六章
その夜は、どういう風の吹き回しか、よっぽど興が乗っていたためか、突然所長が、桂木の歓迎会を開くと言い出した。
「そういえば、まだだったからねぇ。桂木ちゃんの歓迎会」
どこからどう見ても未成年以外の何物でもない、桂木を連れての居酒屋行きは、さすがに見送り、俺達は無難に、ぞろぞろと近くのファミレスへと向かった。
四人がけのボックス席に通され、水城さんと俺、そして所長とアサが、それぞれ隣り合って座る。席につくなり、俺の隣の水城さんは、呼び出しボタンの反応が悪いなどと言い出し、誰に断りもなく勝手に分解そして修理をおっ始めてしまった。
「み、水城さん、それは!」
と制止した時はすでに遅く、すでに水城さんは、甘美なる配線コードの世界へと没入してしまっていた。
一方の所長は、早速店員を呼びつけ、ドリンクの注文を始めた。
俺はメニュー表を使い、慌てて水城さんの手元を店員から隠す。
「生ビール二つと、ウーロン茶、あと私は、このブルゴーニュ産赤ワイン十年ものを一杯」
所長の、いつになくぬるーりとした声にぎょっとした俺は思わず顔を上げた。が、店員の顔を見てようやくその理由に納得した。
「ウーロン茶の方でしたら、ドリンクバーにございます」
「あ、そぉう? じゃ、それを一つ、お願いできるかしらん?」
店員が去ると、所長はうっとりと呟いた。
「今の店員、いい男だったわぁ。ああ、イケメン雇いたい。目の保養になるし」
「所長、俺は……?」
「は? どの面下げて言ってんの? あんた」
「すみません」
「そうそう、今日は私のオゴりだから、じゃんじゃん好きなの頼みなさいね、桂木ちゃんは、何食べたい?」
所長が、隣に座る桂木にメニュー表を勧める。俺は傍らを過ぎようとしていた店員を呼び止め、枝豆とフライドポテトを頼んだ。すると、すかさず所長の罵声が飛んだ。
「なに勝手に頼んでんの! こっちはまだ決めてないでしょ!」
「でも所長、さっき好きなのを頼めって、」
「今日は桂木ちゃんの歓迎会でしょうが! 空気読みなさいよこのバカ!」
「……」
あぁ、今すぐこの首チョンパしてイケメンの頭に挿げ替えたい。
「ね~、桂木ちゃんって、彼氏とかいるのぉ?」
酒も進み、未成年の前であまりよろしくない酔い方をしている所長が、突如面倒くさい水を桂木へと向けた。桂木は、以前俺が同じ質問をした時とはまるで違い、顔を赤くし、うつむきながら、ためらいがちに呟いた。
「い、いえ。いません……」
なんだ、いないのか。って、何でほっとしているんだ俺は。
「本当はいるでしょ~。こんなにカワイイんだもん。絶対いなきゃおかしいって~」
所長は桂木の身体に抱きつき、桜色の頬を指でつんつんと突きながら、なおも絡んだ。
ううむ、美女が可憐な少女にからみつく光景は、専門筋に売れば高値が付きそうなビジュアルではある。が、なまじ彼女達の中身を知っている俺には、さながら凶暴な猛獣と優秀な猟犬が巴を描いているようにしか見えず、残念な事に到底萌えを覚えられない。
「所長、それセクハラですよぉ」
とはいえ一応、立場上強く出られない猟犬の方に若干のフォローをかけてみる。
俺の横槍に気分を害したのか、所長は完全に据わりきった目で俺をを睨みつけてきた。
「セクハラぁ? 何言ってんの。あんたみたいなイカ臭い獣が訊けばセクハラになるけどさぁ、あたしは女子だもん。女の子だもん! これはガールズトークなのっ! 女の子同士のコイバナなのっ! 獣は聞くんじゃないっ!」
しっ、しっと手の甲で俺を追いやる。
