砂降りの様を呈していた。雨は弱まるどころか、先程より一層その脚を強めている。バケツをひっくり返したような雨、なる言葉が存在するが、まさに今の状態を指して言う言葉なのだろう。

「さーてと、イケメンも拝んだし、帰ろーっと」

所長がうんと伸びをしながら暢気にあくびする。一体何をしに来たんだ。この人は。

「じゃ、あたしはもう帰るから」

言いながら所長は傘を差し、水城さんを引き連れ、雨の中へと踏み出した。駐車場の一画には事務所の青いレガシィが停められている。どうやら所長は車で帰るつもりらしい。

俺は、ふと思うところがあり、雨の中を歩み去る所長に慌てて追いすがると、深々と頭を下げた。雨に濡れるのも構わず。

「す、すみません所長。あの、その前に是非調べていただきたい事が」

「はぁ? 今から? 嫌よ面倒臭い」

「お願いします。所長じゃなければ、頼めないんです」

再び深く頭を下げる。しばしの沈黙の後、ようやく所長は口を開いた。

「言っとくけど、私に頼むと高いわよ。で、何を調べたいの?」

「ケイについての情報です」



所長は何時なんどきも、常に大小何らかのパソコンを持ち歩いている。常日頃、死んでもあの世にはパソコンを持って行きたいとのたまう所長は、この時ももちろん愛用のノートパソコンを携帯していた。運転席に座るなりパソコンを立ち上げた所長は、見た事もない画面を次々と展開し、昨日と同じく目的の情報を調べ始めた。

後部座席から運転席に首を突っ込んだ桂木は、そんな所長の鮮やかな指捌きに目を丸くして見入っていた。

「ハッカーみたい」

間の抜けた桂木の質問に、ディスプレイに目を落としたままの所長が答える。

「そりゃそうよ、私、元ハッカーだもん」

ほどなくして、所長はいくつかのウィンドウを開き、俺に示した。

「はい、これ。たっくんとこの機関が調べていた、ケイについての情報」

「ケイ――。 本名、中谷慶介――」

そこには、ケイがこれまで辿ってきた人生の履歴と、彼の能力についての情報が簡略に刻まれていた。

ケイ――中谷慶介の、明確な能力の発露は小学生の頃だった。

虐めをに対抗するために力を使ったのがその始まりだった。

こいつも、そうだったのか。

小学校時代は、とにかく虐めに抗うために力を使い続けた。が、その行為は、余計に周囲からの排除を食らう結果をもたらす。周囲に認められない苛立ちはさらに力として発露し、それがまたしても排除の原因となる……。ケイも俺も、この悪循環の中で苦しみながら、身を焼かれるような小学校時代を耐え忍んだ。

中学に上がる際、俺は親に頼み込み、本来の学区からは遠く離れた学校に通わせてもらう事にした。俺の体質を知らない新しいクラスメイトの中で、俺は体質を隠しつつ、平穏な学生生活を手に入れることに成功した。

が、残念ながら中谷は、中学に上がった後もなおこの地獄を彷徨い続けた。年齢と共に能力を高めた中谷は、頻繁にクラスメイトを瀕死に追いやるようになり、その度に、重い停学処分を食らった。やがてその足は学校から遠のき、ついにはほとんど学校に向かわなくなった。中学の後半はほとんど登校せず、高校にはそもそも行っていない。

一般的な学生の成長過程からは距離を置く一方、アンダーグラウンドの世界では中谷の存在感は確実に増していった。その人智を超えた能力により、ストリートファイトでは無敵となった中谷は、やがてディメンションフリーのリーダー、ジンに声をかけられる。

中谷の、ケイとしての人生はそこから始まった。

「どう? もう満足?」

早く帰りたいのだろう。所長が苛立たしげに手元の時計を見ながら言った。

と、その時、突如車内に、ノイズ混じりの割れたアナウンスが響き始めた。一瞬驚き、慌てて音の出元を辿ると、どうやら助手席の水城さんがいじっていたカーラジオからの放送のようだった。

『では、続けて、浸水による市街中心部の被害状況を……』

「浸水?」

ラジオの情報によると、市街中心部は軒並み浸水にやられ、中心部の地下を縦横に走る地下道に至っては完全に水没してしまっているという。その詳しい被害状況は未だ明らかになっていない。夜間の地下道は通行が禁止されているため、人的被害は無いと見られてはいるが……。

『……では、続けて交通情報をお知らせします。只今、市街中心部は浸水のため、多くの道路が通行止めと……』

「やだぁー。これじゃあ家に帰れないじゃない!」

市街中心部から程近くに住む所長は、わしわしと頭を掻きむしった。確かに所長は、ここからでは市街中心部を通らなければ家へと帰る事ができない。いや、所長だけではなく、他の三人もそれぞれ中心街を経由しなければ帰ることができないのだ。