「えー、所長って女の子だったんスか?」
こっちも言い返す。酒の勢いを借りて。
「女の子って言うには、ちょいとトウが立ち過ぎじゃないですかね?」
「あぁ?」
その時、俺の脛に尖った何かがヒットした。方向と形状からして所長のつま先に違いない。普段ならば間違いなく痛みで悶絶していたであろう。が、今の俺は酒のおかげで痛覚が見事に麻痺している。
「へっへー。その程度の攻撃じゃ効きませんよぉ所長」
「お、おのれぇ、くそ安藤……」
酒で赤らんだ顔を、さらに赤らめる所長。いやぁ、いいもんだなぁ無礼講ってやつは。
「仲、いいですよね、お二人とも」
桂木が突如、テーブルに爆弾を投下した。
所長は、ぶんぶんと首を振り、全身全霊で否定の意思を表す。
「ないっ!! それだけは絶対に、ないっ!! 誰がこんな阿呆となんか!!」
「お言葉ですが、俺としても所長は絶対にないですね。 やっぱ彼女にするなら、もっと優しくて、おだやかで、家庭的な人が……」
俺も所長ほどじゃあないが、軽く手を振り否定を示す。
「んだとぉ!? 安藤のくせに生意気な!! はんっ!! 今時そんな良妻賢母が、そのへんに転がっているかっつーの!!」
「それが、いるんですよねー。残念ながら」
「どーせ、真澄さんの事を言いたいんだろ!?」
「ご明答! いやぁ、真澄さんは本当に素敵な人ですよ」
それから俺は、いかに真澄さんという女性が素晴らしい存在であるかについて、延々、溢れ出る愛とほとばしる情熱でもって熱弁を振るい続けた。その間、所長は窓の外を眺めつつ次々とワインを空け、水城さんは黙々とチョコレートパフェをぱくついていた。唯一耳目を傾けてくれていたのは桂木だけだった。豆鉄砲を食らったハトよろしく目を皿のように見開いた桂木は、呆然と俺の顔を見上げ、パワフルな俺の演説にじっと聞き入っていた。今の俺なら、真澄さんを衆院選でトップ当選させる事だって不可能ではない気がする。これぞまさしく、愛の力!
「……で、優しくて、品があって、それでいてどこか危うげで、なんていうかその、つい、守ってやらなきゃなーって、思っちゃうっていうか」
「なーにが、守ってやらなきゃ、だ。自分の事もおぼつかないくせに、他人を守れるかっつーの」
ついに所長のツッ込みが入る。
「大体、あの真澄さんが、あんたみたいな冴えない男、好きになるわけないだろ!!」
「だっはー。そこはご心配なく!!」
貧相な胸板を、戦時中のドイツ将校ばりにぐいと張る。
「こー見えて、俺ぁ愛されてるんですよ」
そして、引き続き俺は、先週日曜に起こった出来事について熱く詳しく語りあかした。特に、砂浜に降り立った時の真澄さんの可愛らしさについては、より詳しく、ディティールにこだわって伝えた。
「……ってなわけで、俺は明日、真澄さんとデートに行くんです。そこでハッキリさせてきますよ。俺が男として見られているかどうかって事をですねぇ」
「ほほう、あんた、上司を差し置いて、一人勝手に幸せゲットしようってのかい?」
ふと、所長の目に死神の視線が宿った。いつもであれば、ここでビビって口を閉ざす俺だが、いかんせん酒が入っている今の俺は、いつになく果敢に攻勢を取った。
「え? 所長、この前の開業医さん達との合コン、うまくいかなかったんですか?」
「……ふざけんな、ってのよ」
「は?」
「あいつら、みんな顔写真を誤魔化してやがったのよ! 写真じゃあみんなイケメンだったのに、実際会ってみたら、揃いも揃って豚とか馬とか牛とかロバとか……こちとら牧場やってんじゃないのよ! ったく……!」
言いつつ所長はイカ下足を口に放り込み、むりむりと噛みしだいた。
「しょ、所長って、メンクイさんなんですね」
桂木が、なだめるようにフォローすると、所長は声だけでよよと泣いた。
「ねぇ、桂木ちゃん。どこかに転がっていないかしら。背が高くて、痩せマッチョで、高収入で、おまけに、イケメン……」
ふと、俺の脳裏に、唯一それらの条件に合致するであろう男の姿が思い浮かんだ。が、奴との再会が一体何を意味するかに思い至った俺は、背筋に冷たいものを覚え、慌ててその不吉な姿を脳裏から排除した。
「い、いるわけないじゃないですか。そんな、完璧過ぎる男なんて」
「いーや! 探すっ! アタシ、絶対に諦めないんだから!」
ファミレスにおける桂木の歓迎会は、いい年をこいた大人たちが未成年の目の前で散々に醜態を晒した挙句、ようやく幕を下ろした。
水城さんは早々に挨拶を済ませて家路に着き、桂木は所長が呼び止めたタクシーに押し込められて家に帰された。そうして、駐輪場からプジョーを引っ張り出した俺の元には、まさかの所長一人が残った。
所長は、仁王立ちで俺を睨み据えながら、まるでこちらが想像だにしなかった台詞を言い放った。
「おい安藤、今からあたしの部屋で飲みなおすよ」
「はい?」
どうして所長の部屋でだなんて。まさか所長ともあろうお方が、人知れず俺に陰湿な意趣返しを?
「あ、あの、先程の件でしたら、本当にすみませんでした。まさかそんなにお怒りになるとは」
「は? 何の話?」
「え? だからさっきの無礼について、怒っていらっしゃるんじゃ……?」
「何言ってんの? あんたみたいなアホに何言われても、別に痛くも痒くもないわ」
「じ、じゃ、どうして俺と飲むなんて」
さっきまでの威勢はすでに夜風と共に吹き飛び、俺は怯えた犬のごとく尻尾を丸めながら訊ねた。
「あー、もう、面倒くさい奴!」
所長はつかつか歩み寄ると、俺のネクタイをぐいと引き寄せながら囁いた。
「あんた、男なら、女の誘いには大人しく従うもんよ。私に恥かかす気?」
いつにない、いや、初めて聞く所長の艶かしい声に、俺は一瞬、自分の聴覚がついに、どーにかなっちまったのかと思った。
「へぁ……」
なんだなんだなんだ? 所長?! 牧場みたいな合コンのせいで、センサーがどうにかなっちまったんですか?!
「とにかく、付いて来なさい」
踵を返し、ヒールを鳴らしながら夜の街をずんずん進んでゆく所長。鋭利な刃物のように隙のない立ち姿も、改めて男として見ると、極めて女性的でたおやかな曲線美を描いている。俺は特にスーツ属性という訳ではないが、確かに所長のスーツ姿は、サラブレッドを思わせる完璧な美しさを纏っていた。そんな所長が、今夜、俺に部屋へ来いという。
うううぅむ。悩ましぃぃぃぃぃ。
まぁ、そうは言っても、無駄に鼻の下を伸ばした俺を待っているのは、どーせいつもの説教か、男なんてくそくらえ云々といった耳に痛い愚痴の数々なのだろうけどな。
中心街から程近い都会的なマンションの十二階に所長は住んでいる。所長に誘われ、部屋へとお邪魔した俺は、あまりの予想外なインテリアに度肝を抜かれた。
「これは……?」
「は? パソコンに決まってるじゃない」
「そ、それは、見れば分かりますけど……」
壁という壁を、パソコン本体とディスプレイが石垣のように埋め尽くし、それらを繋ぐ様々なコードが、石垣を囲む蔦よろしく部屋の縦横を埋め尽くしていた。あちこちで鳴り響くファンやらサーキュレーターの音が、大量発生した羽虫のごとき轟音となって、部屋を支配し尽くしている。