「どうします? 水が引くまで、どこかで時間を潰しますか」

「いーや、帰る! 負けてなるものですか!! この程度の水害!!」

「相手は天変地異ですよ」

「いーや、絶対に負けない!!」

言うなり所長はエンジンを起動し、アクセルを踏み込んで一気に加速をかけた。未だシートベルトも付けておらず、座席の上で転がり回る同乗者の事などおかまいなしに、所長は鮮やかすぎるドラテクでもって一気に駐車場を抜け出した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

わたわたとシートベルトを装着しながら俺は喚いた。

「はぁ? 待つわけないでしょ! あたしはさっさと家に帰りたいのよ!」

「んな事言って、中心街方面の道路は通行止めなのに、どうやって帰るんですか?!」

「都市高で街の反対側に回ればいいじゃない。都市高は高架で水も来ないし、通れると思うんだけど」

ほどなく窓の外に、頭上を縦横に走る都市高速が見えてきた。確かに、市街地を跨いで走る都市高速に乗りさえすれば、水没地帯を越えて家に帰る事ができる。

「なるほど、じゃあその手でいきましょう」

「あんたの同意はいらない」

所長はぐいとハンドルを捻り、早々に都市高速の入口へと侵入した。急勾配の上り坂を、強い馬力でもってスピーディに駆け上がる贅沢な社用車。やがて車は、高下駄の都市高速へするりと乗り込んだ。



都市高速をしばし走ったところで、ふと、俺は不自然な空気の振動を感じた。気のせいかと思ったが、どうやら所長も同時に同じ感覚を覚えたらしく、怪訝な顔でバックミラー越しに視線を送る。

「なに? このヤな感じ」

「地震……のようですが」

何か違う。確かに地震に似ているが、もっとこう、激しい何か……

次第に車体が震え始め、嫌な予感はいよいよ増してゆく。

ふと、バックミラーに目をやった所長の顔が音を立てて固まった。

「なに、あれ」

震える所長の声。俺もつられて背後を見やる。そこには――

「なんで、都市高なのに水が来るんだ……?!」

この街の都市高速は、地下へ潜るタワー付近の一部を除き、多くの部分が、ビル五階から八階辺りの高さを走っている。そして、今俺達が走っているのはタワーから遠く離れた付近だ。つまりはビルの屋上を縫って走っているようなものだ。そんな場所へ水が来るなんて、ましてや津波のように巨大な波を作って向かってくるなんて!

巨大な波は、都市高の幅員一杯に幅を取り、まるで土石流のように後方を走る車を次々と呑み込みながら、俺達が乗った車へと追いすがってきた。

身体を震わす轟音が、俺達をさらに追い立てる。

「どーゆう事よ? ここ、都市高でしょぉおっ?!」

所長はさらにアクセルを踏み込み速度を上げた。が、背後の波は、いっこうに引き離される気配すらなく、なおもぴたりと追いすがってくる。

「なんでぇぇぇ!?」

すぐ背後で、飲まれた車が波間で激しく浮沈する様が見えた。少しでも速度を落とせば、俺達も同じように――。

「今度はなに!?」

目を見開いて前方を凝視する所長の視線を追うと――

「うそぉお! 挟まれたぁ!」

同様の波が、今度は前方からも押し寄せて来ていた。

「ああもう!」

所長はギアを変え、すぐ先の都市高出口へ向けてさらにアクセルを踏み込んだ。

「おりゃああああ!」

前方の波が眼前に押し寄せ、すわ水没か――、と思った瞬間、所長は鮮やかなハンドル捌きでもって、一気に出口へ飛び込んだ。

俺達の車が都市高を抜けたまさにその瞬間、背後で二つの波がぶつかり合い、おびただしい量の水飛沫を上げて、押し流した十数台の車もろとも砕け散った。

数台の不幸な車が、道路から弾き飛ばされ桁の下へと落ちてゆく。

「な、なんなのよもうっ! 無茶苦茶よ。物理法則もくそもあったもんじゃないわ、もう、わけわかんない!!」

原因に合点がいかずプリプリと怒る所長に対して、俺にはただ一つ、思い当たる節があった。

「ケイの仕業です。間違いありません」

「ケイぃ?」

目一杯に眉を歪めて所長が復唱する。

「ケイって、さっきあたしが調べた奴?」

「はい。これが何がしかの人為的な現象だとしたら、それは奴の仕業以外に考えられません」

「あんた、何言ってんの? こんな事、人の仕業じゃあ、」

「いえ、ありえます。奴なら」

間もなく、車は一般道へと降り立った。

本来俺達が目指していた降り口はまだはるか先に位置していた。この降り口はむしろ市街地に最も近く、このまま道なりに進めば水没地域にまっすぐ突っ込むしかない。

幸い、降り口付近は未だ冠水を免れているようだった。だが、次第に市街地へと近付くにつれ、眼前には物々しい雰囲気と、見慣れない街の光景が広がり始めた。

「やだぁ……完全に沈んじゃってる」

中心街へと至る片側四車線の道路は、今や完全に湖と化していた。

冠水域の手前には横一文字に黄色いテープが張られ、数台のパトカーと十数人の警察官がバリケードをさらに強固なものとしている。

「すみません、ここから先は立ち入り禁止です」

警察官の一人が、俺達が乗る車に歩み寄り、運転席の窓を軽くこづいた。

窓を開いた所長に、レインコート姿の警官は顔を伝う雨を手で拭いながら喚いた。

「ご覧のように、市街中心部は水没しており危険です」

「あ、そう!? じゃあ、市街地を抜けて西に行く道を教えてくださる?」

警官は早速、扉越しの所長に迂回路の説明を始めた。だが、雨音が邪魔なのか、迂回路が複雑なのか、なかなか説明は終わる様子を見せない。まんじりとした時間が車内に流れ、ふと、俺は窓の外に広がる湖に目を向けた。

 窓は、伝い落ちる雨粒のために、あたかもノイズの様を呈していた。そのノイズの先に広がる黒々とした湖面は、にわかに設置されたと思しき工事用の広域ライトに照らされ、その水面から不気味な光を放っていた。両側をビルで囲まれたその湖は、見方によっては切り立った谷底を伝う大河のようにも見えなくはない。

静かだった。周囲の喧騒や激しい雨音とは裏腹に、湖面はあくまでも静かだった。

「あ……あれ……?」

同じく窓の外を覗いていた桂木が、俄かに何かを指差しながら俺の耳元で呟いた。

「何だ? 桂木」

「まさか……あれ……」

その示す先を追い、俺は一瞬息を呑んだ。

湖面の上に立つ、人影。

「やっぱり……生きてたんだ」

「――ケイ」

俺と桂木は、頬を突き合わせつつ食い入るように同じ窓を覗き込んだ。

「どうして、ケイがあんなところに」

その時、雨に霞むケイの顔が、やおら、こちらを捉えた。

俺達の存在に気付いているのか、その口が、遠目にも判る程に口角を吊り上げて笑う。

「桂木、お前はここにいろ」

「え?」

「奴と話を付けてくる」

「え? 話を? どういう事ですか?」

俺は、ようやくルートの確認を終えた所長にすかさず願い出た。

「所長、すみませんが今すぐここを離れてください。俺はちょっと用があって、ここで降ろさせてもらいます」

「は? ここで?」

怪訝な声を上げつつ振り返る所長に、俺は改めて頭を下げた。

「お願いします。俺には、やらなきゃいけない事があるんです」

「は?」

「わ、私も、行き、」

「お前は来るんじゃない!!」

桂木が声を上げるのを俺は鋭く制止した。小鹿のような身体が、びくりと跳ねる。

「いいか、これは俺とケイの問題だ。俺は一人で行かなきゃいけないんだ。それはケイのためでもあるし、同時に俺のためでもある」

「どうして……さっき、私に何でも話してくれるって」

「この問題だけは、俺は一人で立ち向かわなきゃいけないんだ」

なおも追いすがる桂木を、俺は再び押し留めた。

「俺の中には闇がある。奴の中にあるものと同じ闇が。だけど俺は、その闇を乗り越える方法を見つけた。その方法のお陰で、俺は人に戻る事ができたんだ。今度は俺が、同じ方法で奴を人に戻したい」

俺の言葉に観念したのか、桂木はついに、その小さな尻をぽすんと座席に沈めた。

「ありがとう桂木。お前がいてくれたから、俺はその方法を見つける事ができたんだと思う。本当に、ありがとう」

桂木は、うなだれたまま何も答えようとはしなかった。もはや言い返す気も失せてしまったらしい。

 俺は再び運転席の方に向き直り、所長に呼び掛けた。

「では、所長、一刻も早くここから離れて下さい。先程のように危険な状況が、再び発生する恐れがありますので」

「わ、わかったわ……何だかよくわかんないけど、あんたもいろいろ面倒な奴ね」

「すみません。いつも迷惑ばかりかけてしまって」

「まったくよ。クビにしてやろうかしら」

「えぇ、そんなご無体な」

「死んだら本当にクビにしてやる」

「安藤さん」

ふと桂木が、俺をじっと見上げながら呼び掛けた。たった一ヶ月前、こいつが俺に対して人を見下すような目線を投げつけていた事が、今ではまるで嘘のようだ。

「何だ?」

「必ず、帰って来て下さいね」



車は、爆音と共にその場を後にした。テールランプが完全に雨幕の向こうに消え去るのを見送った俺は、踵を返し、非常線の方へ、そして、その向こうに立つケイの元へ、足を進めた。