さすがは、元ハッカー。
「じゃ、早速本題に入ろうかしら」
唐突に所長は切り出した。その、世にも恐ろしい提案を――
「あんた、その服全部脱ぎなさい」
「……は?」
あれよあれよの間に、俺は服を剥かれていった。
「どういうつもりですか所長!?」
「いいからさっさと脱ぐ!」
所長は、相変らず真面目な顔で黙々と俺の服を剥いでいる。
とにかくこれは、俺にとって人生最大の貞操の危機である。このままでは明日、どんな顔をして真澄さんと会えばいいかわからない。
「すみ、すみません所長、お気持ちは嬉しいのですが、俺には真澄さんがぁぁ!!」
「やかましいっ!! とにかく脱げぇ!!」
「やめてください!! ひぇ、ひぇえええ……」
世の中には、男子連中を狩り、その毛を剃り皮を剥ぎ取り、焚き火で丸焼きにして喰ってしまうという肉食女子なる幻の珍獣が存在すると言われている。が、よもや、こんな身近に、その実物が生息していたとは。
いつしか、俺はヨレヨレのトランクス一枚という情けない姿に変えられていた。
「あ、あの、ひょっとしてこれも……?」
そこでようやく、所長は渋面を浮かべ、俺が唯一纏う布一枚を凝視して長考に入った。
深夜、二人きりのパソコンルームで美女にパンツ姿を凝視される……どういうプレイだこれは!?
「うん、じゃ、それも脱いで」
所長は、それまでの渋面を一変し、きっぱりと言い放った。
「じゃ、って何ですか! そんな、一応みたいに言わないでくださいよ!」
「さっさと脱ぐ!! じゃなきゃ給料カットだからね!!」
「所長、それ、セク、じゃなくてパワハラですよぉ!」
仕方なく、壁を向いてこそこそと最後の布を脱ぎ去る。
「お、終わりました……」
生まれたままの姿にしては、寄る年波によって醜く変わり果てた身体が、蛍光灯の元で白々と浮かんでいる。一体、これはどういう事だ? どうして俺は、所長の部屋で裸になっているんだ? 誰か、誰か明確な説明をプリーズ!
所長は、ゴミでも収集するがごとく俺が脱ぎ捨てた服を拾い集め、さらに俺の手から、未だ生々しい体温が残る生パンツをもひったくると、すぐさまそれらを隣の寝室に放り込み、ぴしゃりと引き戸を閉じた。
一体何をしたいのか。よっぽど俺に裸のままでいて欲しいのか? 合点がいかずその様子を眺めていると、所長はどこからともなく男物のスウェットを引っ張り出し、それを俺に突き出した。
「え? 着ていいんですか?」
「さっさと着な」
地獄に仏? とばかりにスウェットにとりつき、借り物競争のごとくそれらを羽織る。
それにしても、先程の所長の命令は何だったんだ? どうして、服を脱げだの着ろだの、と余計な手間を押し付けてきたのか。
ここが注文の多い料理店だとすれば、そろそろ俺は喰われる頃合いだ。
「あの、これってどういう、」
「今から説明する。まあ、そこに座って」
言いつつ所長は、部屋の中央に置かれた質素なテーブルセットの一席を勧めた。これも北欧製なのか、シンプルなデザインながらも先進的で洒落ている。俺が座ると、所長もまた、テーブルを挟んで残り一つの椅子に掛けた。
先程の唐突な羞恥プレイのせいで、俺の酔いはすでに醒め切っていた。が、所長の次なる言葉で、その僅かな酒の残滓すら完全に吹っ飛ばされる事となる。
「あの服には盗聴器が仕掛けられていた」
「え?」
突然の意外すぎる言葉に、俺は一瞬耳を疑った。
盗聴器? どうして? 誰が? 何のため?