ケイは、そこが水面である事を忘れさせてしまう程、いとも自然に湖面に立ち尽くしていた。切り散らされた前髪の向こうから、悲しげな双眸がじっとこちらを見つめている。

周囲の警官達は、例外なく息を呑み、見開いた目をケイに向けていた。無理もない。ケイが立っていた水面は、浅瀬でも、ましてや路面に張った薄い水溜りでもなく、すでに腰上まで水深を得た正真正銘の深みだったためだ。その証拠に、ケイを助けに行ったと思しき数人の警官達が、ケイのすぐ脇で、湖水に腰の辺りまで体を突っ込んだまま、目的を忘れて只ただ水面に起立するケイの姿を見上げていた。ケイは、俺が非常線の手前まで進むなり、並み居る警官達の様子に構わず、軽やかな足取りでこちらへ歩み寄って来た。もちろん、水面の上を。

やがてケイは、俺から僅か数歩という水面上で、その歩みを止めた。

非常線を挟み、ついに俺は鏡像と対峙する。

「どう? 自分の心に素直になる気になったかい?」

ケイは、生まれたての赤ん坊のような笑みを俺に向けた。

「そうだね」

無邪気な笑みがカラコロと笑う。

「じゃあ、これからはボクと一緒に街を壊そう。ボク達を閉じ込め、否定する存在を、連中をみんな、壊して、嬲って、粉々にしてやろう」

街を破壊する最中、確かに俺は、抑え切れない程の快感に身を浸していた。ともすれば病み付きになる危うい感覚。が、今の俺には、そのような行為を促す彼の提案に乗るつもりはさらさらなかった。

「いや、それはしない」

刹那、ケイの笑顔が凍り付いた。

「どうして? 楽しいよ? 人も街も、みんな壊して、壊して……。キミだって、さっきあんなに、楽しそうに街を壊していたじゃないか?」

確かにその通りだ。が、その事実を認めた上で、俺は返す。

「そうだね。でも、あれは俺が本当に望んでいた事じゃない」

「どういう事?」

「お前だって、同じはずだ。こんな事、お前が本当に望んでいる事じゃない」

「……何の話をしてるんだよ」

端正な眉根に皺が寄る。不快を感じている証拠だ。

「お前が本当に望んでいるのは、温もりだ。自分以外の誰かの温もり。体温。そういうものを、お前は望んでいる」

「キミが言っている言葉の意味が、わからないよ……」

眉根の皺が、さらに深みを増す。

「お前こそ、素直になるんだ。お前の本当の望みに、お前自身の、本当の心の声に」

「し、知ったような事、言うな!」

「知ったような事? そもそもお前が言い出したんじゃないか。俺とお前は一緒なんだって。だから、俺には分かるんだよ。お前に足りないものが。俺達は、それぞれがお互いの鏡像なんだ。欠けている部分があるとすれば、それはお前も俺も同じ。だから俺には、お前に欠けているものが何なのか、手に取るようによくわかる」

「だったら何なんだよ! 何が言いたいんだよ!」

ケイはなおも頑なに突っ撥ねる。

そこでようやく、俺はケイに言い放った。今、最もケイに伝えたい言葉を。

「ケイ、こちらへ来い。俺と一緒に、人に戻ろう」

「え……」

一瞬、ケイの渋面が締まりを忘れて呆けた。驚いているのか呆れているのか、円盤のように見開いた双眸でじっと俺を見つめる。

やがて、我に返ったケイは再び吐き捨てた。

「うるさい……! どうせ、どうせ拒まれるんだ。人に戻っても、人の世界に戻っても、結局ボクは、拒まれるんだ……!」

「大丈夫だ。今までは、確かにお前は一人だったのかもしれない。たった一人で、孤独と戦っていたのかもしれない。けど、今は俺がいる。俺が、お前を受け止める」

「だったら、キミがこっちに来ればいいだろ!? こっちなら、キミとボクの二人だけで楽しくやっていける。邪魔は入らない。ボクらは好きなだけ、好きなように世界をぶち壊す事ができるんだ!」

「違う。それは俺達が本当に望む事じゃない。少なくとも俺は望んでいない。俺はあくまで、人として普通に暮らし、身近な人たちと普通の日常を過ごしていたい。――確かにそれは、楽しい事や気持ちの良い事ばかりじゃない。むしろ思い通りにいかない事ばかりだ。――けど、それでも俺は、人として、みんなと共に生きたい。自分以外の温もりを、感じたながら生きたいんだ。それが、俺の本当の望みだ」

自分で言いながら俺は自分の答えを再認識する。そうだ、俺が欲しかったのは、ケイの言う快感じゃない。誰かの体温だったんだ。この世界で、俺は一人じゃないと再確認させてくれる、自分以外の誰かの体温。

「きっと誰もわかってくれない……誰も、ボクの事をなんにも……ボクの苦しさも、寂しさも、悲しさも……なにも……」

「だから、それは全部、俺が受け止める。――こっちへ来るんだ。ケイ」

「……」

俺は待ち続けた。ケイの答えを。

どれほどの時間が経ったろうか、一瞬のような、永遠のような時が過ぎた時、ようやくケイは、その剥き出しの足を踏み出した。ケイはゆっくりと、一歩、一歩、躊躇するように、そして、怯えるように足を進め、やがて、非常線の手前、腕を延ばせば互いの鼻先へと届く距離で足を止めた。

「探偵さん――」

「ケイ」

 しばし対峙する、二つの影。

やがて、どちらともなく腕を広げた俺達は、互いに硬く抱擁し合った――。

と思った。……だが。

ばしゃ。

さざ波が砂浜を洗うような微かな水音と共に、ケイの身体は文字通り俺をすり抜けた。

俺の背後で、ケイが呟く。

「ごめんよ、探偵さん」

空を抱いた俺は、振り返る事も忘れて訊ねた。

「それが、お前の答えなのか?」

「……ボクはもう、誰のぬくもりも感じられないんだ」

「どういう事だよ……?」

ケイは、俺の質問には答えず、消えるような声で呟いた。

「キミは、見失っちゃ駄目だよ」

「え」

「キミの答えを」

「ケイ?」

振り返った時、そこにはすでにケイの姿はなかった。



目を覚ますと、六畳一間には昨日の土砂降りが嘘のような、この季節独特の爽やかな日差しが差し込んでいた。俺は、惰眠にしがみつくべく頭の先まで布団をかぶり、まばゆい日の光を何とか遣り過ごそうと努めた。

あれから俺は一晩中、ケイを探して雨の街を彷徨い歩いた。だが、結局、奴の姿を見つけ出す事はできなかった。雨が上がり、雲間から茜色の光が差し込み始めた頃、俺はついに捜索を打ち切り、家へと戻った。

突然、枕元の携帯が激しく震え始めた。なんだ? 休日の朝から騒々しい……。

番号を確認。あれ? 事務所からだ。今日は日曜のはずなのに、どうして。

怪訝に思いつつ、電話を取る。

「はいぃ、もしもし……」

『何やってんの! このバカぁっ!』

「ひぇっ!?」

電話口から聞こえてきたのは、怒髪天を突かんばかりの所長の怒鳴り声だった。

「ど、どうしたんですか? 所長……?」

『あんた、今何時だと思ってんの!?』

時計を見る。針は午前九時四十六分を示している。

『どーいうつもりよ、休むんなら休む、遅刻するならするって連絡しなさいよ!』

「え? でも、今日って日曜日じゃ、」

『はぁ!? 今日は月曜でしょ! なに寝惚けた事言ってんの、このバカぁっ!!』

「へ?」

慌ててテレビを点ける。日曜であれば、この時間は確か仮面ナントカが……って、ない!

 しかも、これは平日朝の情報番組じゃないか。コメンテーターの人が、チキン南蛮を食って「これ、おいしい!」とか言ってるし!

って事は、俺ってば丸一日眠りこけてたのか?

「あの、所長。やっぱり今日って……月曜日なんですか?」

『あったりまえでしょ? なに寝言ほざいてんのよ、このボケェ!』

「ひいっ!」

再び、鼓膜をつんざく怒声が電話口から飛び出し、俺は思わず身を縮めた。

「す、すみません……」

『まったく、余計な心配かけさせるんじゃないよ』

一瞬、耳に届いた思いがけない言葉に、俺は自らの聴覚を疑った。

「え? 心配? ……だ、誰が、」

『やかましいぃい! いーからとっとと会社に来い! 十分以内に出社しないと、ボーナスカットだからね!』

「ひ、ひぇええそんな御無体な!」





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