「何かの間違いじゃないですか? 俺が盗聴器を仕掛けられる理由が思い当たりません」
「お前に思い当たらなくとも、向こうにはあるのさ。そんな事は、これまで盗聴関係の案件に関わってきて、お前もよく分かっているだろう」
「はぁ。で、でも、どうしてそんな事が」
「回収完了しました。所長」
俺の言葉を遮ったのは、思いがけない人物の声だった。
「ありがとう、水城さん」
は? 水城さん?
振り返ると、つい先程俺の服が放り込まれた部屋の引き戸が、すすすと開くところだった。と共に、からくり人形のような女性が部屋に滑り込んでくる。彼女はトコトコとこちらへ歩み寄り、無言のままグーを差し出すと、その手をテーブルの上で広げた。
大量のクリップをぶちまけたような音がし、それと共に、天板の上には、色も形も様々の、小さな物体がちりばめられた。
それらが盗聴器であるとすぐに判断できたのは、これまで幾度となく、水城さんに付き従い盗聴器除去のサポートを行ううちに、それらと同じものを何度も目にしてきたためだった。案件の度に発見してきた盗聴器と似たような姿形のものが、今、所長のテーブルに大量に転がっている。その数、ざっと数えても十は下らない。中にはシャツのボタンに模したものや、ボールペンの軸に偽装した力作まで見受けられた。専門家でもそうそう簡単には発見できないだろう。そう。水城さんレベルのエキスパートでもなければ。
「これって」
「さっきの服から回収してきた盗聴器」
それは随分恐ろしい内容だった。一体いつ、誰がどんな目的で仕込んだんだ? 水城さんの白い顔を見上げていると、俺の不安を察したのか水城さんは再び口を開いた。
「設置者は、もう割り出しているわ」
「あんた、へんな奴に好かれてるんだねぇ」
所長がからかうように口を挟んだ。
水城さんはなおも淡々と続ける。
「最初に気付いたのは先週の月曜日。安藤君の周囲から、いつもと違う電波が検出されたの。それから毎日、私は安藤君から発信される電波の行き先を探して回った。そうして昨日、ようやく設置者を発見したの。それが、」
そこで水城さんは所長に目配せした。意図を汲んだ所長が引き継ぐ。
「聞いて驚くなよ、安藤。その設置者ってのが、これまた大層な連中だったのさ。その名も、“内閣府直轄、特殊能力研究機関”! 随分御大層な名前じゃない? オカルトマニアなら間違いなく、名前を聞いただけで涎を垂らすわよ。で、この機関が、どうやらあんたに盗聴器を仕掛けた張本人らしくって」
言いつつ所長は、確認するように水城さんを見やった。水城さんも所長を見て頷く。
「で、今度は私が、その情報を元に機関の内部情報に侵入をかけて、一連の盗聴行為を指揮している責任者らしき人物を割り出した、ってワケ」
内閣府ウンタラ機関に侵入、などと不穏当なコトをさらりと口にする所長に、そんなバカな、と思わずツッ込みたくなったが、背後に並ぶおびただしいパソコンの垣を見て俺は口を閉ざした。
「ねぇ、ところであんた、この男に見覚え、ない?」
不意に所長は、手元のノートパソコンを俺に差し出した。そのディスプレイを覗き込むなり、俺は反射的に、腹の底から沸き立つようなむかつきを覚えた。高慢な口ぶり、そして、嫌味なまでに涼しげな表情が、否応なく脳裏に蘇ったのだ。
写真の横に記載された役職名を、口の中で読み上げる。
「内閣府直轄、特殊能力研究機関、九州支部所属、第一室室長、加賀美 拓斗」
役職名だけで舌が絡まりそうだ。なるほど、こんなに長ったらしい肩書きを担いでいるのなら、あの口ぶりも多少は納得できる。
「ねぇ、あるの? ないの?」
何故か所長が鬼気迫る口調で迫ってくる。その勢いに押された俺は、なしくずしにハイと言って首を縦に振った。
「あるんだぁーー♪」
途端、所長が嬌声を上げた。
俺はワケがわからないまま、紅潮する所長の顔をぼんやり眺めた。
所長はなおも、周囲にハートマークを振り撒きながら浮わっついた口調で呟いた。
「ああっ、初めて彼を見た時から、心に生まれたこの暖かい気持ちは何? それは、きっと、恋……」
少女マンガのごとく瞳をキラキラさせながら、所長は天井を仰いだ。
確かに、改めて写真を見るまでもなく、この加賀美という男は、同性なら誰しも悔しさを覚えずにはいられない見目爽やかなイケメンである。しかも、ただ綺麗なだけではなく華がある。男性向けファッション雑誌の表紙を飾っていてもおかしくはない。
「安藤、もし、この男があんたに接触を図ってきたら、まずあたしに連絡しなさい。いいね?!」
血走った眼で俺を見つめる所長を前に、俺は再びなしくずしに頷いた。
「公務員、しかもエリートキャリア、おまけにイケメン……絶対にゲットしてやる!」
すでに所長は猟犬と化し、俺をホワイの森に打ち捨てたまま、一人勝手に獲物へ向けて走り去ろうとしていた。そんな彼女の意識を、俺は慌てて手元に引き戻す。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。そんな事より、何なんですか? その、ええと、内閣府……特殊……ナントカ、って?」
忘れていないわよ、とばかりに、ふふんと得意げに笑って所長は続けた。
「じゃあ、いよいよ本題に入ってやろうかしらね。この、特殊能力研究機関なるオカルトな機関の存在目的とは何であるか!? 驚くなかれ。これがまぁ、そんじょそこらの天下り団体とはワケが違うのよ、ワケが!」
「は、はぁ」
ごもっとも。仮にこれが単なる天下り団体だとすれば、速攻でマスコミの槍玉に揚げられるような、こんなフザけた名称は絶対に跨いで通るだろう。この国家財政難の折、重箱の隅をつつくような官僚叩きの嵐の最中、わざわざこんな珍妙な組織名を掲げるにはそれ相応の理由があるに違いない――とは言え、やはりどうしても、そこはツッ込まずにはいられない。フザケてんのか?
「えーと、で、その組織ってのは、一体何のために……」
「よくぞ聞いてくれた。ずばり、この組織こそ、全国から異能と呼ばれる特殊能力を持つ人間を集め、その能力の情報、そして彼らの存在そのものを厳重に管理するために存在するの機関なのであるっ!」
「は? 異能を、管理……?」
所長はその後もなお、組織の目的や概要について、あたかも自らがその一員であるかのように、得意げに語り続けた。初めて西洋にジパングなる国の存在を伝えたマルコ・ポーロも、黄金の国についてここまで熱く語る事はなかったろう。
「特に、この、たっくんが所属する第一室ってのが」
「た、たっくん?」
「加賀美君の事よっ! 拓斗だからたっくん! ちょっとぉ、話の腰を折らないで! で、この、たっくんが所属する第一室ってのが、未だ機関に管理されていない野放しの異能者を捕らえて、収容する事を主な業務としているところなの。まぁ、ここに目を付けられたって事は、あんたも一応、異能者ってコトになるんでしょうけど、ってか、一体あんたのどこが異能なの?」
「発電体質の事でしょう?」
意外な声に振り返ると、水城さんは射抜くような目で俺を見つめていた。
「安藤君の発電量は、通常の生体発電の範疇を超えてる」
「は、はぁ……そう、ですね。多分」
俺は曖昧に言葉を濁し、首を竦めた。
そういえば、あいつ――加賀美が言っていたっけ。俺が、ライゲキの異能を持っているとか何とか。
やっぱり、これって異能なのか。
「ふぅん。どうせなら、もっと仕事に役立つ異能なら良かったのに」
「俺も、そう思います……」
さらに、所長がかき集めた情報によると、その体質、いや、能力には、様々なバリエーションがあるらしく、俺のように電気を出す者や、加賀美のように炎を出す者のみならず、他にも、風を操る者、物から記憶を引き出す者、予知を行う者等々、そのラインナップは多岐に渡るという。確かにオカルトマニアには垂涎モノの話だな、これは。
「そういえば、加賀美が妙な事を言っていました。レベルがどうとか」
「なにそれ。RPG?」
「さぁ」
所長は早速、部屋の隅から一本のコードを引っ張り寄せ、ノートパソコンに接続すると、あたかもジャズピアニストのごとき流麗な手捌きでキーボードを叩き始めた。ほどなくパソコン画面いっぱいに、見た事もない記号とアルファベットで埋め尽くされたウインドウが次々と展開される。ネットについてはせいぜいユーチューブと無料エロ動画を楽しむ位しか能のない俺には、まるで未知の世界だな、などと思いつつ、呆然とその様子を眺めていると、やがて所長は、とある書類を画面に呼び出した。
「ひょっとして、この事じゃない?」
それは、例の機関内部の資料であるらしかった。ここでは仔細の記述は省くが、書いてある内容は概ねこのようなものだった。
レベル一――自らの能力を、能力として自覚していない。場合により要監視。ただし拘束の必要なし。
レベル二――自らの能力について自覚がある。要監視。場合により拘束。
レベル三――自らの能力について強い自覚があり、かつ、人格を失いつつある状態。レベル四への過渡段階。要拘束。
レベル四――能力を制御すべき人格を失った状態。カミ。要抹殺。
早速、俺が属しているとされたレベル三の項目に目を通す。すると――。
え? 人格を失いつつある状態? レベル四への過渡段階? しかも、要拘束って。
自然、視線は最後の行、レベル四の項目へと吸い寄せられる。そこには。
「カミ?」
どうして。今の俺が、カミへの過渡段階? どういう事だ?
「カミって、何の事でしょうか? まさか神様の事じゃないですよね?」
「いや、神様の事でしょう。もちろん、一神教でいうところの絶対神の事じゃなくて、日本神話のような多神教に出てくるカミの方ね」
「でも、人間が神様になったりするんですか?」
「別に驚く事じゃないでしょ。死ねば誰でもホトケにはなるわよ、ってのは冗談で、古来からこの国の人々って、人間の力ではどうにもならない自然の力や未知の存在を、あまねくカミと呼んで、畏れ敬い、鎮めてきたでしょ?」
「え、そうなんですか?」
「そうなんですかじゃないでしょ、基本教養でしょう、そんなもの! んで、まぁその文脈から考えるに、自分を見失い、純粋に力を奮うだけの存在になった異能者を、自然災害なんかと同じように扱い、カミと呼んできたんじゃない? で、機関はその流れを踏襲し、そういった異能者を今でもカミと呼んでいる、と、大方そんなとこでしょうね」
「はぁ」
「で、あんたのレベルは、いくつなの?」
「え……」
俺は思わず返答に詰まった。とてもじゃないが、レベル三だなどとは到底言えない。自分自身、未だ、その事実を受け入れられずにいるというのに。
「ええと、一、って言われたような。だって、今までただの体質としか思っていなかったわけですし」
「ふぅん、じゃあ今はレベル二って事になるのかしら。自分の能力に自覚があるんでしょ? 今は」
「うーん。能力、という自覚はないですね……。やっぱり、これはただの体質ですよ」
ふうん、と、所長は気のない様子で鼻を鳴らした。
――レベル三。カミへの過渡段階。
もし、カミになっちまったら、俺はどうなってしまうんだろう。
想像できない。いや、したくもない。